272 噛み合わない歯車
「っはははぁ!! 良い景色ですねぇ!!」
暁の哄笑が響く。立ち込める黒煙と、張り巡らされた糸の数々。
この糸の先に何があるかをディルは知らない。不用意に動いては、女性二人の身に起きたような事が起きかねない。
二人の様子を窺う事も出来なかった。あの爆発をまともに受けていては、生きているかも分からない。
「亡き王妃殿下の弔い合戦と参りましょうか。ウチはもう、何だって、どうだっていいけど、王妃殿下から賜った恩義の数々は忘れていないつもりですよぉ」
「死人への恩義の為に死人を作るのか! 何処までも下衆な男だ……!!」
「仕えた忠義を忘れて弑する下衆に、そんな事言われたくないですねぇ」
暁の笑顔は、瞳が開いた皮肉の笑み。
彼にとって他人の命など、たった一人を除いて同程度の重さしか無いのだ。
年齢も、性別も、肩書きも、何もかもが、暁の前では意味を成さない。
「皆死ねばいい。国が沈むなら民も騎士も王族も露と消えるべきだ。そうすれば、きっと――」
心底楽し気に口走る暁。
しかし、その時だった。
「――誰が露と消える、だって?」
ディルと暁の鼓膜を揺らす声は低い。しかし、それぞれにとって思う事は変わる。
暁にとっては、折角分断したはずの敵が合流した。
ディルにとっては、やっと来た仲間。
「……どこ、です。何処に居るんです、アクエリアさん!?」
暁が声の出所を探る為に周囲を見渡す。頭を右に振っても左に振っても、ダークエルフの彼の姿は無かった。
右も左も姿が無ければ、見るべき場所はあとひとつ。
「――其処か」
上を向いたディルは、誰かの靴底を見た。爆発した箇所の丁度真上辺りだ。
浅黒い肌にくすんだ金色の髪、爆風に靡く毛束。顔までは見えない。
「遅かったな、アクエリア」
「………」
「汝の事だ、臆した訳でもあるまいと思っていたが、――?」
上空に居る人物は、確かにアクエリアの筈だ。ディルが離れた時と同じ姿形をしている。
いつもは軽快に言葉を返す彼の唇が、重い。
そして、彼と一緒に居た筈のミュゼとフュンフの姿が無い。
「ねぇ、ディル」
沈黙を挟んで聞こえた彼の言葉は。
「そいつ、俺に殺させろ」
今まで聞いて来た中で、一番殺意に満ちていた。
同時にアクエリアが手を横に振ると、ディルにも聞こえる程に何かが軋むような小さな音と、小さなものが叫んでいるような高音が僅かに聞こえる。
その高音は精霊の嘆き。無詠唱魔法で酷使される精霊が、ディルの耳にも聞こえる程の叫び声を挙げている。
「……。暁の首は、我が抑えている。汝の希望といえど、簡単に譲る気は無い」
「俺のミュゼが、そいつの人形のせいで死にかかってるんだよ。……今の俺は、お前を殺してでも譲って貰いたいと思ってる」
アクエリアの声は震えていた。ディルも、彼から齎された情報に目を瞠る。
ミュゼが。
自分とアルギンが血を残す、その先に生まれる子孫。彼女が、簡単に死ぬ訳が無い。でも、アクエリアはディルに向かってそんな悪趣味な冗談を言わない。
普段の人畜無害な振りを捨てても。
丁寧な口調を選べなくなっても。
そんなもの全てどうでも良くなる程、暁に対する殺意が抑えきれない。
「お前の嫁は、……アルギンは、生きてんだろ。じゃあ俺に譲れよ。俺が殺すだけだ、お前に不利益は無いだろ」
アクエリアのアルギンを思う言葉で、ミュゼの身にそれだけの危険が迫っている事が分かる。
暁を、殺したいと思う。
ディルだって、これまで妻と引き離された贖いを求める。暁の苦悶に、叫びに、慟哭にこれまでの六年間の慰めを求める。
アクエリアの想いは分かっている。一時期はディルにさえ恋敵のような視線を投げる程に、ミュゼへの想いを隠さなかったのだ。
昔は無いと思っていた筈の心が揺れる。そんなディルを黒の瞳で冷たく見下げながら、長い彼の指が鳴った。
ぱちん、と音が鳴ると同時、爆発した箇所で風が渦巻く。竜巻のように巻き上げられる風が煙を吹き飛ばすと、そこにはユイルアルトを庇うように上になり身を伏せているアールリトの姿があった。
「殿下……!」
「う、……」
ディルが安堵に息を吐く。僅かに漏れるアールリトの声は、まだ息がある事を伝えてくれる。
対するユイルアルトは身動きしない。
顔だけを上げたアールリトは、重い瞼を半分だけ開き、周囲を視線だけで確認した。
「……わたし、……いきてるの、?」
小さな囁きに、自嘲を含ませた声で答えるのはアクエリア。
「死にたかったなら死なせとくべきだったな。助けるだけ、時間と魔力の無駄だ」
「――……」
声の方を向いたアールリトは、開ききれない瞼を、大きく広げた。
そこにいる人物を、声の聞き覚えこそあれど判別できなかった。最後に顔を見た時から、容貌が随分と変化している。
エルフはエルフでも、ダークエルフ。
だいぶ昔に顔を合わせた事はある、城下に住んでいた男を思い出した。
母がその男について、一度だけ不用意に漏らした言葉。
『本当に、エイスは良く似ている』
何に似ているの? と聞いた時、母は。
『……お前に限りなく関係の深い話で、お前に最も必要のない情報だよ』
そう、寂しそうに呟いていた。
「爆発する糸、か。全部ぶった切るのも面倒だな、テラスが崩れられても困る」
「……」
「そこの二人。動けるなら動け。戦力外に居られても迷惑だ」
遠い時間に置き去りにした、母との記憶が蘇る。無言でくすんだ金色を見上げていたアールリトは、暫くの後にユイルアルトの体を揺すった。
幸いな事に、気絶していただけの彼女はゆるゆると目を開く。ディルの方へ行こうと、旗を目指そうとどちらにせよ危ない。
危なくても、やらなきゃいけない事が残ってる。旗はテラスから見える、頭上にあるいくつかの尖塔の中でも一番高いものに建てられていた。
まだふらついているユイルアルトに肩を貸して、二人でよろよろと壁際を歩く。外壁は蔦が絡んでいるおかげで、少し無理をすれば登れそうだ。
「……もう少し時間が掛かるかと思ってましたが、案外早く来ましたねぇ。あの二人も助けるなんて、色男は罪深い」
暁は、新手の到着に唇を歪ませていた。余裕の表情に見えなくも無いが、そのこめかみに冷や汗が伝っている。
暁は前線向きの能力を持たない。武力も速度も、人形がいてこその暁だ。大きく戦力を欠いた彼に勝ち目は薄い。
――ディルが、その時気付く。
人形は二体居た筈だ。ラドンナの姿が見えない。
「小狡い人形が、片方姿を見せないようだが。また奇襲などと考えているのかえ」
「…………」
暁は無言だ。薄気味の悪い笑顔も剥がれない。
「ラドンナは、ですねぇ。……ウチの、世界で一番大切な宝物を守っています」
「いつぞや言っていた、鈍い銀の毛並みを持つ猫の事か?」
「……ああ、猫。そう、猫。そんな事も言いましたねぇ。ウチの可愛い可愛い、大切な猫」
あの時、暁はディルがアルギンの所在に気付いている事を知っていた。
けれど煙に巻くような事ばかりを繰り返した。何度もはぐらかして、ディルが得たい答えがひとつも無い。
「暁。貴様は、我の問いに殆ど答えず今に至る。答え次第でも結末は同じであったろうが、今の我は貴様を殺さねば気が済まぬ」
「その言葉、そっくりお返ししますよぉ? ……貴方が居なくなれば、やっと、俺があの人にとっての一番になれる」
暁の苛立った声が届く。ディルは暁との距離を、目測で計算し始めた。
飛び越えるべき糸は見える範囲で六本。そのどれもが先程の罠のようなものに続いているかも知れない。
猪のように突撃しては危険だ。けれど、冷静ささえ保てば、ディルにも勝機はある。
そんなディルの計算を余所に、暁が声を張り上げる。
「ウチが欲しかったもの。望んだもの。ウチに手に入らなかったものを持ってる貴方が殺したい程に憎らしい!! 少しくらい分けてくれていいじゃないですか、沢山持ってる貴方からアルギン様くらい貰ったっていいじゃないですかっ!!」
暁の叫びに、ディルは途轍もない違和感を覚えた。
ディルが何を持っていただろう。借りたものと継いだもの以外は、殆ど何も持とうとしなかったディルだ。
手の中にあるものでディルが求めたのは、唯一と言っていいほどの存在だけだった。
それが、妻であるアルギンだったのに。
「戯けるのも大概にせよ!!」
途端に、怒りが、憤りが、ディルの胸から脳天に達する。
誰のせいで、何の為に、今まで苦しんだ。
生まれて来てからの地獄を帳消しにしてくれるほどに愛してくれた妻を、暁が奪った。
この六年間の恨みが、暁の言葉で更に募る。
「戯ける……? 冗談じゃない! 貴方こそ今更何だってんです、アルギン様が生きていても、気付きもしなかった癖に!!」
「気付かせまいとしたのは誰だ! 我が妻を私欲で取り上げた愚物がっ!!」
「そんな事言ってるから貴方は駄目なんですよぉ!! あの方の事を何も知らない癖に! あの方がどんな気持ちで今まで居たかも知らない癖にっ!!」
二人の会話は噛み合わない。けれど怒りの質量は同じだった。
一人の女を巡って譲らない二人。彼女を想う気持ちは、二人とも変わりない筈。
平行線を辿る会話は途切れる。憤りをそのまま声に出した二人は、息を整えている。
「……何を、知らぬと言うのだ。言われねば分からぬ。何があったかも、話されねば理解出来ぬというのに」
糸の向こうで、暁がそれまでの怒りの表情を消して微笑む。粘質の笑みは、見るもの全てを不快にさせるものだった。
「……でしょうね。貴方は何も、気付かない。知らない。知ろうとしない。そんな男を、アルギン様の側に置きたくない。ウチは、あの人を愛している。貴方と一緒に居たって、もう、あの人は幸せになれない。――絶対に」
微笑んだまま、朗々と宣言する暁の言葉。
「だから、言わない。そんな風に鈍い貴方を、アルギン様の所へ行かせない。断言しますよ。今の貴方は必ず『アルギン様を殺す』」
――呪いだった。
怒りに任せて走り出そうとしたディル。
しかし、暁の宣言を聞いた瞬間に、左足から力が抜けてしまった。がくん、と足首の位置から足が前に曲がり、それまで以上の重さを感じて上がらない。
「っ……!?」
それが何だったのか、その時の頭に血が上ったディルでは判断できなかった。
左足に体重を掛けた瞬間に、膝から崩れ落ちる。踏みとどまる事も出来ず、そのまま床に胸を打ち付けた。
剣の切っ先を床に立てぬよう、横にしたまま共に倒れる。手から離さずに居られたのは幸運だった。
「っ……、ぐ……!!」
小さな声で呻くディル。体は痛みを訴えるが、それどころではない。
アクエリアから言われた事を思い出した。『自壊の魔法が掛けられている』と。
聞こえた言葉がその発動の為の文言としたら、悪趣味この上ない。けれどその文言について文句を言う事も、床に叩き付けられるディルには出来なかった。
左足の義足が、文字通りの足を引っ張る鉄塊と成り下がったのだ。
「あっはははは!! ディル様、無様ですねぇ!! 貴方のその姿を、ウチはどうしても見たかった!!」
狂ったように笑う暁の声は不愉快だったが、ディルに焦りなど微塵も無い。
床に転がっているだけでいい、と思ってしまった。今は、まだ。
「――アクエリア」
彼が、近くに居るのだから。