255 与太話
――王城、尖塔。
階段を上るヴァリンの足は、上る前から止まりかけている。
ディルと離れてミシェサーの救出に来たが、尖塔へ向かう道は目も当てられない惨状だった。
カリオンとエイラスと思わしき靴の痕が残っている。それは階上へ向かうほど濃くなる血の足跡だ。
誰の血か、なんてのは考えないようにした。
自分の瞳で確かめること以上に、確実なものなんて無い。
だから。
「――……」
尖塔の最上階で、血溜まりに伏したまま動かないミシェサーを見るまでは、ヴァリンも彼女の生を信じようとしていた。
目に痛いほどに鮮やかな彼女の桃色の髪すら、床に触れたまま動かない。
ヴァリンよりも年下の女は、その命を孤独に終えていた。
「……ミシェサー」
血も、もう乾き始めている所があった。足を置く場所によっては、彼女の血がねとりと靴底で音を立てる。
床に丸まるように絶命している彼女の頬に触れれば、まだ温かさを感じる。顔色さえ悪くなければ、また息を吹き返すのではないかと淡い期待が浮かんでしまった。
でもこの出血量では、それも無理だと分かっている。だからヴァリンは、彼女を抱きかかえて部屋の隅に移動させてやった。
仰向けにして、胸の上で手を組ませる。顔を汚す血は、肌が傷つかないように取れるだけは拭き取ってやる。
「……なぁ、ミシェサー。寝てるだけなら、起きろよ」
掛ける声に返事は無い。
血に濡れた髪を、顔からそっと流してやる。
そこまで済んでから、徐に隣に腰を下ろした。向き合うようにではなく、寄り添うように。
「まだお前にしか出来ない仕事、山ほどあるだろ」
反応も返らない。
この状況で掛けるにしては、あまり優しくない言葉だ。
ミシェサーは、今まで難しい内容の仕事でも、あまり文句を言わずヴァリンに従って来た。奔放な私生活を送りながらも、仕事では自分に出来る事はそれ以外にないと思っていたからだ。
互いに、愛など無かった。
けれどヴァリンがミシェサーに寄せていた感情は、上司と部下の関係を超えた友愛に近いものだった。自分の為に無理をする妹分。だから若い彼女を腹心としての待遇で近くに置いた。
「ミシェサー。お前に言った仕事、まだ終わって無いんだが」
ミシェサーがヴァリンに向けた感情もまた、恋愛感情ではなかった。
性格や私生活は違ったが、二人は何故か馬が合った。
そんな彼女が遺して逝った仕事は、重要なものだったのに。
「俺が書いたお前が主人公の脚本、読めって言っただろ」
まだ書き始めても無い、頭にあるだけの物語。
それでも始まりから終わりまで、所々抜けはあるが話は出来かけていた。
あとは紙に、文章として起こすだけ。だから、そう遠くないうちに読ませられる。
でも、文章を綴るだけでは物語は完成しない。
「ミシェサー」
呼んだ名を持つ女が読まなければ、完成したとは言えない。
なのに仕事最後の締め括りを飾る女は、目を閉じたまま起きる気配が無い。
「起きろよ。ソルの次はお前まで俺を置いていくのか」
返事は、無い。
「ソルの事好きだからって、お前が先にあいつに会いに行くのか」
声が聞こえない。
もうその喉が震える事がないと分かっていても、声を掛けてしまう。
もしかしたらまた喋ってくれるかも、と。
いつものように、黙れと言いたくなるような下劣な言葉を並べてくれるかも、と。
また話せるなら、何度だって言葉を掛けるだろう。
でも、こうなってしまえば返事なんてある筈が無いと痛感するのは二度目だ。
「お前も、ソルみたいに、俺が何言っても返事しなくなるんだな。」
愛した女、ソルビットの時もそうだった。ヴァリンの懇願に耳を貸す事も出来ず死んでいった。
はぁ、と漏れた溜息に、悲哀が乗る。
こうなるかも知れないと分かっていて送り出したのは自分で、こうなると覚悟して任に就いたのはミシェサーで。
最悪の結果に終わったのだ。ヴァリンの後悔はきっとこの先も消えることが無い。
――尤も、ヴァリンに『この先』があればの話だが。
「悪い、ミシェサー。こっちもまだ全部終わって無いんだ。……お前を連れて、こんな所出てやりたいけど……もう少し待っててくれよ」
信頼した腹心の亡骸を連れて出たい気持ちはあるが、今はまだ彼女を動かせない。
血を分けた家族は、ミシェサーの死をどう受け止めるだろうか。死を悼んで悲しんでくれるだろうか。
でも、ヴァリンが思っている以上には悲しまないかも知れない。城に仕えてからも、どちらとも一度として連絡を取ろうとしなかったから。
涙のひとつも流さない自分を、薄情だと思う。
ミシェサーは、嘆くヴァリンを見て面白がりはしても喜びはしないだろう。だから、これで丁度良いと自分に言い聞かせた。
「……ミシェサー。俺、前ミュゼやアクエリアに……俺はこの先誰が死んでも後悔しないって言ったんだが。今は、お前を先に逝かせたのは少しだけ後悔してるかも知れん」
心変わりをミシェサーが聞いていたら何と言われただろうか。
『鞍替えなんて副隊長らしくない!!』なんて、珍しいものを見たかのような言い草をされたかも知れない。
ミシェサーが取ったであろう行動や発言は容易に想像できるのに、実際の彼女はもう物言わぬ存在になって横たわっているから不思議だった。
お前は本当に、もう動かないんだな。
「……あっちでソルと会っても、あいつを寝取ってくれるなよ」
茶化すように言ったのは自分の為だった。
他の誰の生き死にに何の感慨も抱かなかったつもりなのに、それが自分の腹心となれば話は違った。
自分と関係の薄い他の誰かが死ぬ時のように、無感情ではいられない。
そして、ミシェサーが死ぬ時のように悲しむのはこれが最後になったらいいと思った。
ヴァリンはまだ暫く、ミシェサーの隣にいた。
生きているうちに、こんな風にもっとゆっくりと話をすればよかったな、と思いながら。
気の済むまで時間を過ごした後は、尖塔の階段を下りて廊下に出る。そう長い間無為に過ごしたつもりはないのに、城内の空気がまた変化したようだった。
静まり返った廊下には、争う声が聞こえない。
城仕えが主に利用する場所から離れているからだと、その時までは思っていた。
ミシェサーの死は確定した。
では、次にヴァリンがすべきことは何か。
最終的にディルと合流する話は纏めたが、ミシェサーがもう居ないとなると救助に要した筈の時間が丸々空いてしまう。手隙と言うには血生臭い、空いた時間で城内の援護に回ろうとした。
城の現状は理解出来ていないが、プロフェス・ヒュムネの侵食を喰らったのは知っている。幾つか道が塞がれていて、この尖塔に来るまでもヴァリンは二度ほど道を迂回した。
どれだけ形が変わろうと、この城はヴァリンの生まれ育った場所だ。王子として存在していたヴァリンにとって、一番親しんだ場所。
その城の廊下で、背筋が凍りそうになる程の殺気を感じたのは生まれて初めての事だった。
「っ……!?」
城内で害意を感じた事自体二回目だ。厳密には諸事情によりそれ以上あるが、こうして直に向けられた殺気だけで言うと二度目になる。
殺気の主は、ヴァリンがここに来ると知っていたのだ。
ヴァリンは、この殺気の主が誰かに気付いた。姿が見えない今は殆ど勘のようなものだが、その勘の精度は高い。
他に誰も来ないような尖塔に続く廊下に現れる者の中で、ヴァリンに殺気を向けるなんて事が出来る人物。
「……君は絶対に、ミシェサーの所に来ると思っていたよ。でも、ディルは居ないのか」
何かを引きずる音と、声と、足音が同時に近付いて来た。ずる、ずる、と、重い何かを伴って廊下の角向こうから現れようとしている。
声を聞けば勘は確信に変わる。
「……お前は知ってるか? 昔、俺が十八歳の誕生日を迎える前。あの馬鹿女が俺の婚約者候補に選ばれた時にな、ディルがアルギンを候補から外せって詰め寄って来た事があるんだよ」
ここまでの寒気をヴァリンに与えられるのは敵味方合わせて数えるほどしかいない。
その中でも明確な敵意を向けているのは、謁見の間でも顔を合わせた一人だけだ。
殺気を向けられても語る昔話は、互いにとって縁のある人物の名前ばかりが出て来る。
「俺は、その時にディルに殺されるのかって思ったよ。でもその時は何とか生き延びる事が出来たけど、似たような殺気を出してるお前に狙われる……って状況になるとはなぁ?」
「……」
「王家嫡男になんてなるものじゃないよな。ひたすら誰かと比べられて貶められて、挙句の果てには継承権失った後に騎士団長に剣向けられるのかよ。……本当、無理矢理にでもソルと駆け落ちしとけば良かった」
「……ふふっ」
その時、廊下の向こうから姿を現した黒髪の男の頭が見えた。
毛先は四方を向く癖毛だが、湿ったようにやや大人しい。
血の生臭ささえも漂って来て、スンと鼻を鳴らしたヴァリンが眉間に皺を寄せた。
剣を掴んでいる利き手と逆の手が掴んでいるのは、プロフェス・ヒュムネの民族衣装を着た女の姿だ。
普段は長い髪に隠れている首筋に手を差し入れて、引きずるようにして女を運んでいる。
男には目立った傷があるようには見えない。女とはいえプロフェス・ヒュムネを相手取って勝てる程に、彼は強いのだ。
――カリオン・コトフォール。
騎士団最強と言われた、現騎士団長。
引きずっている女はオルキデだ。
既に絶命しているらしく、首後ろを引っ張られて呼吸も出来ないだろうに身動きひとつしない。
彼女の首から上半身にかけて、夥しい量の血で服が染まっていた。変色して茶に近付いている出血は、彼女が傷を負って暫く経っている事を意味する。
「……ソルビットは、アルギンさんが居るのに城下を離れるなんて出来なかっただろうね。君よりも彼女が大事だったんだから」
「そうだな。俺には命を賭けて貰えなかった。駆け落ちって言っても、断られて終わりだったろうなって俺も思う。……そんな女に惚れたんだから、俺の運命なんて決まってたようなもんだ」
カリオンは手から力を抜いて、オルキデから指を離した。
どさりと音を立てて横になる彼女は、やはり動かない。
ヴァリンにしてみれば意外だった。オルキデは王妃派として自分達の敵に回ると思っていたからだ。こうしてカリオンが敬意も無く引き摺って来たと言う事は、オルキデはカリオンに牙を剥いたのだろう。
勝てずに殺された、王妃の妹。一時期は叔母とも呼んでいた異種族の女。
彼女の心の内まで、ヴァリンは分からない。でも、自分達と同じ人物を敵としていたなら、生きているうちにもう少し優しくしてやっても良かったかなとは思う。
――もう叶わぬ事だけど。
「カリオン。エンダ隊長はどうした」
「……」
ヴァリンを行かせる為に残ったエンダはどうなったのか。それは今のヴァリンに知る術はないのだが、無事ではないだろう。
彼が簡単にどうにかなる、なんて思わない。思いたくなかった。自分を副隊長に選んでくれた男だったから。
「エンダはね。……もう、この世に居ないよ」
そう聞いた時のヴァリンの心には、やっぱりなと受け入れる諦めと、そんな嘘を信じられる訳が無いという反発が同時に現れた。
その二つの感情は、カリオンはこんな悪趣味な冗談を言う人格の持ち主では無いと理解する心が鎮める。結局また、ヴァリンは見送る側になるのだ。
「そうか」
これまで、何回も、何人もの葬儀に出席した。葬儀自体が無い事だってあるし、今死んだばかりの者もいる。
いつだってヴァリンは守られてきた。それは王子としての立場だったり、ヴァリン個人へ向けた想いだったり、様々な要因で。
今はもう王子としての地位に意味は無い。個人的に守ってくれようとした人物も減った。
ヴァリンを守る盾はもう無い。その状態で、自分の命を狙う相手と対峙したらどうなるかなんて、考えずとも分かる。
「――じゃあ、次はお前が死ぬ番だろ」
けれどヴァリンには、無抵抗で殺される気は無い。
それまで腰に佩いていただけの剣を抜いた。斬るのも突くのも可能な、王家で戦場に出る者に受け継がれる細剣だ。
人の血を吸わせたことはあれど、それは自分より弱い者の血ばかり。強者との対峙は、これが初めてかも知れない。
「……私はまだ死ねないよ。やり残した事ばかりが残っている」
「やり残した事って……、俺を殺す事か。それともディルか。お前以外が死んだ世界で、お前は何を期待してるんだ?」
「別に。そんな大それた事は望んでないし、王妃殿下の居ない今、何かが劇的に変わるなんて思ってない。……それでも私にはやらなきゃいけない事が残っていてね」
笑顔のカリオンには、狂気が滲んでいた。
「反乱を企てた者を全員殺さなきゃいけないんだよ。君だって、帝国を滅亡させた時の事を覚えてるだろう? 王妃殿下が崩御されたこのアルセンで、アールリト様を次期継承者として立てるなら、反乱分子である君は一番に殺しておかなければいけないんだ」
その狂気を一身に受けたカリオンは、身を震わせながら強がるための笑顔を返す。
「立ち消えそうになってる与太話にまだ未練があるのか。そんな女々しい感情は犬にでも食わせておけ」
「勿体なくて食べさせられないね。与太話になるかどうかは、これからの私に掛かっているんだ」
二人の会話は平行線を辿る。どちらとも譲れない道の先にあるのは、剣を交えた殺し合いだ。
どちらかの死が決まるまで、互いが振るう白銀は血を求め続ける。
「アールヴァリン・R・アルセン第一王子殿下。その御命、貰い受けます」
「上等だ、カリオン。大人しく俺に殺されてくれれば、痛くしてやらない事も無い」
最初に踏み出した一歩に体重を乗せ、二人の距離が詰められた。