263 城下の戦場
――その頃、城下五番街。
城内は地獄の様相だが、城下も然り。
地震の度に、数字で整理された土地は沈んだ。
地震の後に、市民の立場では見た事もない化け物が現れた。
三番街が、その日沈んだ。
次に、四番街が沈んだ。正しく言えば、三番街に近い所から半分。
順当に行けば、その次は五番街だ。けれど、馴染んだ土地から離れずに抗っている者が居る。
「ジャスミンさん!! 次、右腕骨折!!」
「割り込まないで!! もっと酷い患者が居るのよ!!」
自警団総出で、五番街の詰所を人で満杯にしている。
戦える者は外に出て、傷を負って帰って来る。その傷の度合いによって、ジャスミンから治療を受けられる順番が変わる。
痛みに呻く声が、順番を何度も後回しにされるものの怨嗟の声に変わるのをジャスミンは聞いた。
自分の治療が遅い訳じゃない。
でも、医者が一人というのは無理があった。担がれてくる重傷者は、もう詰所の外まで溢れているのに。
「……止血はした。次。薬が足りない。痛み止めの薬湯はまだ!?」
「やってるわよ!! お湯だって沸かしてるけど簡単に沸く訳ないじゃない!!」
人手が圧倒的に足りない。
ミモザを裏方に回して、近隣からも手伝いを募った。けれど湯はすぐに沸かないし、血で汚れた衣服は洗っても直ぐに乾かない。薬草を挽くには手が足りないし、ジャスミン以外には知識も無い。
戦える男は皆出払っていて、ログアスもアルカネットも居ない。力仕事を怪我人に任せる事も出来ないで、詰所はもういっぱいいっぱいだ。
まだか、まだかと、運ばれたての怪我人の声がジャスミンの鼓膜を揺さぶる。そう急かされても、医者の手が震えるだけなのに。
「文句言う体力あるなら別の事して! 血を拭く布も足りないわ!! 竈の前で湯が沸くのを待ってるだけが仕事じゃないのよ!!」
ミモザの叫びを、ジャスミンは聞かない。それどころか、彼女からの怒声を跳ね返して怒鳴り返す。
普段は温厚を努めるジャスミンだが、医者として人の前に立つ時は違う。ミモザも、彼女の豹変した姿には気圧される。
酒場に住むのは変わり者ばかり、とは聞いていたが、温和なジャスミンさえそうだとは。
怒声の間に、また別の患者がジャスミンの前に運ばれてくる。今度は、鋭く尖って折れた何かの支柱のような木材の破片が腕に刺さった男だった。
「うぐっ……!!」
呻いたのは、怪我を負っている男でもなく、ジャスミンでもなく、それを遠巻きに見ているミモザだった。
普段から切った張ったの話はあれど、目を覆いたくなるような悲惨なものを見るのはミモザの仕事ではない。でも、ジャスミンは視線を傷と男から逸らさない。
「断面、荒いわね。破片がある可能性を考えるとこのまま縫うのも怖いわ。抜かなかったのは正解だけど、今直ぐ対処というのも無理ですね」
「は……? えっ、無理、って。無理って何なんだよ!!」
医者の口からさらっと『無理』の言葉が出た瞬間、患者の顔色が急変する。
ジャスミンは次に、患者を運んできた手伝いの女を捕まえた。周辺住民らしい小太りの中年だ。
「火鉢を増設して持って来て。この詰所の窓を全開にして。終わり次第もっと火を焚いてお湯を増やして。軽症でサボってるだけの人がいたら捕まえて手伝わせて」
「は、はい? ええ、軽症の方々は既に手伝いに回っ、……」
女が自分の知りうる現状を説明しようとして、ジャスミンの瞳に言葉を飲み込んだ。
お前の話は聞いてないから急いで動け。
言葉にせずとも伝わる意思に、女は声を引き攣らせて慌ただしく走っていく。
その背を見送る事もせず、ジャスミンは荷物入れの中から鉄板から作られた小物入れを出す。相当な重さのそれを出し、中を開く。それだけでジャスミンは何処かへ走って行った。
「え……」
腹に木片を刺したままの男が不安に駆られるのも無理はない。それでも、再びジャスミンが戻ってくるまで待ったのは褒められるべき行為だ。
両手を濡らしたままのジャスミンは、自分が座っていた場所に用意していた布で手を拭く。それから針に触る頃には、先程の女が火鉢を持って来た。
「ありがとうございます」
視線すら向けないおざなりな礼だ。
火鉢の中には乾いた木と火が入っていて、簡単な煮炊きなら出来る程度のもの。火は木を燃やしているだけあって強く、鉢の外にまで赤色が覗いていた。
「……これ、なんなん、です? 先生?」
「黙って」
受け答えどころか話を聞く事自体煩わしいと言いたいかのように、男の言葉を一言で切り捨てる。
その間にジャスミンが新しく出した道具は鑷子。先で針を挟んで、火に近付ける。炙られる鉄は変色したが、使用に支障はない。
「今から、木片、抜きますね。破片が無い事確認して縫合しますが、麻酔がありません。痛いですが動かないでください。あんまり動くようでしたら治療を放棄しますから自分でどうにかしてください」
鑷子に挟んだ針が温度を下げるまで、ジャスミンは二人の間に針を突き出したままだった。
――今からこれで縫いますよ、と、宣言のように。
「先生……そりゃ、困るぜ。俺だって、痛いのは、嫌で」
「嫌? そうですか。奇遇ですね、私も痛いのは嫌ですよ」
患者への返答も適当だ。次にジャスミンは縫合用の絹糸を取り出し、その先をそっと針に触れる。
その糸に温度による変質が見られない事から、すぐさま針に通して手に取った。――随分冷めて持てる程度ではあるが、まだ熱い。
「更に言うと……私は薬を調合する専門だったので、医療行為自体がそんなに得意じゃないんです。ごめんなさいね」
患者にとって不安を煽る言葉ばかりを告げながら、微妙に引き攣った笑顔を浮かべたジャスミンが刺さった木片に手を掛けた。
恐怖に歪む患者を目の前に、ジャスミンは。
「私達より痛くて怖い思いをしてる人が、城の中や城下で戦ってるんですよ。これくらい我慢してください」
自分の仲間に思いを馳せながら、無慈悲に言い切った。
自警団詰所を野戦病院と言うなら、その外は正しく戦場だった。
厳密に言えば四番街の大通り。二番街跡地から姿を現したプロフェス・ヒュムネ達の侵略は一進一退。この大通りを超えられてしまえば、後が無い。
陣を張るのはヒューマンの群れ。それを突破しようと蠢くのは、緑色の体を持つ『植物』だった。
「お前ら、これ以上先に進ませんなよぉ!! 奴等に家族殺されたくなきゃあなあ!!」
敵として対峙する植物は、その姿もそれぞれ違う。
天に伸びる葉を揺らしながら近付いてくる、人以上の巨大さを持つ雑草。
人と同じ上背ながら、茎の太い苗木のような奇妙な者。
地を這う蔦。
それらには顔と呼べるものは無く、花が咲いている者も居る。でも、『頭』と呼べそうな場所が無い。
極端な話になるが、ヒトの形をしている者は、頭や心臓を狙えば死ぬ。
でも、プロフェス・ヒュムネの植物形態では、それが出来ない。
植物の急所が分からない。これまで二十年間もの間、趣味の悪い富裕層の奴隷として扱われ、或いはアルセン国から丁重に扱われていた彼等は、市民との接点が無い故に生態が不明。
植物の形態を取っている時には何をすればその命を断てるか、殆ど誰も知らないのだ。
「っ……復帰第一戦めがプロフェス・ヒュムネっての、やっぱりキツいな……!!」
「おお? どーしたアルカネット、もうくたばりそうか? くたばるなら向こうを道連れにしてやれよ!!」
「そう簡単にくたばってたまるか!!」
アルカネットとログアスは、大通りの中央広場に陣取って拠点としていた。
流通が通常の時には時々市場が展開される、四番街住民の憩いの場だった広場。今は自警団衆が我が物顔で占拠しているが、文句を言うものは誰も居ない。
文句を言うべき四番街の住民で生きている者は、全て五番街以上の街へと逃げているからだ。
プロフェス・ヒュムネの第一波は、先程撃退した。双方ともに体力を消耗しているから、次が来るにはもう少し時間があるだろう。
「ログアスさん! アルカネットさん!!」
周囲を哨戒する、との名目で離れていたダーリャが戻って来た。
背に背負った白銀のメイスには血のような液体が付着しているが、同じくらい水で濡れている。
洗って来たのか、と思える見た目だが、それにしては血液が残っていた。
「おう、どうだったダーリャ様」
「いけませんな。避難勧告を無視して残っていた住民が、次々犠牲となっていました。そのお陰と言っては何ですが、この場所まで彼等が来るのに遅れが出ています」
犠牲――と、言うダーリャの表情はいつも通りだ。
ダーリャのメイスに付いている血も、彼の表情も、人の死に何の感慨も抱いていないようで薄気味悪い。アルカネットだってそうなろうとした事はあるが、酒を飲まないとやってられなかった。
殺されているのは悪人でもなく民間人だというのに。騎士として生きていた彼の顔が、今は不気味に感じられる。
「あまり気持ちの良い光景でもありませんでしたが、準備は滞りなく出来ました。いつでも『大丈夫』です」
「そうか」
「……? 何が大丈夫なんだ?」
アルカネットの質問は二人の耳に届いているのかいないのか。黙殺された自分の質問が、ダーリャの周囲を漂って消える瞬間を、アルカネットは空気で感じ取った。
――また俺だけ除け者かよ。
不満は尤もだったが、その時間は短く終わる。二人の話し合いはすぐに終わって、ログアスが次にアルカネットへと向き直った。
「よし、アルカネット」
「……んだよ」
「お前のここでの仕事は終わりだ。よく頑張ったな」
「……は?」
「お前はお前の仕事をしに行け。以上!!」
急に突き付けられたお役御免の言葉に、納得がいかず目を丸くするばかり。
ログアスは言うだけ言うと、平然とアルカネットに背中を向ける。
「若い奴の仕事はもう無い。お前は身内を助けに行かなきゃならんのだろ」
「……、知ってたのか。別に、俺がいなくても妹は……」
「誰がフェヌグリークちゃんだけって言ったよ」
顔を向けない自警団長は、どこまで知っているのだか。
アルカネットは、その情報網に驚嘆すると同時に言葉を待つ。自分が、誰を助けに行くべきなのか。ログアスはアルカネット以上に、アルカネットの事を知っていそうだった。
「もう一人いるだろ」
それが誰なのか、名前までは言わない。
「そもそも怪我人が一番最初の山場を超えられただけで充分だ!! あとのお前の仕事は家族の出迎えだな! わはは!!」
「……本当、団長……こんな時にまで何言ってんだよ……」
自分の家庭の話が職場の人間に筒抜け、とか、本当に勘弁してほしい話だ。それも、詳しいものが職場で最上位の責任者というんだから頭が痛い。
アルカネットが怪我人だという理由で、この場から遠ざける為に身内の話を持ち出されるとか不本意で、不愉快で。
「……こんな時に、のうのうと出迎えなんか行けるかよ!!」
「………」
「俺は俺がやりたいようにする! こんな、城下も落ち着いてない状態で離れられるか!! そっちの方がアルギンにもディルにも怒鳴られるし、何より俺が一番嫌だ!!」
その場に腰を下ろしたまま梃子でも動かない、とばかりな態度を見せつける。ログアスは、背を向けたまま顔だけ振り返った。
あれだけ酒場について不満を漏らしていた男が、一丁前になったものだ。
「……成長したよなぁ、お前」
ログアスが小声で漏らす言葉は、侮ってのものではない。
その後はダーリャと二人で道の先、プロフェス・ヒュムネが今にも押し寄せるだろう大通りの向こうを見る。地震で潰れてしまった家屋は多く、それが障害にもなるだろう。植物である彼等が、それを乗り越える難度については不明だが。
「よーし、お前ら」
ログアスは、その場に残った者達へ声を張る。
「今はもう、いつもみたいな人を制圧する戦いじゃない。人と化け物の殺し合いだ。大将は俺だが、指示はここに居るダーリャ様が出す。死にたくなかったら、元騎士隊長様の指示に従えよ!」
既にダーリャの存在は知れ渡っているらしく、その指示に不満を言うものは居なかった。
周囲を見渡して小さく頭を下げるダーリャ。その唇は柔らかく弧を描いている。
「……さて。こちらにいらっしゃる皆様には心構えをひとつお伝えしたく。宜しいですかな?」
その瞬間までは、人当たりの良い笑顔だったのに。
「――命令は絶対です。動けと言ったら動け。動くなと言ったら動くな。相手はこれまで貴方がたが相手していた小物たちでは無いのです。ちゃんと家に帰りたければ、その呼吸さえも命令された通りに止めなさい」
切り替わりの前後の乖離が激しいダーリャの表情は険しかった。
一般人寄りの自警団員には、少し過激な命令だった。それまで緊迫した状況においてもどこか気の抜けたところがあった団員が、その言葉で愕然とした表情に変わった。自分達の置かれている状況が、今更理解出来たかのように。
朝が来たら太陽が昇る、なんて事と同じように、変わらない日常がずっと続くと思っていた顔をしていた。もう、今は違う。
「貴方がたが対峙しようとしている相手は、知能ある存在を頭に据えている。そして彼女達は、この国を恨んでいる。言葉が通じるなどと甘い考えは捨てるように」
他の者には疑問しか浮かばない言葉だが、ダーリャは質問を許す空気にさせてくれなかった。誰一人質問の為の言葉を発現することなく、その場が凍ったままになる。
もう時間は無かった。それからは簡易的な班分けが行われる。
あろうことか、アルカネットは一班班長――具体的には、ログアスとダーリャの次に発言権を持つ者――として選ばれてしまった。