250 虚空に溶けた感謝
新顔は、この異質な状況に於いても落ち着いた笑顔を見せていた。
テラスの扉を開き、敵意を感じさせない様子で一歩踏み入れる。
ミュゼは一瞬体を強張らせるが、ダークエルフの格好のままのアクエリアは視線を向けただけで警戒を解く。フュンフは声を聞いた時点から敵として認識はしていない。
「……あ、あれ? なんか、どっかで」
そう言ったのはミュゼだった。
見覚えのある顔だった。具体的に言うと、アクエリアに案内されて初めてフュンフが施設長を務めるあの孤児院を訪れた日。城下で面倒な手合いの城仕えに絡まれた時、味方に回ってくれた騎士の一人だ。
肩で一つに結んだ髪と、柔和に努める声と表情。騎士としての隊服は城と緑を基調とした、『風』に所属する騎士服だ。
「アクエリア様も、ミュゼ様もお元気そうで安心しました」
「……貴方も大変ですね」
「セズミオ、と呼び捨ててください。副隊長からの伝言を預かっておりますので、お聞き逃しの無いようお願いします」
アクエリアをアクエリアと判断できるのは、前以て情報を齎されているからか。
警戒を解くに値する、ヴァリンの子飼いの部下の一人。
ミュゼがそれに気付いた時、伝言とやらに耳を傾ける準備が出来た。肩から力をすとんと抜いて、セズミオの唇から語られる言葉を待つ。
「『食堂に行け。ディルが居る』……との事です」
「……へ?」
伝言、と言われればどんな大層な事が聞けるのかと思っていたミュゼは呆気に取られた。
食堂と聞けばフュンフはどの道を通るべきか試算を始め、アクエリアは疲労に視線を彷徨わせる。
「……えーと、セズミオ? それだけ?」
「はい」
「他に、なんかこう、無いの?」
「はい」
セズミオは笑顔のまま、ミュゼの言葉を肯定だけする。
他に、と言われてもセズミオだって困ってしまう。ミュゼのこの様子を、詳細を聞きたがる慎重派と捉えるか、察しの悪い愚鈍な娘と捉えるかで『風』隊の中でも評価が分かれそうだ。
セズミオは後者として捉えた。けれど、あの酒場に所属する一人として――何より、自分の主であるヴァリンが信頼を置く一人の女として、好意的に接しない選択肢は無い。
「そしてこちらは伝言ではありませんが。只今、城内の道は幾つか潰されております」
「潰っ……?」
「我々としても情報を集めている所です。確認できているだけで一階は五箇所、二階は四箇所が草木と思わしき緑の壁にて通行止めとなっております。……まるで、謁見の間へ向かう道を封鎖したかのように」
「ほう? ……だったらお前はどうやって此処まで来たのだ? セズミオ。お前は謁見の間で即位式に参列していたのではないのか」
「迂回路は探せばありましたし、……自分は参列の許可が下りませんでした。此処へ来たのは、『来るようになっていたから』でしょうか。一階はゲオスが、それより上では自分が貴方がたの到着を待つようになっていましたから」
一階から行くと、ゲオスが待っていた――と。
どちらにせよ、ヴァリンの腹心からの歓待は避けられなかったという訳だ。幸いなのは、その歓待が文字通り快く迎えてくれる、の意味である事で。
やっと立つ気が起きたのか、アクエリアがのろのろとその場に立ち上がる。
「この城自体も、大木みたいなもので持ち上げられてますしねぇ。孤児院から見たこの城、凄かったですよ」
「ああ、やはりそうなんですね。どうもいつもより、城の外を見ると視点が高いなって思ってたんです」
セズミオのこの言葉はとぼけているのか、それとも素なのか。素で頭の足りない発言をする諜報部隊がいて欲しくも無いが。
今の状況でもどこかぽやんとした雰囲気を出しているセズミオに、嫌味のような言葉を掛けるアクエリア。
「それで、貴方達を寄越して自分は下がったままっていうんですか? ヴァリンさんは」
「……」
「ヴァリンさんは今何してるんです。食堂にディルさんが居るって、それヴァリンさんは居ないって事でしょ。どこで油売ってんです」
アクエリアの問い掛けは、苦笑いで誤魔化される。
こんな事態に彼が逃げ出すなんて有り得ない――と、アクエリアだって思っている。けれど自体はそれ以上に深刻かも知れなかった。
そしてセズミオの中の、アクエリアの評価もその問いかけで少し変わる。
察しが良いのに具体的な事を言わせたがる面倒臭い手合い。
こんな所で、面倒な輩と関わっている時間なんてセズミオには無かった。無理矢理話の矛先をフュンフに変える。
「フュンフ様。ディル様は、食堂でお待ちの筈です。お急ぎください」
「む……」
「ディル様の御心を思えば、待つこの時は焦れる程に長い時間の筈です」
ヴァリンが今、何をしているかなんて――伝えられる訳が無い。
「……そうだな。ヴァリンの件は後回しだ。今の我々に出来る事は、この場で無為に時間を費やす事では無い。このテラスから食堂までの距離を考えると、そう近い場所にある訳でも無い」
フュンフはその意を察したのか、ミュゼとアクエリアを促してくれる。
渋々といった具合で二人はテラスから廊下に入って行き、フュンフは一番最後に付く。
セズミオは軽く頭を下げて、三人を見送ろうとして。
「……セズミオ」
「はい」
フュンフの問い掛けに応える声も穏やかで。
「我々が鉢合わせになると危険な隊は、『鳥』と――見ていいのだろう?」
「……現在、『鳥』だけでなく『月』の半数も、敵対勢力です。指揮を執っているのは、団長のカリオン様と『月』副隊長のエイラス様です」
「……エイラス」
それはフュンフが自ら、副隊長として指名した男だった。
彼自身は有能だったが、それは敵対しなかったらの話。敵対すれば、その愚直なまでの生真面目さに歯噛みせずにいられない。
「……部下の不始末は自ら取る。何としても、民を巻き込む愚かな行為は撤回されればならない」
「承知しています」
「……お前は? 私達と来ないのか」
「……」
彼は黙った。その問いかけは、少々狡い。
来ないかと言われて行きたくないと答えたい人物ではない。フュンフは、ヴァリンが絶望の淵に居る時にいつまでも支えてくれた一人だ。
一緒に、と言えば喜んでくれるだろう。安堵の表情を浮かべるだろう。城内の情報を齎せる自分が居ることで、フュンフの負担が軽くなる。
でも。
「申し訳ございません」
主が。
ヴァリンが。
死を覚悟して城に居る。
彼の側に控えないセズミオを、セズミオ自身が許さない。
「そうか」
フュンフはそれ以上を言わなかった。ただ一度、残念そうな顔をして、テラスから廊下へと入る。
去っていく三人の後ろ姿を見ながら、笑顔を浮かべるセズミオ。
「はい」
声はもう届く距離にない。
「ありがとうございました」
――今、この時に、来てくれて。
セズミオの感謝は尽きないが、彼も彼でやる事が残っている。
城内では今、対立派閥が争っている。武力に物を言わせる力尽くの鎮圧合戦。
決着を付ける華々しい役回りには、このテラスを去った者達が相応しい。彼等の為の露払いなら、セズミオにだって出来る。
騎士の力は既に、誰かを傷付ける為のものに成り下がってしまった。でも今を乗り越えた先にまた、守る為の騎士が蘇ると信じ。
セズミオもテラスを後にする。
この先、誰が死ぬかも分からない闘いに身を投じる覚悟で。
「それで、その食堂ってどこにあるんです?」
フュンフを先頭に、アクエリアとミュゼは先を急ぐ。テラスを後にしてから一番近いであろう道を選んで進むだけが、フュンフしか道が分からないから二人は少し焦っている。
急ぐことも出来ないのに先頭を進むフュンフは病み上がり。せめて場所だけでも聞きたいアクエリアが尋ねた。
「焦るな。ここからだと五分程度で着く。城内は広く、少しばかり歩くが君達なら問題はあるまい」
「五分も歩くのかぁ……」
同じ建物内で五分も歩くという現象が無かったミュゼは既にうんざりした顔をしている。
移動だけで休憩時間を浪費してるんじゃないか、とアクエリアは思うが声には出さない。
フュンフは慣れた調子で先頭を歩く。二十年以上を騎士として過ごして来た城だ、改修された箇所があるとはいえ間違える筈が無い――と、思っていたのだが。
急にフュンフが足を止めた。つられてアクエリアもミュゼも立ち止まり、その視線が呆然と眺めている先を見る。
「……ん? んんっ?」
「フュンフ様、どうかしました?」
「………」
疑問に満ち満ちた彼の声は、現状を理解出来ていないようだった。
二人がフュンフの先に見たのは緑色をした行き止まり。
植物を壁一面に這わせたような、奇妙な飾りの壁だ。風も無い筈の室内で、緑の葉がわさりと揺れた。
「道が無い」
フュンフの言葉に、二人は驚くでもなく納得した。さっきセズミオが言ったばかりの事が目の前に現れたのだ。
あれはプロフェス・ヒュムネか。城を外から空へと押し上げた植物か。無風なのに動いているのは生きているからか。
ミュゼがフュンフの前に一歩出る。太腿を探った手からは三つ折りの槍が取り出され、振るだけで真っ直ぐに伸びるその切っ先が空気を切って緑色に向いた。床を踏み締める音も大きく、ミュゼが構える。
「どうします、こじ開けてみます?」
「……それが可能ならばいいが、道を迂回した方が早いかも知れん。体力も温存せねばならんだろう」
「それもそっか」
フュンフの冷静な分析に、大人しくミュゼは従った。槍はもう戻すことなく手に握ったまま後ろ側で床を突く。
二人のやり取りは互いの扱いに慣れた上司と部下のようだった。ミュゼは基本的に職務に忠実だが、それがフュンフの側だと顕著になる。それがアクエリアには婚約者の自慢すべき所であり、嫉妬の種だ。
じゃあ言われる通り迂回路を探そう――と、ミュゼが逆方に歩き始めた途端。
「こっちには居なかったぞ!」
「じゃああっちか!!」
今来た道の向こうから、騎士達がフュンフ達を探す声がする。
空からあれだけ熱烈な歓迎をされたのだ、三人の襲来を伝令が既に走っていた可能性だってあった。
声はまだ遠い。行き止まりを押し通るか、見つかる前に迂回路を探しに走るか、それとも迎撃するか。
三人の頭には瞬時にその選択肢が浮かんで、一秒。
「少し走るか」
「倒しとこう」
「あの壁突き破りましょう」
三様の答えが出て来て、三人が顔を見合わせた。
一番血の気の多い答えを出したのはミュゼで、二人から視線を向けられて居心地悪そうにしている。
「……倒しとかないと、マスターの所まで一緒に連れて行くことにならない? 私達マスターの手伝いに来たのに、面倒増やしちゃ駄目だと思うけど?」
ミュゼだって、ただの馬鹿でも脳筋でもない。ちゃんとした理由があると聞けば、男二人だって意見のすり合わせは容易で。
アクエリアは軽く頷いてミュゼの前に出た。フュンフは何も言わずにその場に留まる。
「ミュゼも少し休んでなさい。二・三人程度なら秒で終わらせますから」
「アクエリアだって無理は嫌だよ。さっきぐったりしてたじゃん」
「御褒美上乗せで宜しくお願いします」
冗談に混ぜ込んだ、熱烈な求愛の言葉。
その瞳は正体を晒している黒の瞳だからか、奥に燻ぶる熱を隠しきれていない。
ぐ、と息を飲んだミュゼは嫌だ、なんて絶対に言わなかった。言っても聞かないから。
「――無事に終わったらね」
でも、愛する人に愛される幸福は身震いするほどむず痒くて。
何度だって言ってきた、全部後回しにする魔法のような言葉。
本当にアクエリアが御褒美を要求してくる時には、いっそ殺せと喚き散らすかも知れない。
アクエリアはくくっ、と小さく笑って、終わるまでミュゼに振り返らない。
「約束ですよ」
優しい声で、後回しの言葉を約束へと昇華させた。
その直後、ミュゼにとって誰よりも優しい男は、ミュゼ以外にはそうでもないと――目の前で、何度目か分からない程に思い知らされる景色を見る。