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「……あれ、もう行ったのか」
昼過ぎてミュゼが一階に降りてきた。貸し部屋の者さえ外に出て行って静かになった建物全体だが、いつも変わらない調子でマスター・ディルだけがカウンターの中で腕と足を組んで座っている。
何が楽しいのか分からないが、ミュゼがカウンター内で見かけるマスターはいつもこの体勢だ。寝ている事が多いらしいが、こんな所にいても暇だろうに、とミュゼが内心思っている。
マスターの事は苦手だが嫌いではない。ミュゼとしても、嫌うに嫌えない相手だ。自分の『血筋』を考えれば、尚更の事。
「なー、マスター。ユイルアルト達ん所の植物の水やり頼まれてるんだけど、鍵って借りられる?」
そんなマスターに、ユイルアルトからの頼み事を切り出してみる。しかし、その返答は芳しくなく。
「……。住人の部屋の鍵は渡さぬ事になっている」
「はぁ? んでもよ、私その住人から頼まれてるんだけど」
「問題事が起きた時の責任は取らぬ。特にユイルアルトの部屋は、我には手に余る程の貴重品があると聞く」
どうしよう、とミュゼが呻いた。
植物を育てる事は難しいが、枯らす事は容易だ。水を遣らなかったらすぐに枯れてしまうだろう。それがユイルアルトのような知識を持つ者でもなく、薬草などの勝手が分からないミュゼだったら尚更。
枯れたらどうすんだよ、頼まれたの私なのに弁償なんて出来ないぞ。と尚不満そうにごねるミュゼを見て、マスターが重い腰を上げる。
「……鍵は、我が開ける」
それはディルが損失の大きさを鑑みての発言。医者二人が薬草から作り出す薬の重要さはよく分かっていた。
鍵をカウンターの奥から取り出して、階段に向かう。
話が分かるじゃん、と漏らしながらミュゼもその後ろに付いて行った。
階段は二人分の体重を受けて軋んだ音を立てる。辿り着いた三階で、ディルが無言で部屋の鍵を開けた。
ジャスミンとユイルアルトが二人で使う部屋は、ミュゼが使っている場所よりも広い。部屋の中はどこか薬品臭く、それでいて整頓が行き届いた綺麗な部屋だった。
「えーと、如雨露如雨露。……あ、これか」
銀色に光る如雨露を早速見つけて、ミュゼが手に取る。そしてそれぞれの植物の土の感触を確かめると、部屋の持ち主たちはしっかり水遣りして出て行ったようだ。
最後の伝達も無しに二人は行ってしまったから、確認するという意味合いでは無駄足ではない。
「……あのさ、マスター」
しっとりと湿った葉の感触を確かめるように撫でて、ミュゼが口を開いた。
マスターは無言で話の続きを促す。無言のその空気に既に慣れてしまったミュゼは、彼の沈黙も気にしない。
「あの二人、いつ帰って来るんだろうな」
「……知らぬ。宮廷医師の拘束と連行だけならば、一週間と経たずに帰るであろうが……使用した植物の検分となれば我に分かる筈も無い」
「時間かかれば片道四日とか言ってたけど?」
「副マスターが居ながら其処迄時間を費やす訳が無かろう。あの者は恐らく、ユイルアルトとジャスミンの体調を顧みずの強行も辞さぬ」
「………」
ミュゼが、翠の瞳をじっとマスターに向ける。
いつもだ。この男は、自分達の前でヴァリンの名を呼ぼうとしない。
ミュゼはヴァリンの正体を聞いた訳ではないが、薄々気付いている。この場末の酒場に似合わぬ立ち居振る舞いと、宝石を嵌めた細剣と、濃紺の髪の色、そして彼が反応した名前で。
「……ヴァリンに、ジャスミンが手を出されてないといいけれど」
「其れは無い」
きっぱりと言い切ったマスターの言葉に、ミュゼが目を丸くした。
「え、何で言い切るの」
「あの者は、ジャスミンに本気ではない。ジャスミンも、あの者に靡く性格で無いからこそ遊ばれているだけだ」
「なにそれ。どういう事? ジャスミンにあんな歯の浮くような事言っておきながら本気じゃないってあの野郎ぶん殴られたいの? ってか本気じゃないって分かってんなら止めなよマスター。ジャスミン可哀相だろ」
「止める……。止めて言う事を聞く男に見えるかえ?」
「アッハイ」
悲しい事にその言葉はすんなり理解出来て、ミュゼの口からはそんな返事しか出てこなかった。
マスターの目からでもヴァリンはそんな性格なのだと認識されているのだ。だからと、この場所に来てから話をする友人のような存在が、そんな不憫な目に遭っているのは見ていられない。
「んでもさぁ、本気じゃないならなんであんなにちょっかい出す訳?」
「…………。汝は」
マスターが、ミュゼの瞳を見返した。
翠と灰の互いの瞳が見つめ合うが、それを先に逸らしたのはマスターの方だった。
「愛する者を喪った時、その面影を何処へ追う」
「……面影?」
愛する者、と言われてミュゼの脳裏に育ての親の顔が浮かんだ。今はそれが鬱陶しくて僅か首を振る。
マスターはそれが、ミュゼの不理解と理解して言葉を続けた。
「その点、我は幸運だ。我が妻の代わりに思える者は今迄見た事が無かった。だが、あの者は無様に追おうとしている。追っても、己の心とやらが付いて行かないのを理解していて」
「……?」
「あの者は。……アールヴァリンは、髪に面影を追った。あの者が声を掛け、迫り、靡いたら捨てたのは」
マスターの瞳が、窓の外を見た。
もうすぐ夏になる。季節が変わる。けれど、マスターの心も、ヴァリンの想いも、ある日を境に止まったままだった。
ミュゼは、マスターの口から出てきたヴァリンの名前に言及はしない。ただ、感じていた予感を確信に変えて、ああそうなんだと納得するだけ。
「いつも、茶の髪の者ばかりだ」
ミュゼはそれ以上を聞かなかった。ただ、その先を想像するだけなら許されると思って。
この男共は、傍から居なくなった者に今でも心を奪われたまま、返して貰っていないのだ。
例え物体のように授受が可能なものだったとしても、マスターもヴァリンもきっと、返せと言わないのだろうけれど。
ミュゼは遠くを見るようなマスターに、そんな思いを抱かずにいられない。
馬車が城下を出て行って、二時間は経った。
穴の開いていない幌馬車というのは、ユイルアルトもジャスミンも初めて乗った。木の車輪というのに乗り心地も酷く悪いという訳ではなく、ぼんやりユイルアルトが中を見渡す。
幌馬車の馬は一頭、荷物は四人分だ。しかし、依頼で行けと言われていたユイルアルトやジャスミンよりも、ヴァリンの荷物の方が多かった。フィヴィエルという名の青年の荷物はほんの僅かの着替えのみ。あとは四人分の食料が一週間分と、飲み水を入れている容器。緊迫している様子もなく、まるで集団で旅行にでも行くかのような雰囲気だった。
特にヴァリンは早速幌馬車の中で座って俯いたまま寝ている。これで医者二人の護衛と称しているのだから腹が立つ。起きたら起きたで、またジャスミンにちょっかいを出すのが目に見えているのでどちらにしても苛立つのだが。
「……ね、イル」
ヴァリンが寝たまま顔を上げる様子が無いのを横目で確認しながら、密やかな声でジャスミンが声を掛けてきてユイルアルトも思考を戻す。
足を曲げて倒し、お行儀よく座っているユイルアルトの側に四つん這い状態のジャスミンが近寄って耳元に唇を寄せる。石を踏んでも僅かな揺れしか感じないのは、それが王城から持ってきた高価な幌馬車だからか。
「ヴァリンさんが王子殿下って、本当かな」
ジャスミンは出発前の一悶着が未だに心に引っかかっていたようだ。
「わざわざ殿下が私達に付いてくるって、あんまり良くない状態なんじゃない……?」
「……そうですね」
いわば『権力者』。一介の騎士程度を軽く凌駕するような権力を持っているのだ。騎士は自らの判断で何かを決定することは、よほどの緊急事態でないと出来ないのは知っている。今回受けた依頼だと、立場としてはユイルアルトとジャスミンよりも、フィヴィエルの方が下だろう。
しかしヴァリンは違う。依頼の受注先よりも偉い『元締め』、その一族なのだ。依頼の受注先副マスターと王国騎士副隊長、そして依頼要請側の顔を同時に持っているヴァリンは、その匙加減ひとつで三人の立場をどうとでも出来るのだろう。
ジャスミンはこれまでヴァリンを拒んできた事を気まずく思っているし、ユイルアルトはヴァリンにこれまで働いてきた無礼の数々が急に恐ろしくなってきた。そうならそうだと初めからネタ晴らししていて欲しいくらいだ。
「それよりも、ジャス」
「え、な、なに?」
「殿下に言い寄られる身としては、どうなんです。立場を知って、心持ちが変わったりしないんですか?」
これでヴァリンが本当に王子殿下だったとしたら、運が良ければジャスミンは次期王妃だ。しかしユイルアルトの悪戯な問いかけに、ジャスミンは首を振るばかり。
「無理。……イルは、真正面から顔を見てないから言えるのよ」
「え……? 顔? 顔ってなんです、好みでないと駄目って言うんですか?」
ヴァリンの顔は、普通に眺めているだけでも飽きない作りをしてる。王子と言われれば納得する程度の美形だ。少しばかり冷たさを感じる美貌だが、結婚するにあたって不可が出るような顔ではない。
しかし再びジャスミンは首を振る。言いたい事があるらしい。
「ヴァリンさん、ね。絶対に、目が合わないの」
「……目?」
「私を見て口説いてるように見えるでしょ。イルからは見えるよね。でも私からすれば、ヴァリンさんは絶対に私を見てなくて、目より少し上を見てるの。私の頭を見ながら、私を口説いてくるんだけど」
ジャスミンはちらりとヴァリンを見る。まだ起きる気配はない。
「……私が嫌がる素振りを見せるたびに、唇だけで笑うのよ」
それは、ユイルアルトが初めて聞いた話だ。
いつもジャスミンは、ヴァリンに口説かれた直後は震えている。それはただ軽薄な口説き文句に恐れを感じているだけだと思っていたのだが、ジャスミンの感じていた恐怖はそれとは少し違っていた。
言葉と態度がちぐはぐな恐怖。目の前の男に口説かれている筈なのに、目の前の男が口説いているのは自分とは思えないという不一致。
ユイルアルトの脳内に、茶の髪を持つ人影がちらついた。人影、と言っていいかは分からない。だって、彼女の胸から下を見た事が無い。既に生きていない女の事だ。
ジャスミンがヴァリンに視線を向けた、その一瞬を狙って周囲を見渡した。
ルビーは、この幌馬車の中には居なかった。




