29
最悪。
最悪、最悪、最悪。
最悪!!
三人から見えない程度離れた川縁に逃げたユイルアルトは、その場に膝を付いて両手で水を掬った。晩春とはいえ清流は冷たく、それを顔にぶちまければ頭も冷える。何度も頭の中で最悪最悪と叫んで、飛沫で濡れた髪を掻き上げた。
幽霊の類には、これまで誰かがいる前では絶対に反応してやらないと思っていた。そういうものが見えない相手にとっては、異常に見えるのはユイルアルトの方だった。医者の不養生を指摘されるのも、更に頭の病気を疑われるのも嫌だったからだ。
実際、今居る面々の中でもルビーの声を聞くことが出来たのはユイルアルトだけだろう。王子殿下に対する発言内容としては不敬が過ぎているから、誰も反応しないという事は無い筈。
「………あー」
顔は当たり前だが髪も服の袖や胸元も濡れてしまった。拭く物を何も持って来ていないので、手で乱雑に拭っては雫を飛ばす。袖は捻って絞って、胸元部分も摘まんでちまちまと絞っていく。夜になり行く外気では、少しずつ体が冷えてしまって。
「………貴女のせいですからね」
憎々しげに口にするのは、ルビーに対する恨み言。
すると彼女からの言葉もすぐ返ってきた。
「そんな反応されるなんて思わなかったから。ごめんごめん、人と話すのは久しぶりだから距離感が掴めなかった。次から気をつけまーす」
「……マゼンタさんやオルキデさんと話せるんでしょう」
「あの二人、今のあたしに興味なんて無いから話し掛けても無視だよ。これまでのイルだってそうだったでしょ、もう死んでる幽霊と交流したって、何も得しない」
ルビーは、その辺りの自分の立場も分かっているようだった。しかしこうしてユイルアルトと接しようとしているのは、それだけ彼女にとって『箱の中身』とやらが重要なものだからだろうか。
しかし分かっていながらこの馴れ馴れしさなのだ。当たるなら他を当たって欲しい。
「……前、マゼンタさんに貴女が見える事を話したことがあるんですよ」
「へぇ? なんて言われたの。何となく分かるけど」
「貴女の事を話すのは、ヴァリンさんの為にならないと」
背後にルビーが居るのは分かっている。でも、振り向くことは出来なかった。
いつも文字通り、『崩れたような顔』で酒場に居るのを知っていた。手を重ねられた時見たそれは、生きている人間のそれではなかった。日常を平和に暮らしているものが受けるような傷ではないものがあったのも、見た。それは医者をやっているユイルアルトでも見た事が無い酷い傷だった。
その姿を視界に収めたら、ユイルアルトに恐怖が襲うだろう。生と死で分かたれ、死に取り込まれた側の者の姿なんて見てしまえば。
「うん、大正解。分かってんじゃんマゼンタちゃん」
「……何故、彼の為にならないのです。……とは言っても、何となく想像はつきますけれど」
「ふーん、想像つく? あたしの事何も知らないのに?」
「ルビーさんとヴァリンさん、恋人同士だったんですね」
探るような声の調子だが、ユイルアルトの勘が導き出した答えだ。
しかし、ルビーの反応はユイルアルトが想像していたものと違っていて。
「……ぷっ。あははっ。そっかー、イルでもそんな風に考えちゃうんだ?」
「ルビーさん、……違うって言うんですか」
「違うよ」
その時だけ、ルビーの声が変わった。
とても冷たい、情を感じさせない声。今までが馴れ馴れしい声だとしたら、それはまるでギルドのマスター・ディルの事務的な発言を思い出させる声色。
「あたしは今まで、ヴァリンに情を寄せた事は無い。あいつも好きだとか愛してるとか、そんな腑抜けた事をあたしに抜かした事は無い。あたし達はそんな仲じゃない。だから」
その声色で言う言葉は、どう聞いても。
「だから、あいつを貶めるような事を言わないで」
ヴァリンただ一人を、尊んでいる。
自分の立場を下に置いてでも、もう自分は死んでいるというのに。
「……言葉が悪かったですね」
それで察せないユイルアルトでもない。
「ルビーさんが、ヴァリンさんを好きだったんですか」
返事は無かった。
恐る恐る振り返っても、そこには誰もいない。
ルビーはユイルアルトの言葉にどう感じて去ったのだろう。的外れた言葉に憤慨したのか、図星を指されて気まずくなったのか。
待っても返事は返らない。
そろそろ体が冷えて辛くなってきた。大人しく、三人の元に戻る事にする。三人は、少しユイルアルトの様子がおかしい事に気付いていながらなにも聞かずに迎えてくれた。
食事と食後のコーヒー、それから簡単な清拭を終わらせると火を消して、幌馬車はまた出発する。暗闇で道の先が見えにくいというのに、ヴァリンは出発すると譲らなかった。今からの御者役を引き受けたヴァリンは、荷物のひとつを御者席に持って行った。それを見てユイルアルトが唇を引き結ぶ。
ルビーが頼み事をしてきた箱だろう。相変わらず手放そうとしないヴァリンの様子に、ますます二人の関係の謎が深まるばかりだ。
「……ユイルアルトさんとジャスミンさんは、こちらでお眠りください」
揺れる幌馬車の中で、荷物で簡易的な仕切りを作られた。前方七割が女性二人の専用地のようになっており、残り後方の狭い範囲がフィヴィエルの仮眠場所だ。とはいえど、彼は護衛の仕事で付いてきたのだからのんびり寝てもいられないのだろうが。
「……、ありがとうございます」
ジャスミンが素直に礼を言った事に、ユイルアルトがまず驚いた。
ユイルアルトの知るジャスミンは男性恐怖症で騎士嫌いだ。男を元から苦手に思っていたらしいが、ヴァリンが言い寄ってくる事でそれが更に酷くなったそうだ。それがフィヴィエルには態度が軟化しているような気がする。
……ヴァリンの尊大な王子としての振る舞いで困らされているフィヴィエルに、似た者としての同情心が沸いているのかも知れないが。
ジャスミンは早々に横になった。けれど寝れるようでも無く、目を開けたまま何を言うでもなく毛布を掛けて転がっている。
ユイルアルトは。
「……フィヴィエルさん」
荷物の仕切りに身を乗り出して、フィヴィエルに声を掛けた。
彼も幌に背を預けて毛布を掛けていた状態だが、ユイルアルトが覗いてきた事に驚いているようだ。
ユイルアルトとしても、騎士は嫌いだし男も好きではない。でも、どうしても聞かずにいられない事が有って。
「何でしょう?」
「……ルビーって名前の女性に心当たり、無いですか?」
騎士であるフィヴィエルなら、ヴァリンの私生活を知っていてもおかしくはない。それに今話を聞けそうな人物はフィヴィエルしかいないから聞いてみたのだが。
「ルビー? ……いえ、その名前は存じ上げませんね」
どうやら外れだったらしい。しかし、名前で心当たりが無いのなら、こっちでは。
「こんな感じの香水付けた女性の筈なんですが、嗅いで頂けますか」
そう言いながら、ユイルアルトが自分の荷物の中から小瓶を出した。
中には酒と果実が入っている。ちょっと無茶な調合だが即席の果実酒だ。用意してから一日二日では、しっかりした果実酒の味にはなっていないだろう。
蓋を開いて、フィヴィエルの方向に向ける。遠くから一嗅ぎしたフィヴィエルの口から出てきた言葉は。
「……任務中なので飲めないですよ」
そんな間の抜けた言葉。
「飲めって言ってないです嗅げって言ってるんです」
「え? あ、はい」
もしかして、この男眠いのか。そんな疑いが頭をもたげる。暗がりで分からなかったが、よく見ればとろんとした目をしていて、コーヒーの一杯だけでは眠気覚ましに足りなかったようだ。
渋々鼻を近づけて、瓶の中身を嗅いだフィヴィエル。―――途端、瞳が見開かれる。
「……これ、何ですか」
フィヴィエルの瞳が、眠気を取っ払ったように見開かれている。
―――当たった。ユイルアルトが内心喜んだ。
私室でルビーが遺していった香りを元に、酒場の厨房にあるものでなんとか再現してみた香りだ。勿論、本物のルビーのそれと比べると段違いに質は悪いが。
しかしそれでも、フィヴィエルの中ではひとりの女性の姿が浮かんだらしい。
「果実酒に、潰した果実とか薬草とかあれこれ漬けこんだんです。結構似てるように作れたみたいで良かった」
「……ああ、お懐かしい。あの方の側を通る度、この香りと似たものが漂ったものです」
「あの方?」
ユイルアルトがとぼけて聞いてみた。フィヴィエルの中で、この香りで思い出す女性はいてもルビーという名前で思い浮かぶ顔は無いらしい。偽名を使われていたと分かってはいたが、漸くその名を聞けそうで安心する。
「……ソルビット様。今は解体された『花』隊の副隊長をされていた女性です」
「ソルビット………?」
「あの方が功績を讃えられ呼ばれた二つ名は『宝石』。とても美しい方で、波打つ茶髪が印象的な方でした」
茶髪、と聞いてジャスミンが起き上がった。ユイルアルトがその音に振り返ると、彼女の顔は驚いた表情になっている。
『頭を見ながら口説かれている』と言ったジャスミンの違和感は、それで半分答えが出たようなものだった。
ソルビット。『宝石』。なるほど、それでルビー。
ユイルアルトの中でも、謎がひとつずつ解けていくのを感じていた。
「……その、ソルビットという女性は、今どちらで何を?」
聞くべきことは幾つもある。しかし先に、そのソルビットという女性の所在を確認しておく必要があった。
フィヴィエルは僅か顔を下に向けて、重そうな口を開く。
「……亡くなりました。もうすぐ六年ほど経とうとしてる、帝国との戦争の時に」
「戦争……?」
「……」
ジャスミンがぴんと来ない顔で復唱する。ユイルアルトは、緊張で生唾を飲んで唇を閉じた。
他に聞かなければならない事は、幾らでもあった。
けれどユイルアルトの中で、その興味が勝ってしまう。
「……その、ソルビットって女性は、ヴァリ……アールヴァリン殿下の事が好きだったのでしょうか?」
ルビーが。
ソルビットが。
ヴァリンに執着している理由が知りたくて。
けれどフィヴィエルは首を横に振る。
「……もしそうであったとしたら、あの方はあのような死に方を選ばなかったでしょう。そして、殿下がああまで悲しむことも」
「『ああまで』……?」
「想いを寄せていたのは、………」
歯切れも悪く、続きを言わないフィヴィエル。暫くの沈黙の後、彼は再び左右に首を振る。
「王家の醜聞を、僕が言う訳には行きません。それに、もう居ない人の話です。僕の口からは、とても」
「そこまで言っておきながらですか」
「……殿下も、ディル様も。あの戦争さえなければ、今頃は幸せな家庭を築いていらっしゃったかも知れませんね……」
やや責めるような言葉に、フィヴィエルが苦笑しながら口を開いた。しかしその後出てきた名前に、ジャスミンもユイルアルトも目を丸くする。
「……ディル?」
「御存知でしょう? 貴女方が所属するギルドのマスターでいらっしゃる」
「そこにどうしてあの人の名前が出るんです」
「……知らないのですか?」
フィヴィエルは意外そうな表情を隠さない。
「……あの時戦死した隊長と副隊長は、次期隊長の消失と騎士団全体の人数不足の為に解体された『花』隊のお二人。そして『花』の隊長は」
その視線は遠くを見るように、頭上を仰ぐ。
「……当時、騎士隊『月』の隊長を務めていたディル様の奥方だったのですよ」