268 死を願う怨嗟の声
ディルは、アールリトとユイルアルトから離れた場所に移動していた。
そうしないと彼女達を巻き込んでしまうと思ったからだ。
ディルの中では、次期国王候補にまでなったとはいえアールリトは戦場を知らない小娘のまま。ユイルアルトとて血に慣れていようと矢面に立つ仕事ではない。
そういうものは全て、ディルの仕事だと思っている。
「っ、ふ!!」
ただ一人を見据えて剣を振るう、互いの剣が光を置いて行く。銀色の閃きを連れる剣先を避けるのも久し振りの感覚。
ディルとここまで互角に戦えるのは一人しかいない。肌を灼くような緊張感が、彼の一挙一動と共に体を駆け抜ける。
それまで、言葉は無かった。近況報告も、互いの立場への問答も、今の二人には不要。挨拶の代わりの最初の一撃は、ディルが加えた。
カリオン・コトフォール。
彼が剣を握ってディルと対峙している、それだけで答えが出る。
彼は今、ディルの敵だと。
こうして剣を交えるのは、御前試合の時以来だった。あの日は刃を潰しただけの鉄塊もどきだったが、今日は互いの愛剣が手元にある。始まるのは、あの時以来の殺し合いだ。今回は、誰も止める者が居ない。
どちらかが倒れるまで、終わらない。
「随分優しくなったものだね」
ここで漸くカリオンの口から出て来た言葉は、ディルが場所を変えようとしたところにある。誘導するように階段から離れて、アールリトとユイルアルトの二人から距離を離した。
今のカリオンならば、二人を巻き込むことも厭わないと判断しての事だ。
「君が優しかったのは、アルギンさんに対してだけだと思っていたよ」
妻の名がカリオンの口から出た瞬間、剣を握る手に力が籠る。
振り抜いたディルの剣先が、カリオンに阻まれた。硬質な高い音をさせて弾かれたその力のまま、二人の間に距離が開く。
「……」
挑発だと分かっている。
最愛の人の名で簡単に揺らぐような心持ちだと思われることが一番の不快。
妻はディルにとっての聖域で、今のカリオンが呼ぶことは許せない。
見え透いている安い挑発に乗るつもりは無かった。けれど。
「そんなアルギンさんも、君以外に想う人が出来てしまったなんて悲劇だね」
カリオンだって、伊達に二人の仲を見ていた訳では無い。ディルが言われて腹に据えかねる話を幾らでも知っているし、度が過ぎた挑発に乗るディルを見て来た。
他に相手がいる、なんて言葉は冗談にしては度が過ぎる。
は、と吐き出した息が怒で震えた。たった一言で、ディルの怒りが頂点に達しようとしている。
「アルギンは、我が妻だ」
「生きていても、戻って来ないのに?」
息継ぎの時間稼ぎのように、カリオンは口を閉じない。
「暁と一緒にいるんだろう? 私も聞いてしまったよ。……でも、おかしいだろう。今の今まで、自分が生きていると誰にも伝えなかった。城に居る私でさえ知らなかったんだ。知らせれば絶対に誰かが動いた。あの王妃殿下でさえ、彼女を偲んだほどだったのに。誰かに伝えれば確実に君の許へと帰れただろう。……でも何故伝えなかったのか?」
カリオンの肩が、呼吸の度に上下する。
ディルの足は、その口が再び戯けた事を言わないうちにと床を蹴った。けれど、それも間に合わない。
「答えは簡単だろう。言う必要が無かったんだ。暁の側が居心地よくて、彼女は満足してしまったんだよ」
不快感を与えるためだけの言葉が選ばれて、カリオンからディルへと届く。
その不快感が原因かは分からないが、不快な口を叩く相手を狙ったディルの剣先は躱されてしまった。大きく踏み出した歩幅から繰り出された一撃は、カリオンの肌さえ掠められない。
「男の嫉妬は見苦しいよ、ディル」
「……貴様の温い寝言に、耳を貸す心算など無い。アルギンが暁に心変わりなど、万にひとつも無い」
「この世には『絶対』や『永遠』は無いよ。君も、アルギンさんを失った日に気付いた筈だろう?」
くく、と喉を鳴らし、ディルの追撃を避けるカリオン。息継ぎの合間に反撃を繰り出しても、それはディルの胸元を掠るだけで終わった。
布地を破るだけで終わったその裂け目から、鎖に通した妻の結婚指輪が覗く。
「……」
彼の一閃に違和感を覚える。狙いがあまりに甘い。
ディルの知っているカリオンだったら、服を掠るだけでは済んでいない筈だ。
「何を考えてるか分からない男より、分かりやすく自分を愛してくれる男の方が安心するだろうね!!」
カリオンの分かりやすい挑発も。
今まで考えないようにしていた、自分の生を知らせない妻への疑念も。
その指輪の存在の前には、無意味だ。
「全部、あの日が悪かったんだ。私は今日まで、あの日の自分を責めなかった日は無いんだよ、ディル」
「……」
「私にもっと力があればと願った。でも、もしこの場で君を倒す事が出来たら――私は、もう何も失わなくて済む気がしてるんだ!!」
失い続けて、守れずにいて、彼だって縛られ続けているのに逃げ出そうともしない。
今までカリオンを苦しめてきたのは、自分の立場や境遇や、それらに耐えられなかった自分自身。
こんなに職務への責任感が強くなければ楽だったろう。代わりに、騎士団長になることも無かっただろうが。
「――下らぬ」
鼻で一笑に付したディルは、手に籠っていた力を緩めた。
こんなにも無駄に力が入っていれば、狙いが逸れてしまいかねない。
代わりに義足の方の足に力を入れる。軸になる義足に籠った力が、腰を捻る速度を速めた。
「はっ!!」
怒りも、苛立ちも、反論の代わりに蹴りに籠める。
カリオンを狙う生身の足は、彼の脇腹を捉える。回し蹴りだというのに桁違いの速度で、逃げ損ねた甲冑が音を立てる。
「っ、!」
ディルが蹴ろうと、相手は騎士の鎧を身に付けている。衝撃はあれど、打撃として効果が薄い。
僅かよろけただけのカリオンだが、ディルの狙いはこの一撃ではなかった。
「――な、!?」
一撃を喰らわせたディルは、そのまま剣をその場に放り投げて跳躍した。
床から離れた義足が上がる。生身から義足に切り替わった蹴りは、カリオンの頭部を狙った。
「――『砕』」
すべて。
カリオンの矜持や歪んだ希望ごと、その腕を、砕く。
「――っ、ふっ!!」
魔宝石が、服の下で輝きを増す。
刃物と同程度に研ぎ澄まされたディルの蹴りは、カリオンの頭を粉砕するには至らなかった。
寸での所で頭を庇った彼の腕が、砕けるような音がする。目を剥いたカリオンの体が、横に吹き飛んだ。
「っ、ぐ、は、っ、ああ、あああああああああっ!!」
「……」
着地したディルは、床を滑り転がるカリオンを見送った。壁まで吹き飛ばされて、やっと止まる。
唸り声を上げる彼は、肘を床に付いて尚も立とうとしていた。けれど、もう肘から上は動きそうにない。
「カリオン。……汝は、何故我と道を違えた」
勝敗は決したようなものだ。
痛みに呻き、耐えきれぬ苦痛に嘔気さえ催している。落ち着きのない髪の毛先が、絶叫に合わせて揺れていた。
剣に迷いが生じるのならば、最初から剣を向けるべきでは無くて、ヴァリンを殺す必要も無かった。
カリオンには、完全に敵として対峙して欲しかった。揺らぐ心を剣に見せられては、ディルも殺せない。
「っ、は、……あ、あああ」
「王妃に迎合するような腑抜けだったかえ。王妃が夢見たプロフェス・ヒュムネの国に、汝は何を夢想した」
迷いさえ無ければ、きっとカリオンが勝っていた。
これまでディルが剣を置いていた空白期間は、埋めきれぬものの筈だった。
床に転がるカリオンは、ディルを見ない。それは痛みを堪える為か、向ける顔が無いと思っているのか。
「……っ、私、は。……私はっ。もう、誰にも、死んでほしくない。その為の国を、作らねばならない。騎士団長として、私は、もう、誰も見送りたくない」
「……」
「アルギンさんが、っ。……もっと、早くにっ。……もっと、私に……王妃殿下に、取り返しのつく頃に、生きていると知らされていればっ……!!」
それは怨嗟だった。
もっと早く。
もっと。
誰も彼も、道を違えぬうちに。
王妃はアルギンの生を知らぬうちに、ディルの手に因って討たれた。もし彼女がアルギンの生を知っていたら、殺す必要さえ無かったかも知れない。……プロフェス・ヒュムネの国を作ろうとするまでは。
全てが遅すぎたのだ。王妃は死に、カリオンはもう剣を持てない。
「……全ては暁のせいであろう。我が妻を取り上げて、汝等をあらぬ道へと走らせた。もう、此の国は終わりだ。他者を蔑ろにする崇高な意志の元、王政は滅ぶ」
次期国王は出奔を画策し、国王嫡男は殺された。他でもない、強い国を願った騎士団長の手で。
止めるべきだったのだ。カリオンだけが止められた筈だった。
「見送りたくないと願った、その想いの結果が此の城に築かれた屍の山だ。……初期投資になるはずだったにしろ、余りに死に過ぎた」
殺し、殺され。
騎士の仕事は仲間内で首を刎ね合う事では無い。
国にとっての剣であり、民にとっての盾は瓦解した。王政も、騎士制度も終わるだろう。全て王妃の企みが失敗したから。
「汝は、単に殺すよりも生かした方が良いようだ。……命有る限り、自責の念に駆られながら生きるが良い」
「っ、は……!? ディル、っ。私は君に、負けた! 敗者は、殺されるべきだ! 私は、そう有るべき罪を犯した!!」
「死して汝は何を残す。汚名を受けて謗られる未来から逃げるだけでは無いかえ」
逃げるだけなら簡単だ。命を失えば何も感じない。
けれどディルが許さない。カリオンは、ヴァリンを殺した。
「騎士団長として責務を果たせ。謗りを全て受け止めろ。投げ捨てた誇りの残滓に縋りつき、死ぬまで後悔しろ」
ディルの言葉は、カリオンの安くて軽い挑発よりも遥かに重い。
目を背け、放棄し、それが国の為と問題を挿げ替えていた騎士団長の心をも粉砕していく。
「所詮汝は、自らの立場を見失った外道に過ぎぬのだ」
「……――。げ、どう」
「汝に使っている時間すら惜しい。我の剣の錆にするには、小物過ぎる」
ディルはそれだけ吐き捨てて、元来た道を辿る。置いて来た女性二人が気になるからだ。
カリオンはまだ立てない。苦痛を置き去りに、カリオンを殺すに値するディルが去っていく。
「――っ、は」
謗りも、自責も。
目的が叶えば、受け入れるつもりでいた。
何も叶っていない。叶ったとすれば、ディルとの再戦だけだ。それも敗北で終わった。
「……は、ははっ。ははははっ!!」
痛みが、ただ眠る事を許さない。気を失ってしまいそうになっているのに、今まで見過ごしてきた怨嗟の声が耳に届くようだった。
痛いのは腕だけではない。胸も、頭も痛い。その痛みに名前を付けるなら、絶望という名が相応しい。
「私は!! ……何の為に!! 今までを過ごして来たんだ、ディル!!」
自分が辿って来た道を振り返るのが、恐ろしい。
「私は何故、無様に這いずっている!? 君に殺されるなら本望だった、でも何故殺してくれないんだ!!」
ディルに、もう声は届かない。
彼との対決の後の勝利か、それとも敗北からの死か。どちらかを望んだのにどちらも与えられない。
無様、以外に言葉が無い。
「戻って……、戻って来てくれ、ディル!! 殺してくれ!!」
願いはもう叶わない。
自分さえ、誰の願いも叶えて来なかった。
「私を、殺してくれっ!!」
意識が途切れるその瞬間まで、カリオンは叫び続けた。
叫びが聞こえど、その慟哭に耳を貸す者は誰も居なかった。