270 持つべき覚悟と知るべきではない影
「繰り返す。……ロベリアを、傷付ける行為は止めよ。其れ以上は、騎士にも許されぬ下賤な行為だ」
ディルは続ける。
王女に声が届くまで。
声が届いたと判断できるまで、ディルは続けるつもりだった。
「騎士を従える姫が行う行為では無い。続けると言うのならば我も止める」
「……ディル。そう、ディル。……貴方は私を止めてくれるつもりなのね。ありがとう、その言葉でだいぶ救われるわ」
ディルの言葉に偽りは無いと知っているから、アールリトの表情が和らぐ。
「許せないのよ」
「……」
「私は、私を次期国王として祭り上げる人も、私を遠巻きに見るだけで助けてくれない人も嫌よ。ずっと昔から私は物知らずの子供だって言われて来たのに、今更どうして女王になれって言われるの? ロベリアだって、叔母様達だって助けてくれなかった。私の側に居てくれたのは、……ヴァリン兄様と、アンだけだったのに。もう二人とも居ないじゃない。どうして私と同族って言われてる人やその周囲が、私が失って悲しむ人達を取り上げるの?」
二人を愛称で呼ぶほどに、心を許していた。
心を許したアルギンの夫であるディルだから、こんな弱音を吐ける。事情を知る人物でもあるから。
「婚約者も、兄も、大切な友人も、矜持も夢も希望も何もかもを奪われても尚、私はプロフェス・ヒュムネに利用されるなんて冗談じゃないわ!!」
成人して間もない女の嘆きは、その場に響いた。
この声を聞いているロベリアは何を思っているのだろう。此の期に及んでも、アールリトに王妃の志を引き継げと言った彼には心などといったものを期待するだけ無駄かも知れないが。
嘆くアールリトの手を掬ったディルは、その場に恭しく片膝を付く。目の前の光景に呆気に取られたアールリトは、一瞬息をも忘れて目を瞬いた。
「我に手を引かれるのは厭かえ。……汝の希望する道ではないかも知れないが、悪路の先導は得意だ」
どんなに険しい道だろうと、ディルならば歩くだろう。
アールリトに要求されるのは、彼の速度に付いていくこと。それが叶うなら、彼はどんな露でも払ってくれる。
ディルに見合わない気障ったらしい言葉にアールリトは微笑んだ。妻に愛の言葉ひとつ囁けなかった癖に、どこで覚えて来たのだろう。
「……貴方は私を傷付けないから、手くらいは大丈夫。でも、貴方の行く道になんて、喜んで付いていくのはアンだけだわ」
「……其れは違う」
確実に、ディルはアールリトが最初に知った頃の彼ではなくなっている。
「アルギンは、用意された舞台上で自ら歩む道を作る。そして我の手を振り払って走るのだ。……今度こそ、我は其の手を離しはしない」
ディルを変えたのはアルギンで、その笑顔の有無でディルがまた変化する。
互いを補い合うような、似合いの夫婦だった。それが崩れた時が、アールリトの記憶にも強く残っている。
「行こう、殿下。果たすべき行動は未だ残っている」
「……ええ」
ディルは一度だけ、ユイルアルトに視線を向けた。
まだ魂が抜けたような顔をしている彼女だが、この場に置いて行くのも不安だった。でも、ディルには彼女を匿っている余裕が無い。
「――ユイルアルト」
言葉に含ませた裏の意味に、彼女が気付くかも分からない。
「覚悟を決めろ。でなければ、汝はパルフェリアから戻って来るべきでは無かった」
自分の意思で、共に立つ事を選んで欲しかった。
言葉を掛けた後、ディルはそれきり振り返らない。アールリトの手を引いたまま、道を進んでいく。
アールリトも、一度だけ振り返った。敵とも味方ともユイルアルトを見ていない、冷たい瞳で。
「……」
残されたユイルアルトは、言われた覚悟について考えあぐねていた。
何を以て覚悟というのか。その答えは一人では出そうにない。
今更戻る場所なんて無くて、一人では戻れもしない。どこに行けば良いかなんてわからない。
呆然とするユイルアルトの耳に、呻き声が届いたのはその時だ。
「っ……あ、あ、あああ………う、あ」
「……」
苦痛に呻くロベリアがそこにいた。
痛いだろう。『痛い』では釣り合わない苦痛の筈だ。どこもかしこも貫通傷だらけで、尚も床を這って動こうとしている精神力には目を瞠るものがある。
アールリトの暴虐の末路とも言える、ロベリアの悲惨な姿。
もう、ユイルアルトの手でも救ってやれないだろう傷。
「……」
血溜まりを藻掻く彼の手足の形に、血が跡を作る。
荒い吐息に混じる苦悶の声は、ユイルアルトの無力感を引き起こす。
もう助けられる筈はないロベリアから目が逸らせない。まだ若く見える彼の、短い命の灯が尽きようとしている。
「っ……どう、……して」
「……」
「ぼく、は。……僕はっ。ぼく、たちの、っ。してきた、こと、がっ……、間違いだ、なんて……思われたくないっ……!!」
「……」
ロベリアは、自身の痛みより、嘆きより、種族としての拒絶を叫んだ。
ここまで彼を駆り立てる、プロフェス・ヒュムネ達の苦しみは、最初から手段を間違えていたのに。
「……間違い、ですよ。誰かを傷付けると分かっていて、実際傷付けて、それでも同じことをしていたのでは、間違いとしか言えません」
「ぼくたち、だって……! 傷付けられた!! この恨みは、晴らされなければならない……!」
「貴方達だって無関係の人を巻き込んでいるのに? ……恨みを晴らしたいなら、関係者だけを纏めて復讐しないといけないんじゃないですか。それでアールリトさんを、復讐の道具にしようとしているんです?」
苦痛に喘ぐロベリアは、それ以上言葉を連ねるのも辛そうにしている。視点も不確かに、ユイルアルトを睨みつけて顔を伏せた。
「……マスターに、……覚悟を決めろって、言われたんですよ。私」
ユイルアルトは瞼を伏せた。ごくり、と喉が鳴る。
ディルの言いたい事が分かった気がした。
自分だって、ヴァリンと『契約』した。彼から様々なものを奪った世界に復讐するのだと。彼だって巻き込みながらも巻き込まれた側だ。
彼と結んだ『契約』は、死が二人を別った今も有効だ。
「っあ、ああ。嫌だ。紫廉、いやだ……僕は、僕は貴女と……。ああ、痛い……いたい……紫廉……嫌だ……痛い……」
ロベリアの口にする名前が、誰を示すのか分からない。
けれど愛しそうに呼んだ意味くらいは分かる。
苦痛に蠢く彼を助けたいと、医者として思う。
でも、手の施しようがない患者に対して、ヒトとして、してあげられることはひとつしかない。
「……もう、楽になりましょう? 痛いですよね。ごめんなさい、貴方を私は治せない。でも、楽に……してあげる事は出来る」
「……」
ロベリアは、その言葉の意味を理解した。
理解して。
「……おねがい、します……」
囁くような声で、懇願した。
ユイルアルトは小さく頷く。
「承知しました」
プロフェス・ヒュムネ達の企てが、間接的にロベリアの命を奪う。
ユイルアルトは彼の側に歩み寄り、伏せる背中に手を置いた。
「『パルフェリア、パルフェリア。契約行使、契約行使。貴女の力をお借りしたい』」
――それは、彼の地でユイルアルトが手に入れた、ヴァリンとの契約の結果。
これまでユイルアルトが作っていたような薬では無いが、プロフェス・ヒュムネを害する事が出来るものに違いはなかった。
ユイルアルトの声に呼応するように、周囲に白い大気を固めたような球状の光が三つほど現れる。人の頭程度の大きさのそれは、アールリトの光の時のように付き従っている。
「『パルフェリア。ありがとう』」
唱えると同時、球状の光がロベリアの体に下りる。頭、足、胴、と三つはそれぞれの場所に分かれて、体に触れる。
途端に、その光は高音と共に破裂した。中に押し留められていた何かがロベリアを包むように広がり、途端にロベリアの動きが止まる。
「……」
穏やかな空気の動きだが、周囲の温度は冷え切っている。しかしその光を使役していたユイルアルトには、何も影響がない。そっと手を離して指先を見ても、変化が訪れているように見えない。
光の中に留まっていたのは、超低温の液体だ。海さえも凍り付くよりも遥かに低い温度でしか液体になれないそれがロベリアの体を包み込めば、後に起きる事は想像に難くない。
静寂が周囲を包み、液体が空気に触れて気体に戻る頃に、ユイルアルトが立ち上がった。
「……待って! マスター! アールリトさん!!」
ロベリアに振り返りもせずに、二人の後を追う。
これは、パルフェリアから受け取った贈り物のひとつだ。ユイルアルトが先程の文言と彼女への感謝を口にすれば、五回まで超低温の液体を召喚できる。
本当は、ヴァリンの役に立ちたかった。もう叶わないなら、自分が信じる正しい事の為に使いたい。自分が綺麗な手のままでいられない事は分かっている。
何が起きても。
誰が死んでも。
もう、縋りついてアールリトを止めるような事はしない。
「私も行きますっ!!」
この先に待っている地獄を、一緒に見届けるために戻って来た。
ディルとアールリトの背中は、少し走ればすぐ見える。
ユイルアルトの覚悟を待っていたようだった。表情の変わったユイルアルトを、二人は安堵の表情で迎えた。
三人が揃って進もうとする道の先に、テラスに通じる廊下がある。
ふと、ディルがヴァリンの言葉を思い出した。
「――旗」
「え?」
城を制圧し終わったら、一番最後の仕事に旗を落とすと言われている。
その時に合流する約束は、もう叶わないけれど。
「旗を、先に落とす。制圧はし損ねているが、旗を落とせば兵の士気に関わる。士気の下がった軍隊は脅威にならない」
「兵って……、戦ってる皆が騎士や士官って訳じゃないのよ? プロフェス・ヒュムネに騎士の道理が通用するかしら」
「プロフェス・ヒュムネとて反応はするであろ。二十年前に国を落とされた者達だ、旗印の重要性は分かっている筈」
戦線を知らない女性二人は、ディルの言葉に半信半疑だ。
しかしディルは続ける。
「無益な争いは、国を疲弊させるのみ。……落として敵の士気が削がれる事はあっても、我等にとっての悪影響が起こる事はあるまい」
騎士としての経験を持つディルの判断に任せる事にした女性二人も、ディルに並んでテラスを目指す。
しかし、まだ三人は知らなかった。
「――……」
秋空のテラスに佇む、雪色の髪。そこだけは城内の争乱も城下の混戦も届かない。
その場にいる人物は、他の何もかもが他人事であるかのように中央に立っていた。
姿勢良く立つ彼の腕は、片方を広げ、片方を緩く前に差し出す。それは相手の居ないひとりきりの舞踏の体勢のようだった。
お世辞にも上手いとは言えない、舞踏の為の音楽が彼の鼻から聞こえる。
この場に居ない誰かの為に用意させた舞台であるかのように、その人物は振舞っている。あまり得意ではなさそうな舞踏も、相手が居ないのであれば問題は無い。
「……あー」
ディル達は、知るべきではない。
「アルギンにも見せて差し上げたかったですねぇ。あの人が守ろうとして全てが、血煙に変わってしまった様を」
テラスには黒を纏った、ディルを待ち構える影がひとつあることを。