258 真を語らぬ翻弄者
「っ……?」
食堂からの通用口を進んでいたディルが感じたのは、第六感とも呼ぶ勘だった。
嫌な寒気が首の後ろを掠めた。首筋を抑えてその場を見渡す。
フュンフが一歩後ろ、少し離れてアクエリアとミュゼがいるだけで、敵対勢力の姿は影も形も無い。
急に立ち止まったディルに、三人が不思議そうな表情を向けた。
「どしたの、マスター?」
「……いや」
良くない予感はしたが、具体的な話が出来ない感覚だった。不確定の話をするほど暇ではない。
再び先に進み始めたディル。王家への食事を運ぶ場所だけあって、静かで清潔で窓を広く取ってある天井の広い通路だ。
階段以外の柱などといった障害物が少ないのは、毒を盛ろうとする不埒者が身を隠す場所を無くす為だろう。広い窓の下は、よく騎士や士官が研鑽の為に使用する修練場のひとつが見える筈だった。外からも何かがあればすぐに分かる仕組みだ。
今は大樹のせいで見る影も無い。城を包む込んだ幹は窓さえも押し潰そうとしているようで、桟が圧迫に音を立てている。場所によっては割れた硝子が散らばっていて、急がなければ危険とさえ思える。
生き物が自然に手を加えた人工物の極みである筈の王城が、自然の逆襲を受けて悲鳴を上げているように見えた。
元から過ごしやすい空気とは言えなかった城内だが、今は異常だ。その異常さを受け入れられなくなった体が過剰に反応したのだろう、と思う事にした。
「気のせいだ」
「本当に?」
「其れ以外に説明がつかぬ」
ミュゼが幾ら確認しようと、ディルに返せる言葉が無い。
自分を気に掛ける子孫にすら、心を割く時間も惜しくて先を急ぐ。ディルの気の逸りをも理解している三人は文句も言わない。
死んだと思っていた、焦がれ続けた妻をやっと取り返せる。
アクエリアとフュンフは彼女の顔も性格もよく知っているが、ミュゼにとっては初対面な上に人伝の姿しか知らない。目前に迫った邂逅に、なんとなく心も落ち着かなくなる。
「……そんな時こそ気を付けないと、だね。油断しちゃ駄目だよマスター」
「説教ならば聞かん」
やっと、ディルが心休まる日々が来るのだ。
気が逸っているのはディルだけじゃない。
四人が四人とも、それぞれに違う感情をディルの妻――アルギンに抱いている。
「じゃあ説教じゃない話しようよ、マスター」
「ふん」
「この道の先を、私は知らないんだけどさ。どう通っていくのかだけ教えてくれない?」
城内の地理に明るくないミュゼの質問は尤もだった。
これからの情報共有に必要かとも思い、ディルが口を開く。
「此の場所は、王族へと食事を運ぶ通路。即ち、進めば城内の王家居住区へと辿り着く」
「うん」
「然し、敵対せぬ限りは誰かを殺める心算は無い。ただの経由地点として素通りし、謁見の間を抜けてテラスの前を進み暁の工房へ。其れに至るまでに、暁は見つけ次第殺す」
物騒な宣言でも、三人とも否は唱えない。
三人とも性格が同系統でないにも関わらず、三様の敵意や苦手意識を抱かれている暁だ。元々の性格が良くない上に、ここ数年で横暴さに拍車が掛かっている。初対面から無礼の洗礼を浴びたミュゼは初めから今まで暁が『嫌い』だ。
アルギンの奪還に、暁は最大の障害になるのは目に見えている。彼女を救い出すまでに排除しておかねばならない人物だ。
「……何処に居るか、分かる?」
「謁見の間に姿は有った。エンダが残ったと聞いているが、我は確認しておらぬ。足止めが出来ているのか、でなければエンダは死んでいるであろうな」
「……」
悲痛な表情を浮かべたのはフュンフだ。同じ騎士団に所属する者として、共に過ごした時間は長い。
冷静にエンダの死をも語るディルの姿は、悪い意味で昔から変わっていない。
彼がその死を悼むのは、妻だけ。
潔い。フュンフはそんな彼の側に居て、主従のような関係を結んでいた。
しかし今、国の形が変わる程になってしまって、分かり切っていた筈の関係が辛い。
「ディル様は、私が死んでも何も思わないのでしょうな」
ディルの足が止まる。
つられてミュゼも、アクエリアも止めた。
フュンフは、口にして少ししてから自分の発言の女々しさに気付く。
望んで自分から側に居た事から始まった関係は、ディルから強制されたものではない。なのに何か見返りを欲するなんて、フュンフの厭う下品な者共と同じ。
振り返るディルの灰色の瞳が、フュンフの鳶色の瞳を見た。
「……何かを思って欲しいのかえ?」
茶色の髪が生える頭の中でも、ディルだったらそう言うだろうと予想は付いていた。
さして怒っている様子でもない、けれど予想から大きく外れもしない彼の言葉に落胆が浮かんでしまった。
自分は、何と言って欲しかったのか。
望む言葉も曖昧なのに、少しだけでもいい、特別さを感じる言葉が欲しかった気もする。
余分な下心がある訳でも無い、思慕などでは決して無い。けれど同性相手に向けるには重い感情が、道を進む足を鈍くさせる。
駒で良いから役に立て。
そんな非情な言葉でも、言葉が無い無関心よりはマシだから欲しかった。
今の今まで、ディルの言葉は圧倒的に足りない。ディルの妻、アルギンが戦場に残る事を選んだ時の二の舞のようだ。
ディルの性格は、言葉を重ねるものではないと分かっているのに。
「……我は」
ディルだって、同じ失敗をフュンフにも繰り返しそうになっているのは分かっている。
言葉が少なくても、他の何かで示せばいいと思っていた時期もある。
でも、ディルには『他の何か』という手段さえ少なかった。
「我を人形と揶揄する為に使われる『言葉』を不要だと思っていた。『心』など不要と思っていた。実際、妻が……アルギンが傍を離れて……此れ以上に不愉快なものがあるかと呪った。感情など、存在するだけ無駄だと」
人と人の、心と心の間に、必要なものはディルが一番軽んじたものだ。
「だがフュンフ。今の我は以前の我ならいざ知らず、汝が誰かの手に掛かるのならば。……其の誰かを、我は殺した所で許さぬであろうな」
ディルが再び歩き出す。
その背を追うようについていく三人だが、ミュゼは横目でフュンフが目元を拭っているのを見た。
ここまでディルに心酔している男が娶る嫁は大変だ。記憶の中のエクリィはこの男の事をクズだクソだと呼んでいたが、ミュゼの目の前では不可抗力ながら肩を並べて歩いている。
「物分かりの悪いお子さまみたいな事、フュンフさんでも言うんですね?」
「……うるさいっ」
いつものエルフの姿とは違って金の髪を指に纏わせニタニタ笑うアクエリアの言葉も、照れを隠すようなフュンフの反論も、二人の仲が以前よりは悪くないと感じさせて。
今この時のままの、緩やかな話をするだけの時間が、ずっと続くままにアルギンを奪還できればいいと思えた。暁ももう二度と関わって来なくて、ディルと妻が二度と離れず幸せになって、その側にはあの双子も居ればいい。知り合いがもう誰も傷つかない世界になれば、ミュゼが生きて来た未来の絶望は無くなるだろう。
アクエリアがエクリィとして生きる世界も、きっと無い。
その世界で自分が生まれるかも分からないけれど。
気分が沈みそうになる。自分の生を望むか、愛する男の幸福を取るか。こんな話を誰かに相談したら自分が誇張無しの文字通りに消えてしまいそうになるから、誰にも相談出来やしない。
やってらんないな、とミュゼが溜息を吐く。それを自然と、道程への不満にすり替えて声を出した。
「この道、長くて嫌になる。階段もこれだけあったら、何回か食事落としてるんじゃん? 目的と作りが一致してないよね、効率とか知らないのかって思う」
ミュゼの愚痴は道に関してだったが。
「わざと面倒な事をさせて地位を誇示する……っていう目的もありますからねぇ。一般人が考えるような狭い世界じゃないんですよぉ、王城って」
その愚痴への返事は、ディルの声でも、アクエリアの声でも、フュンフの声でも無かった。
通路の向こうに姿は見えず、振り返っても誰も居ない。
どこかで、何かを隔てて喋っているかのような声が四人の耳に届く。
耳障りな、粘性を持つ男の声。
「……何処だ、暁」
ディルが腰に手を当てて、場所を探る。
殺すべき相手が向こうから来てくれるのであれば手間が省ける。しかし、周囲を見回しても姿は見えない。
「あっはは。探しきれないんですか? 落ちぶれたものですね、元『月』隊長も」
「貴様……っ! ディル様への口の利き方を弁えろ!!」
「はぁ? 宮廷人形師様に、騎士隊長ごときがそんな口利いていいと思ってるんですかぁ? 貴方なんて眼中にないからどっか行ってください」
通路は作りが特殊だからか、声が反響する場所が少ない。
四人の視点はじきに揃ってくる。一点を見つめる八つの瞳は、窓の外の大樹の幹より上部に注がれる。
「ねーえ、ディル様。ウチ……俺は、貴方の事が大嫌いなんですよねぇ」
「知っている」
「本当に、死んでほしいくらい嫌いで、死んでくれるなら別に俺の手に掛からなくても構わない。いつかどこかで死んでくれれば良かったのに、貴方どうして今日まで生きてるんです」
――外に居る。
それも外の、大樹に沿った場所にどこかに居る。
窓を隔てて投げ掛けられる暁の呪いは、ディルの鼓膜に染みるように届く。耳障りなのは声だけではなく話す内容にも及んで、ディルの手は無意識に剣の柄を握っていた。
苛立っているのはアクエリアも同じで。
「勝手な言い分、腹が立ちますね。いっそあの木、俺が燃やして奴を炙り出して差し上げましょうか」
「やめなよ。城を支える樹を燃やしたら私達も城ごと落ちちゃうよ」
冷静な忠告を受けて、アクエリアも考え直した様子。
くくっ、と暁が喉を鳴らして笑う音が聞こえたのはエルフの血が流れるミュゼとアクエリアのみ。
二人の眉間が同じ瞬間で深く皺を刻んだのを、フュンフは運悪く見てしまった。
「それでぇ!? 臆病風に吹かれた宮廷人形師様は隠れたままお話に来たんでちゅかぁ? 告解室にでもご案内ちまちょうかぁ? ぼくちゃんはアルギンがいないと眠れないからおうちに帰してあげられないよわよわちゃんでちゅものねぇー!?」
「は? 俺が居なくて眠れないのはアルギンの方ですよ。勝手な事言わないでください」
「――」
ミュゼが放つ怒声混じりの挑発を返した暁の言葉が、流れ弾の様になったのはディルの方だった。
ぎり、と食いしばった奥歯が音を立て、憎悪の籠った瞳を暁がいるであろう方向へと向ける。
「勝手な妄想を話しているのは貴様の方であろ」
「……」
「我が妻を返せ。……叶えば、苦しめることなく殺す事も視野に入れよう」
「はー……。俺の言った事を妄想って切り捨てるのも、貴方らしいって思いますけどねぇ」
やれやれ、と漏らす溜息に乗せた「どうせ説明しても実物見ないと信じないでしょうけど」という言葉。
ミュゼとアクエリアは聞いた。聞いて、不思議な胸騒ぎを覚える。『実物』と言われるアルギンを、確かに暁以外は知らないのだ。
「俺ですね、勝ち目のない戦いって大嫌いなんですよ。こっち、ラドンナは本業で出て来られないしスピルリナは目をやられてしまってまして。ちょーっと俺も不安でですね?」
「……だから、何。一人じゃ戦えないって言うのか」
「逆ですよ」
その時、四人の視界の窓に、黒く大きな影が現れた。
「俺が同席したんじゃ巻き込まれる可能性がありますから。ウチの娘に貴方がたの殲滅を任せます」
黒い影は硝子を破って飛び込んできて、四人の前に着地する。
粉々に砕け散る硝子の雨の中に現れた、さらりと流れる水色の髪を持つ、黒いドレスを纏った、少女の見た目をした人形。――スピルリナ。
顔が上がるその瞳は何処も見ていない。動向を模した部分が左右に離れている。生き物として不気味な動きだ。
「ひ、」
本能的に、ミュゼが悲鳴を上げかけた。その声を聞きつけた人形が、一瞬にして髪を揺らして声の方角へ身を屈めたまま走り出す。
目が使えない人形は、音に向かう。一番の標的になったミュゼは身構えるよりも先に、風を切り裂くような蹴りの軌道を視界に収めてしまった。