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262 本当はずっと聞いて欲しかった


 声が、聞こえる。

 誰かがミュゼの事を呼んでいる。

 必死になった誰かに呼ばれる事などなくて、遠くに聞こえる声がとても不思議だった。

 声が聞こえる方に手を伸ばそうとするが、その腕が動かないし痛い。

 ぼんやり霞む目を開いたら、視界にはフュンフが居た。


「ミュゼ!! ミュゼ、しっかりしろ!!」

「――あ」


 何が起きたのか分からなかった。でも、自分はフュンフに抱き起こされているらしい事は理解出来た。

 暫くの間気を失っていたらしい。意識が戻ると同時に、喉に何かが絡んだ気がして咳が出た。

 げぽ、という音と共に生臭いものが気道を上がって来る。目の前のフュンフの顔の下半分から先が、赤く染まった。


 なんだ、これ。

 嫌だな、生臭いな。


 ミュゼは、その生臭さの正体を知っている筈なのに、知らない振りをして笑ってみせた。


「――ミュゼ」


 自分を呼ぶ他の声が聞こえて、視線を向けた。

 そこには呆然と膝で立ち、すぐ側でミュゼを見ているアクエリアがいた。

 笑ってやりたいくらい情けない顔で、血の気が引いている。ミュゼの知らない顔だった。


 なんて顔してるんだよ。いつものスカした顔が台無しだぞ?


 言ってやりたい言葉は声にならず、ただ血液が絡む喉を震わせて終わっただけだった。


「ミュゼ、どうして」

「……」


 肩が痛い。

 胸も痛い。

 息もしにくい。

 なんだか、どんどん体が冷えて来た。なのに傷だけは熱い。

 動く方の手で傷口近くに手を這わせると、まだ硝子の刃は刺さっているようだった。抜いたら逆に出血が増えるから。


「ごめん、ね。アクエリ、……ア」


 切れ切れの声の謝罪は何の意味も持たない。


「けっこん、するって、いったのに」


 最愛の人から置いていかれるのが、二度目になってしまう。

 ミュゼは自分の状態が、もう助からないものだと思っている。

 実際、もう手の施しようが無いだろう。この傷は、死を待つだけの運命だ。


「結婚、しましょうよ。するんでしょ、ミュゼ。俺と、夫婦になるんでしょう」

「………」

「俺の事、好きなんですよね? 愛してるんですよね!? だったら生きて戻りますよ! 俺達と、俺と一緒に生きるんですよ!!」

「……あくえ、り、あ」

「絶対に死なせませんから!! 責任取ってくださいよ、俺と一緒に、これからもずっと――」


 半狂乱で喚くアクエリアに、ミュゼは外を指差した。

 割れた硝子の向こう、ディルが行った道の無い先。


「おい、かけて」

「――」

「あい、してる。あくえり、あ。私、ずっと、お前を、愛してるよ」

「なん、で。今、そんな事」

「ずっと、だいすきだよ。あいしてる、よ」


 死にかけていても、ミュゼは笑う。死への不安も何もない。

 ミュゼにとっての恐怖は、この二人が死ぬ事だ。スピルリナから守れたから、それが誇りに変わる。


「私が好きな、お前、は。……マスター、を、ディル様を、追いかける。お前は、あの人を見捨てたり、しない」

「……ミュゼ。嫌です。俺はもう、嫌です。貴女を置いて行くのも貴女に置いて行かれるのも、俺はもう嫌ですっ!!」

「置いて、か、ないよ」

「俺よりフュンフさんが大事なんですか。彼を庇ってそんな傷を負うなんて、俺がどんな気持ちになるか考えても無かったんでしょう!?」

「そ、じゃ、ない」


 震える声で、アクエリアは恨み言のような言葉を紡ぐ。

 ミュゼの途切れ途切れの声では説得力が無い。けれど、この独占欲の塊みたいな男は何と言っても納得しないだろう。

 一番、当たり障りのない言葉を。

 一番、愛しい人に。


「私は。……お前が、一番大事だよ。でも、私は、目的の為の行為で、愛情を優先したり、しない。……私は、私の願いを、叶えるために動く」


 前も彼に伝えた、自分の目的に対しての心構え。

 自分の命と引き換えても、この二人だけは守る。そして、ディルの願いを叶える。


「アクエリアに。……『アクエリア』として、生きて……ほしい」


 ディルの願いが叶った先に、きっと、アクエリアは自分の幸せを手に入れられるだろうから。

 ウィスタリアとコバルトを引き取って育てて、子孫の世話まで見なくていい。

 例えその結果、アクエリアが自分の名を捨てた姿の『エクリィ』が居なくなっても。

 例えそれでミュゼが生まれて来なくても。

 生まれて来られても、出逢う事が無いとしても

 愛する人の幸せを願うくらいには、ミュゼも大人になってしまった。


「……なんですか、それ。俺が俺じゃなくなるって、何でですか。貴女がいなくなって、俺が俺でいられるとでも思ってるんですか!?」

「お前が、お前でなくなるなんて、ないよ」


 血の垂れる口許で、ミュゼが笑う。


「わすれて、いいよ。私の事は。他に幸せになれる、なにかを、見つけて。でも、そんな、簡単なことも、私のせいでできなかった、ら」


 愛する人に傷を付けることが出来るなんて幸せだ、と――思ってしまう自分も病んでいる。


「もし、出逢えたら。……八十年後で、待ってる」

「――はち、じゅう……?」

「忘れて、いいよ。でも、忘れないで。アクエリア、私は、お前を」


 ――愛している。


 続きを、アクエリアは聞こうとはしなかった。立ち上がり急いで背を向けた。


「今は聞きませんよ!! ……ディルさんもアルギンも、連れて帰ってからゆっくり聞きますから!!」

「……」

「だから、まっていて、ください。俺の帰り、ちゃんと、……」


 生きて、待っていて。

 震える声のまま、アクエリアは顔を見せることなく窓際へ走った。そのまま魔法力を使って跳躍する。

 全速力の彼は姿を消した。ミュゼの命が消えるまでに戻って来れるだろうか。


「……ミュゼ」


 ミュゼを抱きかかえたままのフュンフが名前を呼んだ。

 視線を向けると、霞んだ視界に彼の顔がぼんやり浮かんだ。しっかり見えない視界でも、彼が悔しそうに顔を顰めて涙を浮かべているのが分かる。


「……すま、ない。ミュゼ、すまない。……すまない、私の、せいで」

「……どうして、謝るの? 私が、したことですよ」

「私は、誰かの命と引き換えにされてまで生かされたくはなかった。……君の命であるなら尚更に」

「……そんな、こと。言わないでよ。……ねー、フュンフ様」


 手を伸ばす。

 フュンフの頬に触れたら、生暖かく濡れていた。

 指先で、その雫を弄ぶように頬に線を引く。今触れているのは、フュンフの流した涙だろうか。それともミュゼの吐いた血だろうか。


「フュンフ様は、ディル様ん所、行かない、の?」

「……君を残して、行けるとでも?」

「私の、知ってる……フュンフ様は。少なくとも、……最初に逢った時は。そんな、優しく、なかった」

「……誰かに優しくないのは元からだ。君にだけ、特別なんだ」


 ミュゼが、くく、と喉を鳴らす。

 特別だなんて、他の女が聞いたら誤解しそうな内容だ。


「……ねぇ、ふゅんふ、さま」

「……何だ」

「いかない、なら。……私の昔話と、未来の話に、少しだけ、付き合って。そんで」


 伏せたミュゼの瞼。

 睫毛が影を作る、その景色をフュンフは瞳に焼き付けた。


「……私が、死んだら。……アクエリアに、伝えてくれないかな。ずっと、知りたがってたんだ」

「……。承知、した」

「ありがと、フュンフさま。……じゃあ、何から話そうか。……ふふっ。ああ、寒いねぇ」


 美しい女の、死に向かう綺麗な顔だった。


「私は、ほんとは。マスター・ディルと……アルギンの……玄孫で……」


 細い声は、まだ聞こえていた。


「……エクリィって……名前を変えたアクエリアに……育てられたんだ……」


 その声が完全に消えるのに、長い時間は必要なかった。

 語るだけ語るミュゼの、フュンフに触れたままの指先は、言葉を重ねると共にどんどんと透明になっていく。


「それで、ね……ふゅんふ、さま」


 時折頷きながら聞くフュンフは、瞬きと同じ頻度で瞳から雫を垂らしている。


「きこえて、る……?」


 最期まで、フュンフはミュゼから視線を逸らさなかった。

 




 その頃、ディルは上階に居た。

 暁が居たであろう痕跡を追うと、三階にまで上って来てしまった。上って来た大樹の枝葉に何やら刃物で付けたらしい傷があり、追跡自体は容易だった。

 三階でディルの記憶に強く残っている城内施設は、四隊長の執務室がある区域だ。中庭を下に見て、四方を囲むように『花鳥風月』の執務室が用意されていた。

 ディルが上って来たのは、少し行けば『風』の執務室へ辿り着く廊下の途中だった。引かれた絨毯には靴跡ひとつ無く、左右どちらに暁が向かったか分からない。


「……」


 下に残して来たアクエリア達も気になっている。

 あの三人に限って何かが起きるなんて思わない。でも彼等が追いかけて来た時に、ディルと同じようにどちらに向かうかで悩むかも知れない。

 ディルが出したのは、キタラから受け取った小刀。軽く指に挟んで回した後に握りこみ、床に座って絨毯に刃を突き立てる。

 がり、がり、と音を立てて絨毯に矢印状の傷を付ける。床が見える程に切れ込みを入れた後は、小刀もその場に置いた。


 早く来い。


 暁と一対一で対峙するなと言ったのはアクエリアだ。彼が来ないと、ディルも困る。

 ミュゼは自分の子孫だから、簡単にどうにかなる訳が無い。

 フュンフは――もういい歳だから、無理をされてはこちらが困る。

 ディルが三人に向ける感情は『信頼』だ。それは過剰な程で、裏切られるなんて露ほども思っていない。


「……?」


 なのに、何故。


 こんなに、胸が騒いで落ち着かない。


 ディルの勘は先程から、冷や汗を流させるほどの悪い予感ばかりを与えて来る。

 不快感に息を飲んで、頭を軽く振る。こうすれば少しは心が軽くなるかと思ったが、何も変わらなかった。

 心なんて、不愉快なものばかりを連れて来る。昔のように、妻を知る前の頃のように、何も考えず何にも影響されず生きていた頃が懐かしく思う。でも、あの頃のような自分のままであれば、きっとこの場に居ない。


 立ち上がったディルは、執務室がある方向とは逆方に進む。

 執務室がある方向は袋小路だ。逃げるのだけは上手い暁が、わざわざ逃げ場のない場所に向かうとは考えにくい。

 早く、暁を倒さねばならない。でなければ、妻を奪還できない。


 妻は、ディルを人形からヒトへ作り替えた張本人であり、全ての元凶。

 彼女を奪還するまで、この城からは出られないのだ。 

 

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