249 願いを叶える聖女の匙加減
アクエリアとミュゼとフュンフは、上空から城へと近付いていた。
地震の後から現れた大樹は城を巻き込んで空へと押し上げている。城で待つディルの元へ行くなら、地上を進む案は自然消えた。アクエリアは己の魔法で空を飛べることから、二人を運ぶ役割を担う事になった、のだが。
「……アクエリア、大丈夫……?」
「っぐ、……っ、だいじょ、……って、みえ……っ、な、ら、ジャスミ、っ……みて、もらっ……」
背中におぶさり、アクエリアの胸に手を回しているのはミュゼ。
背後から両脇に手を通して胸の前で手を組む、老人が誤嚥した時の救命法のような抱え方をして運ばれているのはフュンフ。
三人が団子のようになって上空を飛んでいれば、目立つのは当たり前で。それも重量超過からかアクエリアの飛行はかなり不安定。同じ高度を保っていられずに、ふらふらゆらゆらと上下に揺れている。
城にある高台の見張りからすると格好の獲物だった。見張りは文字通り、外敵の駆除や外界の異常報告の為に居る。異常しかない城の外観は報告しようがないが、アクエリア達の襲来は数少ない『仕事』だった。
番えられた弓矢が、ひゅん、とミュゼの顔の側を掠めていく。王国騎士団に選ばれるだけあって、射手の腕前は見事。
「おぉ」という驚いたのか驚いていないのか分からない間の抜けた声を零したのもミュゼだった。
「わりに、あわなっ……!」
切れ切れの吐息で不満を漏らすアクエリアの唇。
羽も無い種族が空を自由に翔ける、なんて自分に降りかかった現状が思っていたよりも恐ろしいもので、自分は高所恐怖症だったのかと戦慄しているのがフュンフだ。安定性の無い空中浮遊ではそうなるのも無理のない話だが。
「頑張ってよ、アクエリア。ここで私達落ちたら、マスターの手伝いどころじゃないよ?」
「あっ、な、た、がっ! 代わりに、飛ん、っ!!」
飛行と同じで不安定な声でも、ミュゼには不満の内容が通じたらしい。背中から回した手に力を込める。
それはこんな状況でも無ければ愛し合う恋人たちの戯れにも見えただろう。
「やだよ、私飛べないもん。お前の代わりは私には出来ない。でも、お前だって私の代わりは何処にもいないんだろ?」
――否。
こんな危機的状況にあっても、二人の世界は健在だった。
些かうんざりした顔で、頭上の二人の会話を聞く羽目になっているフュンフの顔色は相変わらず悪い。痴情の縺れからの油断で、アクエリアがうっかり手を離せば自分の体は地上の石畳に叩き付けられてしまうのだ。己の脳内に降って湧いた言葉遊びに、フュンフが盛大に溜息を吐いた。
「……ほう、しゅ、う! よこせ!!」
ついに発言語数を縮めにかかったアクエリアは、まるでならず者のような口調でミュゼに叫ぶ。
くすくす笑うミュゼはそれに応を返す。
「誠心誠意、御期待に添えさせて頂きます」
「……言いましたね!?」
途端に段違いのやる気を出すアクエリアは、その実年齢に見合わず若かった。
好いた女からの言葉で幾らでも調子に乗れるなんて、フュンフにはそれに似た経験が――遠い昔には、何度かあった。
最初から何があったって叶わなかった恋。もしかしたら、恋にも成り切れなかった感情かも知れない。もう、彼女は側に居ない。
その点をアクエリアには少し羨ましく思った。こんなに賢く働き者のミュゼが、側に居て想ってくれるのだから。
「後から撤回しても聞きませんからねぇえ!!」
アクエリアはそう叫ぶや否や、空中のその場で止まった。そのまま身を起こし、フュンフを抱えて運んでいた片手だけを離して軽く掲げた。
「っ、は!?」
ぐらりと体が傾いだフュンフだが、残る片手が離れないでいてくれたからなんとか地面との熱烈な再会は叶わず済んだ。
咄嗟に自分の体を引き留める、アクエリアの残った片腕にしがみついて苦情を申し立てようとした。しかしそれも叶わない。
途端に濃く感じる、異臭。それは実際に香る訳では無いが、フュンフの感覚では臭いとして感じ取ってしまった。腐りかけの果実のような、饐えた臭い。
それは紛れもなく、アクエリアから漂っている。
「『雷の精霊』!!」
フュンフが掴んだアクエリアの腕の肌が、褐色になっていた。
「『近付く全てを撃ち落とせ』『歯向かう者に贖わせろ』!」
今のアクエリアの顔を見上げる事なんて出来ない。けれど、その姿がいつもと違うだろう事は分かる。
彼はダークエルフである事を、ミュゼもフュンフも知っている。
でも、城で矢を番える者達はどうだったろう? フュンフの視力では、その表情を見る事は叶わなかった。
短い命令は詠唱などではなく、普通の仲間相手にする命令にも聞こえた。アクエリアの言葉は特別な言葉ではない。
その何の変哲もない言葉でも、口にする者がアクエリアであれば結果は変わる。
三人の目の前を、閃光が裂いた。
三人に向かって飛んできていた矢が、雷によって落とされる。轟音が響き渡るのと光が広がるのは同時だった。
雷が落ちるような雲の厚さではない。なのに、雷光はアクエリアの意のままに空間を走る。
「『風の精霊』、『速度倍化』!」
次に口にしたのはまた別の言葉。すると三人を巻き上げるかのような風が強く吹いて、空高い位置へ移動する。
風と共に高度も安定し、ふらつくような動きも無くなった。
聞く限り簡単な命令だ。フュンフはこれまでエルフ達の魔法詠唱を見たこともあるが、こんな簡潔な言葉だけを使っている所を知らない。
アクエリアは掲げた手、人差し指だけを立てる。その指先が示したのは、城の見張り達。
「『雷の精霊』。――『あっち』」
『何が』、までは言わない。
それさえも理解している精霊は、アクエリアの指先を中心とした横列に球状の閃光を宿し始めた。
閃光は数を増やす。秒を数えるごとに倍に増え、それが見張りの数とぴたりと合うと同時、自分達から指先を離れていく。
離れていく――なんて言葉では速度が足りない。それは正しく閃光なのだと思わせる瞬きの間に、光が空気を裂いた。
轟音。
鼓膜が破れる程の音がその場に響くと、見える範囲に居た見張りが全員床に伏した。
一瞬の稲光は、それ以上アクエリア達に矢を番えるのを許さない。ぐらりと一瞬力を失いかけたアクエリアだが、なんとか持ち直してふらふらと城へと近付いていく。
今の姿はダークエルフのものだ。褐色の肌と長くなった金の髪、黒の瞳。人相はいつもと変わらないが、体に宿す色と髪の長さの変化は別人と言えば誰もが信じる程。
「……っれで、ぜった、い」
他の者には通じない何事かを虚ろに繰り返しているアクエリアが、一番手近な床にフュンフを乱雑に下ろす。まだ床に足がついていない内から手を離すが、それはフュンフも覚悟していた。優雅にとはいかないまでも、音を立てて着地した彼は無言でアクエリアへと向き直る。
うつ伏せになるような形で地面にアクエリアが倒れ込むと、その背からミュゼが下りる。そして顔の側に身を寄せると、下を向いたまま見えない顔に向かって声を掛けた。
「大丈夫、アクエリア? 水飲む?」
「………」
上半身は呼吸の度に大きく動いている。確かに、特別鍛えている訳でも無いアクエリアが二人を城まで運ぶには多大なる魔力も必要になる。
呼吸音も、やや喘鳴が混じる。喉奥から震えるような音に、疲労度は特別高いのだろうとミュゼも思った。
尚も反応を返さないアクエリアに、もっと顔を寄せようとしたミュゼ。
「っ!?」
アクエリアの前では見せてしまう油断で、簡単に翻弄させられてしまった。
ぐい、と乱暴に手首を掴まれて引き寄せられる。アクエリアの体の上に倒れ込むようになったミュゼだが、その顔が着いたのはアクエリアの唇だった。
目測は丁度。ミュゼの瞼とアクエリアの唇が触れあって、二人の体も一部密着する。
「……全部終わったら、新居探しに行きましょうね」
「マスター達と一緒に住む場所?」
「俺達新婚夫婦の邪魔なんてさせませんよ、彼等は彼等で新居構えさせます」
今の状態で聞くには少々浮ついた会話だ。フュンフは自分の体や服にアクエリアから発せられた腐臭が漂っている気がして、腕を鼻先に近付けて嗅いでみた。臭いが染み付いた感じは無くて、険しい顔をしながらもそれは納得した。
二人のいちゃつきが度を越さない内に、とフュンフが手を叩いて二人の注意を逸らす。
「その辺にして貰おう。我々は漸く入口に辿り着いたに過ぎない、一歩たりとも内部に入っていないのだから、これからが本番だ」
「……自分一人じゃ何も出来なかったでしょうに、偉そうですね」
恋人同士の語らいを邪魔されたアクエリアは苛立ちを隠しきれていないが、ミュゼは平然とその場から立ち上がる。
フュンフに一部始終を見られていても、アクエリアから求婚の延長線上の提案をされても、顔色一つ変えない。視線にも言葉にももう慣れた、というのもあるが。
「でもアクエリア、フュンフ様の言葉も尤もだよ。ここじゃ休憩できないし、移動しよう。マスター探すにしても、ここでへたばってたら何も出来ない」
ミュゼの念願は、ここで叶う。
マスター・ディルを助け、その妻であるアルギンを救出し、王妃達プロフェス・ヒュムネの馬鹿げた企みを止める。
――アクエリアの悲しい未来をも、断ち切れるかも知れない。
自分に出来る事は、この城内に集約されているのだと思うと気持ちは先走ってしまう。
「……ふむ」
フュンフはミュゼの言葉に、何かを考えるように首に手を当てて捻った。長いようで短かった空中遊覧は面白くも無く疲れるばかり。
だからと何処へ向かえば良いのか? その辺の連絡のやり取りは間に合わなかった。時間は無かったし地震が来てしまえば身の回りのことで精一杯で、連絡を待つなんて選択肢も無かった。ぶっつけ本番のような、下準備も碌に出来ていない状態で連携を取れと言われても無理な話だった。
「フュンフ様」
その時、三人の元へ新たな人物が近付く。
テラスの扉を開いた声の主は、柔和な微笑みを湛えて三人を見ていた。