245 凶兆に霞む貴女の姿
――その頃、城下五番街。
城下であれば地震から逃れる事は出来ず、自警団詰所もまた然り。
揺れに揺れた詰所ではまず完全なる一般市民であるクプラの恐怖の叫びが響き、普段なら一番動揺する役回りであるジャスミンはそれで冷静になれた。
ジャスミンはクプラと酒場を出て、詰所に世話になっていた。詰所に医者を融通する代わりに、その身の安全を保障して貰う。相互に益のある提案を受け入れたのは自警団長ログアスだった。
たかだか半日だったが、二人はよく働いた。男所帯で行き届かない掃除も、細かな備品の整理も、炊事やお茶汲みだって得意分野だった。
医者であり炊事場を扱っていたジャスミンは当然として、クプラも自身の体調に無理のない範囲で動いた。妊娠する以前は個別契約の掃除婦として働いていたこともあるらしく、手際は良かった。
それだけだったならば、クプラの評価は良かったろう。
地震で我を忘れて喚き散らかし、詰所の柱に捕まったまま絶叫していなければ。
「嫌ぁっ、嫌ああああ!! なによ、怖い、怖いわぁ!! 誰か止めてえええええ!!」
地震が止まれと言われて止まるのならば、何の脅威でも無かったろうに。
両の手は柱に抱き着いたまま、夏の蝉の如くに離れようとしない。
やがて地震が収まる頃、周囲の家具が倒れないよう背で押さえつけ踏ん張っていたログアスが額の冷や汗を拭った。
「やれやれぇ。地震にも慣れて来た気がするが、こいつは久し振りに大きい奴だな。どこも倒壊してないといいが……」
「じゃあ、俺が見回りに」
「ああ?」
ログアスに見回りを申し出たのは、先程までなんとか家具を壁に押さえつけていたアルカネットだった。しかし、今の彼の服の下には生々しい傷跡があるのを知らない自警団長でもない。
表情一杯に無謀だと言葉を滲ませ、軽く首を振る。
「お前、それで何か問題起きたら生きて帰れなくなるんじゃないのか」
「団長は心配性すぎるだろ。俺だってもう無茶はしないし、近場を見回るだけなら出来るぞ」
「出来るからって、見回りの仕事以上が必要になる事態になったらどうするんだよ。今のお前は転んだだけで死にそうだ」
そこまで弱くないアルカネットだが、怪我を負ったまま詰所に居ること自体が既に自警団にとっての禁則なのだ。
人員は、確かに足りない。負傷のみならず殉職した者もいる自警団は、人手を欲している。それで増えた人手が医者と妊婦なのだが。
「そろそろダーリャ様が戻って来る頃合いだが、この地震で到着が遅れるかも知れねぇな。おいミモザ! 事務室の被害どうなってる!?」
「被害甚大―!! 書類棚が引っ繰り返りました―!!」
「よし被害微少!」
遠くで聞こえる事務員の悲鳴も聞く耳持たず、ログアスが握り拳を作った。
先程の地震では、それだけの被害で済んだのだ。これを幸運と言わずして何を幸運と言えばいいだろう。
――しかし、これが幸運としたところで。
「っ、は!?」
「え、……や、やだ!」
「なんでっ……、うわ、お前ら大丈夫か!?」
再び大きな地震が襲って来たなら、幸運はすぐに吹き飛んでしまう。
間隔を開けずに揺れ出す床は、下からドスンと突き上げるような感覚を与えて来た。先程の地震よりも強く、平衡感覚を奪うような大きな揺れに、詰所に居る全員が身を低くする。
ログアスやアルカネットは近くの家具を咄嗟に支えている。ジャスミンは震えながら近場の椅子に頭を入れて蹲るだけで、クプラは柱にしがみついたままだ。
事務室からはミモザの叫びが聞こえて来たが、ログアスすら直ぐには動けなかった。揺れが収まって来た段階でやっとログアスが事務室に走り出す。
「……やだ。もう、やだ」
か細い声はクプラの口から。
嫌だと言っても、この場に居るものでは地震に抵抗する手段など持っていない。
揺れが収まっても、まだ眩暈がするような感覚。何も無いのに揺れている気がして、ジャスミンが立ち上がった後も頭を抱える。
クプラと話していると、まるで子供の相手をしているようだった。妊婦の感情の起伏は平常時より激しいと聞くが、クプラの場合は根本から違う気がする。
無垢では無いのに、無知。三番街で暮らしていた割には、世間ずれしている。泣き言を言ったって何も変わらないのは、五番街に住むアルカネットやジャスミンだって知っているのに。
申告された年齢よりも幼く見えるのは外見の話ではなく、中身だ。
「……はぁ」
ジャスミンは、それが良くない事だと分かっていて溜息が出るのを止められなかった。
子供の相手の方がまだマシだった。外見の愛らしさは中身の白痴を補えるから。それがクプラの相手となると、『子供でも無いんだから、そのくらいの事で喚かなくても』という感情が出て来てしまう。
ただ、不満を抱かれる方だって思考回路が無い訳では無い。
ジャスミンの溜息の意味をそのまま感じ取ってしまって、柱から手を離した後は気まずそうに俯いた。
「……もうすぐ、ダーリャさんが戻って来るならお茶を淹れましょうか。炊事場借りますね」
「あ、あの。私も、お手伝いを……」
「……」
その時、クプラが申し出て来たのは彼女なりの精一杯の誠意だろう。
確かに妊婦だ。怪我があっては危険。今の彼女は、一人でいるようで一人だけじゃないのだ。
ジャスミンも、医者の端くれなら分かる。新しい命を宿す体は、守られなければならないものだと。
でも、今のジャスミンにだって余裕は無かった。
「結構です。手伝いが必要になれば、アルカネットさんを呼びますし」
地震に気を使って、自分達の怪我にも気を付けて、仕事もいつも通りに。
ジャスミンは器用では無かったし、環境の変化にも敏感な性質だ。ユイルアルトが側に居た頃は、彼女に愚痴をこぼしていただろう。少し前の自分は、ディルが自分に無関心なのをいい事に非力である事すら武器にしていた。
そして今ジャスミンの目の前にいるのは、そんな頃の自分を映したかのようなクプラ。
同族嫌悪として最低の心情だ。クプラを通して、以前の自分へ怒りを覚えている。
「……っ」
何もしなくていいと、お前には関係無いと。
気遣いから来る言葉ではなく、部外者としてしか見られていないジャスミンの言葉にクプラは唇を噛んだ。
クプラの憤りはそれで解消できない。医者ではない時のジャスミンから無関心を貫かれて、何も出来ない自分が歯痒くない訳も無くて。
自分に背を向けて炊事場に向かうジャスミンに、クプラも背を向けた。そのまま腹の重い小走りで、外へ飛び出す。
「あっ……!? おい!!」
「あー」
手鍋を持ったジャスミンが、開きっぱなしの扉に視線を向けた。その瞳には驚きも焦りも無い。
くるくると手で弄ぶそれで水を汲み、竈に置く。
「おい、ジャスミン。どうするんだ」
「どうするも何も……、こんな危ない時に外に出られても困りますよね」
「ジャスミン!!」
慣れた手つきで火を付けるジャスミンは、これまでのような気弱な表情が一切無かった。
クプラに対して必要以上の怒りを抱いている。その自覚があっても、自分じゃどうする事も出来ない感情の波が押し寄せていた。
「まだ産み月には早いですが、あんな大きなお腹で何処かへ行くなんて無理ですよ。子供じゃないんだし、身の安全はここが一番守られるって分かる筈なんですけどね?」
「ジャスミン、お前……それ、本気で言ってるのか?」
「本気ですよ。ですがそろそろ、御自分の行動がどれだけ他の人に迷惑かけるか理解いただかないと困るのは本当ですね。あの人にもどれだけ迷惑かけたか――」
揺らめく竈の火。
恨み言を呟くようなジャスミンの言葉に違和感を覚えたアルカネットが眉を顰める。
「……ジャスミン、あの人って誰だ? ヴァリンの事か? それともディルか?」
「え?」
「もうあの二人は城に行ったんだし、少しは寛容になってやれよ。お前ひとりに負担背負わせ過ぎてるのは……悪いって思ってるから、次から俺にでも言ってくれれば」
「………」
「……ジャスミン? おい、聞いてるか?」
ジャスミンは、自分で言った言葉の意味が理解出来なかった。
ヴァリンにはそこまで迷惑が掛かっていない筈だ。彼はクプラの世話を最初から放棄していた。
ディルには迷惑が明確に掛かっていた。でも、確かに彼はもうこの場に居なくて、その上でジャスミンが苛立つ必要もそんな気も無かった。
アルカネットから指摘されて気付いた。
自分は確実に、『あの人』という特定の人物に知らない筈の人の姿を思い浮かべていた。
「……私、今、なんて言いました……?」
『あの人』の言葉で浮かべていた姿は鈍い銀色をした髪を持つ女性だ。
これまで姿を見た事も声を聞いた事も無いのに、最近は自分の中の彼女が嫌に鮮明になっている。
自分の想像上の存在でしかない、ディルの妻の姿。
それを、まさかクプラと面識のない筈なのに彼女に迷惑が掛かっているなどと自分が言うなんて。
ジャスミンの頭の中で、二人が勝手に接点のある関係になっていた。
それは『今』『この世界』では、絶対にあり得ない筈の話なのに。
そして具体的な迷惑の内容すら、さっきまで自分の中に確実にあったはずなのに思い出せなくなっている。
「……おい、疲れてるのか? 大丈夫か、茶くらい俺が淹れるからお前もう休んでろ」
「い、いえ……疲れてるなんて、このくらいの事で言ってられません」
アルカネットには、ジャスミンの様子が異質なものに見えただろう。自分が先程発言した内容すら聞き返す始末。
何かがおかしい、と、ジャスミンは自分の肩を抱いて震えた。自分が自分じゃないようで、急に恐ろしくなる。
けれど今のジャスミンには震えている時間など無い。状況がもっと悪い者が、先程詰所を出て行ったばかりだ。
「っ! クプラさん!!」
これまでの苛立ちは何だったのか、という程の態度の変わりように、今度はアルカネットが振り回されている。
ジャスミンが走って外へ続く扉へと向かう。アルカネットも、背中を追って外へと飛び出した。
外は静かだった。地震の直後だというのに、不思議と動揺した者はいなかった。
人々の姿は確かにあった。しかし、今外に出ている者達は一様に同じ方向に視線を向けていた。
十番街の方向にある、今朝までは無かったと断言できる緑色の『何か』。
まるで地震と共に姿を現したかのような、空高く聳えるそれらに、アルカネットもジャスミンもまた視線を奪われていた。