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257 目覚めぬ綺麗な夢を


「……あ……、ぅぁ?」


 さっきまで冷たかった筈の手に、仄かな熱を感じる。

 もう動けない、と思っていたのに頭が上がる。地面ばかり見ていて霞んだ視界は、ヴァリンを馬鹿と罵った人物を認めた。


 肩を過ぎた程に伸びた、癖毛の茶色の髪。

 鳶色の瞳。

 小さい頭と整った顔、ヴァリンが一番愛した女の姿。

 膝を付いて、五体満足で、傷一つ無いかつての姿のままで。


 ソルビットが、そこにいた。


「……ソル、……? ……ソル、お前……」

「ヴァリンがカリオン様に勝てる訳ないじゃん。実際勝てなかったじゃん。こうなるって分かってたのに、何で真正面から戦うかなあ」

「……ソル、お前、なんで、ここに」


 ――お前は、俺の腕の中で死んだだろ。

 六年前に彼女の死に様を目に焼き付けた。最期の瞬間まで、どんなに傷ついて美貌が損なわれていても美しかったのを忘れられない。

 目の前に見た最愛の人の姿が信じられなくて、重なっている手を握る。その感触が、生きている時の彼女のものと同じだった。細いのに柔らかくて、悪戯にヴァリンを煽る長い指。


「……は、はは。……そっか、俺死んだのか」

「………」

「じゃないと、お前が見える訳が無いものな。傷も、もう痛くない」


 でも、まだ立てない。こんな無様を愛した女の前に晒して、恥じ入る気持ちもあるがこればかりはどうしようもない。

 ソルビットはヴァリンの顔を覗き込んだ。丸く大きな瞳がくたびれた男の姿を映す。


「あたしが死んだ時と同じように、助ける方法も無く、確かにヴァリンは死ぬよ」

「……」

「後悔なんてしてもし足りないよ。死ぬ、って事はもう何も出来ないよ。したい事も食べたい物も、逢いたい人にすら二度と手が届かない。自分が死んで悲しむ人達の泣き顔をずっと見ることになる」

「………」

「ヴァリンは死にたいの? 後悔は少ない方が良いと思わないの? ……このまま、死んでもいいの?」


 ソルビットの言葉は、無気力だったヴァリンの心を奮い立たせようとするものだった。未練を突いてやれば、大抵の者は立ち止まって考える。

 けれどソルビットの言葉を聞いてヴァリンに浮かんだのは笑顔だった。


「……ソル。お前がいなくなって、何年経った?」

「え、……」

「六年だ。お前は死んでから、この六年を感じていたか? お前が居ない六年を、俺がどう過ごしていたか知ってるか?」


 ソルビットから答えは返らない。ヴァリンはそれを、知らないからだと受け取った。


「俺達の歳の差を、覚えてるか?」


 答えは出てこない。

 もし、このソルビットが死にかけた者の前に現れるという死神が化けた姿でも構わない。

 偽物だったとしても、愛する女の姿に、最期の最期に騙されてみたい。

 いつだってつれなかった態度の女が偽物でも本物でも、自分を心配する姿は見ていて心地が良い。


「七歳だよ。あと少しで、俺はお前が死んだ歳と並ぶんだ。俺だけ年取って、お前は変わらないで、それでお前が死んだことを毎年思い知る。お前が死んで、それでもお前に向ける感情だけ変わらないで、俺は今年また、ひとつ年を取ったろうな」


 『アールヴァリン』を『ヴァリン』と呼ぶように言ったのは、ヴァリン自身で。

 それでも彼女は、呼び名を変えても王子と騎士の一線を守り続けて。


「もう嫌だよ」


 その一線は、死を迎えて漸く取り払われる。


「俺はお前より年上になりたくない。同い年にもなりたくない。お前を失った事実を、お前が年を取らなくなって過ぎた年月を、これ以上思い知らされたくなんてない。今のお前は毎年、毎月、毎日、毎時毎分毎秒。俺の傍に居ない絶望しか与えないんだ」


 立場を取り払われたヴァリンを目の前にして、ソルビットの言葉が詰まる。

 王子騎士の愛は深い。それが執着と呼ばれる感情でも、ただ執着しているだけでは把握しきれない感情もあった。

 ソルビットの年齢を超える事を、嫌がる事。


「頼む、ソル」


 年若い王子騎士の懇願は、ソルビットの心を揺さぶった。


「もう俺に年を取らせないでくれ。お前の後さえ追えない臆病者だったけど、これが死ねる機会だっていうなら俺は抗わないよ。後悔なんて、お前が死んだ時以上のものなんて無い。お前が居ない事が一番の後悔なんだよ。死にきれなかった俺を、ちゃんと死なせてくれ」


 ――手遅れなら、もう、無駄に抗う事もせずに。


 ヴァリンの絶望を、悲哀を、一番近くで見て来たソルビットには痛みを覚える程に辛い言葉だった。

 この男の幸せを願っていた。いつか何処かの美しい姫君を娶って、国王として生きる彼の側で騎士として生きる自分を想像していた。それが叶わなくなっても、ずっと一方的に傍に居た。


「……知らなかったよ」


 知っていたけど。


「ヴァリンって、あたしのこと、かなり好きじゃん?」


 知っていて、死んでからも聞かされて、ずっと自分の影を追っていたヴァリンの愛を。

 信じたくて、信じ切れなくて。異性同士の愛は存在しても、時の流れでいつか途切れると思っていた。自分が初恋を振り切れたように。

 顔を上げただけのヴァリンは、ふと、唇を歪めた。


「愛してるよ」

「っ……」

「愛してるよ、ソル。……俺は今もずっと、お前だけを愛してる。言えなくて後悔したけど、……なんだ。一回言ってみると、案外するする出て来るものだな」


 肩を揺らして笑ったつもりだ。けれどヴァリンの体は、痛みこそ無いがそれ以上微動だにしない。上げた頭がもう下がらない。


「……知らなかったよ」


 ソルビットの声は震えている。


「あたし、本当は、これ以上ヴァリンに無茶させたくないんだ。それってつまり、ヴァリンに今すぐ死ねって言ってるのと同じなんだよ。こんなにあたし、酷い女だったんだね」

「……今更気付いたか。お前は前から酷い女だよ」

「そんな酷い女に惚れて、大変だね?」

「……」


 六年間、ずっと聞きたかった声。

 ヴァリンの瞳が細まる。


「ああ、そうだな」


 ――それでも。


「それでも俺は、お前が良かったよ」


 他の女では埋められない程の空白が、やっと今埋まる。


「愛してるよ、ソル」


 繰り返すヴァリンの瞳が、閉じられる。


「愛してるよ。ずっと愛してる。……愛してる。なぁ、ソル」


 その顔は満足そうに微笑んでいた。


「もう、離れてくれるなよ」




「……」


 満足そうに微笑み横たわるヴァリンの死に顔を眺めている女がいた。

 ただしその髪は、ヴァリンが愛した茶髪ではない。短めな金色だ。

 ヴァリンの手首を掴んで脈を計ろうとしていた。でも、もう脈も無い。

 あとは冷たくなるばかりの彼の手を離せずに、沈痛な面持ちで俯いたまま。


「……っ、さま。にいっ、さま、そんな、いや」


 金髪の女の隣では、ヴァリンが死んだことに咽び泣いている人物もいた。

 髪の長さは隣の金髪とそう変わらない。濃紺の髪を持つ、ヴァリンの妹アールリト。


「リトさん。……でも、見てください。ヴァリンさんの顔。こんなに幸せそうに笑ってる」


 ――まるで、最愛の人に逢えたかのような。


「私は今まで、この人のこんな顔を見た事無かったです。……それに、さっきからソルビットさんの声が聞こえない」

「え……?」


 金髪の女――ユイルアルト――は、胸元から首飾りを出した。

 ヴァリンとの別れ際、渡された彼のものだ。ソルビットの骨が入った小物入れが下がっているそれを、ユイルアルトに渡す事で契約とした。

 ヴァリンは、命と引き換えにしても復讐するのだと言っていた。そしてその命は、既に落ちた。


「ソルビット? ……ねぇ、ソルビット。聞こえてるなら返事して」


 アールリトがユイルアルトの首に下がっている飾りに呼びかける。しかし、二人に聞こえる返事はない。

 聞こえてて返事をしないのか、それとも、もう、ソルビットすら。


「……ソルビット。兄様と一緒に、逝ってくれるの?」


 その言葉にさえ返事は無くて、ユイルアルトは首飾りから一度手を離した。

 そして、自分よりも大きな体のヴァリンの体を引きずった。血の跡を床に作りながら、壁を背にして座らせる。

 前のめりに俯く彼の手を取って、その上に首飾りを置く。この城下を離れてからずっと首に下がっていたそれが取れて、随分軽く感じる。


「……ヴァリンさん。……いえ、アールヴァリン殿下」


 片膝を付き、頭を下げるユイルアルト。見様見真似の騎士の礼だが、筋はそんなに悪くない。

 何も知らずに酒場に居る間は傍迷惑な男だった。でも、胸に秘めている悲しみを知ったから、嫌いにはなれなかった。命の恩人にまでなった彼は、取り付けた約束の結果を見ることなく居なくなった。


 彼の為に、力になりたいと思っていた。


「ユイルアルト・フェロー、只今戻りました。ですがお疲れみたいですね。どうぞ、今はゆっくりとお休みください」


 二度と覚めない眠りでも。

 もう、貴方の笑顔に邪魔は入らないから。


「私は、リトさんと共に行きます。……妹君はお守りしますので、心配なさらずに」


 二人は、大樹に覆われた城の下で合流した。偶然リトが、城に近付くユイルアルトの姿を見つけて追いかけたのが最初だ。

 エルフの女王、パルフェリアによって酒場に転移したユイルアルトだったが、誰もいないし戻って来ない。酒場の面子は勿論ディルまで居ないとなって外に出て見れば、王城の異変に気付かない訳もなく、最初の目的地を決めたユイルアルトはそのまま城へと向かった。

 そうして出逢ったアールリトとユイルアルトは、まずソルビットが会話に割って入った事で一瞬にして互いの状況を理解する。アールリトもプロフェス・ヒュムネの血を引いているから、死して尚意志持つ者の声が聞こえていた。

 即座に情報を交換して、利害が一致した二人は行動を共にすることにした。

 ヴァリンに用事があったユイルアルトと、尖塔に用事があったアールリト。

 空高くに移動した城に辿り着くにはどうすれば――と、思っていた。しかしプロフェス・ヒュムネの血を引くアールリトは、ユイルアルトを伴って難無く大樹を上った。その時だけ重力が無いような、ふわふわとした足取りで樹に足を掛けては進んでいけたのだ。

 城に入ってから状況は今に至る。

 尖塔へと向かう途中、ヴァリンの死体を発見した。カリオンと出くわさずに済んだのは幸運だったと言える。


「……守るなんて、嫌だわ。私は自分の身は自分で守れるようになりたいの。だから、ここまで来たのよ」

「そうでしたね。……それで、どうしてここまで来たんですっけ?」

「この先に、置いて来たものがあるから。……それでまさか、兄様の……この姿を見るなんて思わなかったけれど」


 王の血を引かない自分が、王妃の望んだ女王になりたくなくて、持って行くのを拒んだもの。

 それに今更頼るなんて情けない話だが、それは自分の意思だ。

 利用されるだけ利用されて、自分の意思も持てずに守られるだけなんて、アールリトの望んだ自分の姿じゃない。そして同時に、そんな自分だから兄を犠牲にしたのだと罪の意識が芽生える。


「イル、もう少しついて来てくれる?」

「ええ、勿論」


 控えめな笑みを浮かべて頷いたユイルアルト。

 アールリトも安堵の微笑みを浮かべる。

 フュンフにさえ足手纏いと暗に言われた自分を、ユイルアルトに押し付ける後ろめたさからは目を逸らした。


「兄様、行って参ります」


 自分で見限った国に、今更何が出来る。


 兄の亡骸に視線を向けた時、絶対にそんな事を言わない筈の彼の声で聞こえた言葉。

 それは自分の中の幻が言わせているのだと言い聞かせて、アールリトは兄から視線を外した。その拍子に、床に落ちた見慣れたものが視界に入る。


「……これ、兄様の」


 兄が受け継いだ、王家の細剣だ。

 今まで持ったことも無い筈のそれは、握るアールリトの手に不思議と馴染んだ。

 扱い方は、戯れに兄が棒きれで教えてくれた。まだ満足に振れはしないが、形見として持って行く。


 細剣を手にしたまま、もう一度兄に振り返る。もう、幻聴は聞こえない。

 優しい表情で眠る、目覚めぬ兄がいるだけだった。


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