248 最期の挨拶も淡白で
「よ、っと」
ディルとヴァリン、男二人が隠し通路から華麗に着地したのは広い室内だった。
部屋と言うには広すぎる、開け放たれた場所。幾つも並んでいた食卓と思わしき机と椅子は、地震のせいか一番端に無残な形で全て寄ってしまっている。
次の目的地として二人が目指したこの食堂は、記憶にあるような――整然としつつも賑やかな――場所ではなくなってしまっていた。
こんな緊急事態に、ゆっくり食堂で食事を摂っている者など一人も居なかった。けれど、引っ繰り返った食堂の調理場の中では、掃除に精を出している人影がひとつだけある。
ヴァリンはその影まで近寄ると、調理場をぐるりと囲む配膳台越しに声を掛けた。
「よ、お疲れ。こんな時にまでご苦労な事だな」
「………」
声を掛けられた男は黒髪で、ヴァリンよりは多少長い方に届くまでの髪をひとつに結んでいる。
纏っているのは食堂の料理人が着る調理服で、利き手である右の二の腕に巻いているのは厨房最高位を示す白と赤の縞模様の手巾。年齢は四十前後で独身の仕事人間。
宮廷料理人であり、厨房最高責任者のキタラだ。彼は苛々が募り過ぎたようで、王子騎士を目の前にして手にしていた凹んだ鍋を足許へ勢いよく投げ捨てた。
「殿下、俺の疲れを労わるのなら口先だけでなく現状をどうにかしていただければ助かるんですよ!!」
「すまんすまん、こっちも調整中だ。あまり怒るな、シロフォを見習えよ」
ここで名前が出て来たシロフォというのは、キタラの上の兄。キタラは四人兄妹の次兄であり、四兄妹が全員城に仕えている。
シロフォは物腰柔らかで、どちらかと言えば気弱の部類なのだが、キタラは気が強く暴力的だ。それと比例するかのような情熱を料理に傾けている。
そんな宮廷料理人の乱心が面白かったらしいヴァリンは、口許に軽く手を当てて笑いを堪えている。こんな所でも笑い上戸は健在だ。
「……キタラ。汝は、此の様な場所に居て良いのかえ」
キタラが今、厨房に居ることに疑問を抱いているのはディルだった。
問い掛けられた側も暫く唇を曲げて考えていたものの、出る結論はひとつしかない。
「俺は……料理人ですから。毎日包丁持ってても戦える訳で無し、そもそも俺は飯作る以外の何かが得意な訳でも無い。だからこうやって、文字通りに傾いた食堂に居る訳ですが……。何があったって、この厨房だけは俺の『城』ですよ。城を守るのに、主である自分がいなければ意味が無いでしょう」
即位式の時に、何が起こるかなんて知る訳が無かった。けれどキタラは何かしらの嫌な予感を察知していた。
ヴァリンから『今日は臨時休業にしろ』と言われたのは今朝の事。深くは聞かずに、他の料理人を返したのは自分で英断と思っている。
「ヴァリン。キタラは『此方側』なのかえ? にしては、あまりにも……」
「……言ってやるなよ」
キタラの立場がプロフェス・ヒュムネ側であろうとヴァリン側であろうと、戦力差に対した変化はない。
彼の意思が示す先にあるのは、戦力差よりも、もっと違う所の勢力図が変わる立場だ。
「ディル様。俺はあいつみたいに柵がある訳じゃない。俺は戦えない代わりに、調理器具さえあればどこでも料理は作れる。でも俺の弟は、剣を持って王家を守るしか能の無い男だって自分の事を思ってる。……もし、アルギン様が生きていたら、多分あいつの頭でも張り飛ばしてくれたんでしょうけど」
キタラの姓は、城仕えの者が聞けば竦み上がるものだった。
キタラ・コトフォール。家族で同じ姓を分け合う、コトフォール家の次男。
それは騎士団長を務めるカリオンの姓と同じだ。彼を弟に持つキタラは、それが誇らしくもあり、心苦しくもあった。
鍋を投げて空になった腕を組んで、ディルとヴァリンに心境を吐露し始める。ディルの妻の名も、懐かしいものを思い出すように口にした。
「これまで、……ずっと厨房に立って来て。アルギン様が居ると、食堂が華やいだんですよね。聞こえる話はおおよそ女性を相手にするような感じじゃなくて、粗暴って言うか……男達の馬鹿話の延長戦みたいで。誰に対しても明るくて、隊長として慕われて。そんなアルギン様だから……カリオンも、あんなになるまで悔いたんだと思います」
恋愛感情ではないが、カリオンは彼女を仲間として愛していた。ディルの抱いていた感情とは違う『愛』が、今も彼を苦しめる。
彼は一人で耐えた。ディルも一人で耐えてきた。けれどディルには仲間がいて、支えようとしてくれる人がいた。その違いが二人の道を分かつ。
「ディル様。俺にはもう、あいつと兄弟喧嘩なんて出来ないけど。……どうか俺の代わりに、一発殴ってやってくださいよ」
「……ふん。兄弟間の諍いには関与しない。我は我の道の先に邪魔が存在する場合、残らず滅するのみ」
――カリオンが立ちはだかった場合、その命に関して保障するものではない。
ディルの言い草で、その意味は伝わったらしい。それでもキタラは頷いた。
「あんなになっても、俺の弟だから……少しは加減してくれると、っ!?」
苦笑を浮かべながら温情を求めている最中、キタラの言葉が轟音に掻き消された。
地震とはまた違う地鳴りがする。空気を壁ごと揺らしているような、耳を劈く雷鳴が耳に響く。
それがあまり間を空けず、何度も鳴った。外から届いて城内を響き渡る音からは、回数までは分からない。
完全に音が無くなるまで暫くの秒数が必要だった。音が消えてやっと、キタラが口を開く。
「っな、なんだ今の!!」
「あー。……思ったより早かったな」
キタラは驚いて、咄嗟に片耳を覆いながら驚いた。
ヴァリンは理由が分かった顔をして、間延びした声だけ出す。
ディルも何が起きたか分かっている。悪天候でもない昼日中にこんな轟音を出せるのは、ディルの知る限り一人しかいない。
「キタラ。今から俺達の待ち人がここに来るはずだ。ディルとお前で少し相手をしてやってくれないか」
「あ、相手? 待ち人って誰です? ってか……ここに来るって、何が来るんですか。あれ、何かの合図なんですか? 俺が相手をするって、殿下はどちらかへ行かれるおつもりなんですか?」
轟音を出す待ち人を『何』と聞くなんて、キタラは随分観が良い――と、ディルが思う。
あんな音を、一個人が出せる訳もないのだ。
矢継ぎ早に問いかける言葉に、ヴァリンははぐらかすように顔の横で手を振った。
「俺、他にも待たせてる奴が居るもんで忙しいんだよな。今から来る奴は外部からの協力者だ、茶の一杯でも出してやったらディルと一緒に送り出していい。その後には、キタラ。お前も逃げられるならどっかに逃げとけ」
「どっか、って……。この城に逃げられる場所があるんでしょうかね……」
キタラの弱々しい呟きも、ヴァリンの耳には何処吹く風だ。彼が話し終えるよりも先に、ヴァリンは二人に背を向けた。
肩越しに振り返るヴァリンは、ディルに向けて笑みを浮かべる。
「ディル、あいつらも来るから……俺達はここで別行動だ。……運が良ければ、次もまたテラスで会おう。城の中制圧し終わったら、一番最後の仕事は旗印を落とす事だからな。一番見通しがいいのは、あのテラスになるだろう」
叶うかも分からない、次の約束を取り付ける。
ディルは直ぐには、応の返事が出来なかった。
「――ふん。汝とて、急いてしくじらぬようにするのだな」
「分かってるよ、俺も充分に気を付けるさ。お前だって全盛期なんざとっくに通り過ぎてるんだから、無茶ばっかりしようとするなよ? ……あの馬鹿女が泣くぞ」
「……」
横から聞いていたキタラは、ヴァリンの言った馬鹿女がアルギンである事に気付かない。キタラにとって、アルギンは過去に死んだ女だ。
だから二人は、キタラの疑問を解消したりはしない。ヴァリンはひらりと手を振ってそのまま行ってしまった。
ヴァリンの背中を無言で見送った後は、ディルも次の行動に移る。誰かを待つのは苦でないが、妻との再会をディルはこれ以上無いという程に焦らされている。
「キタラ。……厨房に武器となるものはあるかえ? 出来れば刃物が良い」
「は、……武器ですか? 厨房に武器は無いですよ、それでなくともここは王城だ。物取りが出る訳も無いし来る客は皆騎士ばかり。あった所で使いどころが無いです」
「包」
「包丁は武器じゃないですよ。料理人が包丁を武器として使われる所を黙って見ているなんてのも無理ですから」
「……」
これからの行動に必要になるだろう武器の調達を打診してみたが、包丁は使えないと言われれば口を閉ざすしかなく。
今、ディルが持っているのは自分の剣と妻の短剣。そのふたつのみで既に王妃を弑したが、これから先誰を何人相手にするか分からない。最悪投擲用になりそうな小物でも良かったのだが、この『厨房の城主』とやらは料理道具の何某かの提供を拒んでいる。
ディルの記憶する限り、キタラは料理に関しての態度は真摯で几帳面だ。これ以上の説得は時間の無駄だと判断する。
「……、ん? そういえば」
諦めかけたディルの耳に、キタラが何か思い出したような声が届いた。
厨房の一番奥へ向かった彼は、片隅に追いやられたままの何かを持って来た。
埃こそ被っていなかったものの、薄い木材に掘りを入れた小箱は古臭く見えて、所々変色している。長い間その場所に置かれていたと一目で分かるような状態だ。
「……昔、アルギン様が、俺に迷惑を掛けたからって持ってきてくださったものなんですが」
「我が妻が?」
「はい。……でも、その時はまだ結婚してませんでしたね。御前試合の直後くらいです」
中を開くと、劣化した外側とは違って綺麗なままの銀色の小刀が二本入っていた。
果物を飾り切る時に使えそうな、ほんの小さな刃。通常の料理に使うには小さすぎる。
「勿体無いから要らないって話したんですよ。でも、気持ちだから取っとけって言われて。俺、誰かに感謝されるとか照れくさくてむず痒くて嫌だったんですよ、その時は。……でもそう何年も経たないうちに、これが最期の贈り物になるなんて思わなくて。これから先、贈り物どころかもう俺の作ったもの食べて貰う事もないなんて考えてなくて」
その小刀を箱ごと差し出したキタラの手は、震えていた。
キタラだって、まだ過去に出来ていない。
自分より年下の、騎士とはいえ女性。それも集団でとはいえ仕事外の付き合いもあった『友人』だ。
彼の差し出した小刀に、ディルは手を触れられなかった。彼の思い出が、こんなに綺麗な姿で残っている。
ずっと厨房に置きながら、中身に触れることが出来なかった思い出のひとつなのだ。
「……其れは、持って行けは」
「持って行ってください」
ディルの声を掻き消すような強さで、キタラが言った。
「アルギン様が俺に任せたって事は、俺がどう使ったっていいって事です。アルギン様の思いが籠った小刀なら、ディル様の事を絶対に守ります。一本だけでいい。どうかお持ちください」
「……」
妻の思いが籠った小刀。
そこまで言われては、ディルだって断る言葉が思い浮かばない。
「……礼を言う」
キタラの懇願のような言葉は、ディルに小刀の一本を掴ませるのに充分だった。