244 灯火の無い灯台
「……リト、様」
ミュゼが、その人物の名を口にする。
濃紺の髪の彼女は、目を僅かに伏せて微笑みながら軽く首を振った。
「やだ、貴女までそんな風に呼ぶなんて。私をそう呼んでいたのは一人だけだわ」
「……失礼致しました。ですが私は、その呼び方以外をどう呼べばいいか分かりません。貴女の兄君ですら、それ以外の呼び方を教えてくださいませんでした」
「敬語も要らないの。私は立場を捨てた身よ、どうぞ呼び捨てて」
「アールリト様、そういう訳には参りません。貴女を連れて行くことも、私には出来ません」
突然施設長室を訪れた次期女王だった女は、フュンフの言葉に俯く。
何も出来ない王位継承者だからこそ利用され、幽閉され、そして助けられた。
何も出来ないのならそれらしく、大人しく守られていればいいだけなのに。
「フュンフ、そんな事言わないで。私はもう、ただの一般市民として生きていきたいわ。けれど兄様たちに受けた恩は返さないといけない。私は、一市民として今の城に反旗を翻すの」
「……一市民として?」
決意した様子のアールリトだが、それを鼻で笑うのはアクエリアだ。滲み出る悪意は、少女に近い年齢の女性にまで向かった。
「それじゃ貴女、フュンフさんに向かって敬語使いなさい」
「……え?」
「一市民はフュンフさんとの立場を考えたら敬語使うでしょう。ただの民間人に戻るってのなら、これまで貴女が従えていた大半を上に見る事ですよ。今までみたいな特別扱い、受けているうちは絶対に民間人にはなれない。今まで敬語で接されていたフュンフさんと立場交代するんですよ、決意したなら出来るでしょ?」
アクエリアの僅かな煽りで、目に見えて動揺するアールリト。
曲がりなりにも次期国王である彼女への言い方としては穏当ではないものの、言っている事は極論の正論なのでフュンフも黙ったままだ。
涙は浮かばないにしろ困り果てたアールリトに救いの手を差し伸べたのはミュゼだった。手を横に出してアクエリアの言葉を遮る。
もしアールリトが本当にアクエリアの子供だったとして、彼は実子に冷たく当たっている事になるのだ。そんな事は止めさせたかった。
「アクエリア。もうお前が悪役に回る所、見たくない」
「……」
「ですがリト様。一市民として生きるには、貴女が今まで知らなかった不便があります。一市民では夜中に人を呼んでも誰も来ないし、自分で毎食食事をどうするか考えないといけない。寝床も誰も整えてくれなくて、働かないと酒だって飲めないんですよ」
アールリトは、ミュゼの言葉を受けて目を瞬かせた。それは不満や小言に対する苛立ちではなくて、言われた言葉自体に不思議な感覚を覚えているような。
ミュゼが怪訝な顔で、ちゃんと王女が聞いているのか不安になる頃。
「……あ。ち、ちゃんと聞いてるわよ。大丈夫よ。……少し、驚いただけ」
「何がですか。先程の話、驚くところあります?」
「昔、ね。アンに同じ事を言われたの」
瞬間、場の空気が凍り付く。
ミュゼが皮肉で聞いた答えに出て来た名前が、この場に居る誰もに影響を与えた女のものだった。
「……あ、ごめんなさい、アンっていうのは……髪の色とかは違うけど、貴女によく似てて……」
「アルギン」
わざわざ説明しようとするアールリトの言葉を遮った。案の定、王女はその名前がミュゼの口から出てくることに驚いている。
「アルギン・S=エステル。元『花』隊長、『j'a dore』マスター・ディルの妻。暗い銀色の髪をした、混ざりのエルフ。違いありませんね」
「……え、ええ。また驚いてしまったわ。貴女がアンの事、知ってるだなんて……。アンはね、私の……」
「聞きたくない」
それまで距離を保って接してきたミュゼが、急にアールリトを突き放した。
冷たい声色で、特定の人物の話を拒否する。
「私達には時間がない。アイツの話は今する気は無い。……私に似てるって、一方的に言われるだけなのは不愉快です。私は私であって、アイツじゃない。もう何度も何度も同じ事言われて、いい加減腹が立つ」
瞳を向けたミュゼの瞳は氷のようで、外見はアルギンに似ていながら、彼女からそんな瞳を向けられた事は無くて混乱している。
自分の不快感だけ吐き出したミュゼは、ふ、と息を整えてから三人に背を向けて扉へと向かった。
「ミュゼ、どこへ」
「準備だっつってんだろ。荷物持って来ないと何したって言われかねないからな」
ミュゼは苛立った様子で扉から部屋を出て行き、気まずい三人は視線を交わす。
フュンフはフュンフで、視線を窓の向こうの、ディルが居たであろう場所に向けた。そこから視線は動かさずに、アクエリアへと口を開く。
「……貴様は、荷物は良いのか」
アールリトと、アクエリア。
今の状態で『貴様』と尊大に呼ばれるのは自分しかいないから、仕方なしに返事をした。
「別に? 俺は丸腰でも色々な事が出来ます。逆に、荷物が多い方が手が空かないで厄介になることがあるんで悩ましいんですよ。俺は有能ですから」
「ふん、自身を大きく見せる事に余念がない男は忙しいな。ダークエルフであるが故の能力をひけらかすか?」
「実際俺は器も大きい男ですから――今、何と?」
「ひび割れた器など大きくても意味が無かろうに。忙しそうで何よりだと言ったつもりだが」
「その後ですよ」
「ああ」
短い会話のひとつひとつにも、フュンフのうんざりした気配が感じられる。会話を切り出したのは業務上必要なものだったからというだけで、フュンフはアクエリアを今でも嫌っている。
溜息を吐き出す唇、その上部の眉間には皺が刻まれている。わざわざ説明しないといけないのか、と面倒臭い思いがそのまま表れていた。
「貴様は臭すぎるからな」
「……臭い?」
「呪い特有の腐臭だ。聖職者を謀れるなどと思わない事だ、ミュゼが――女史がお前と懇意にしているから見ているだけだが、彼女を悲しませるならば私だって黙っておかない」
「……他所の恋路に口を挟まないでください。貴方が俺の敵になるってんなら、容赦しませんよ」
ひとりの女を巡る争いは、恋情が絡んだものではない筈だったが。
二人の感情の詳細を知らないアールリトは、どこか感動に潤んだ瞳をしながら男二人の顔を交互に見ている。
新鮮な修羅場が目の前に広がっているのだ。年頃のアールリトはその刺激にやられ、口許を覆って目を輝かせている。
男達も、そんな王女の視線に気づかない訳もなく。
「……場所を変えますか」
「変えてどうなる。女史が来た所で出発だろう、遊んでいる暇は無いぞ馬鹿め」
「あっ。ご、ごめんなさい! 私お邪魔だったかしら!?」
邪魔ではなく、寧ろ剣呑な空気を流してくれたので有難い存在ではあるのだが。
三人が焦れるような時間を過ごしていたのも短く、ミュゼは荷物を抱えてすぐに戻って来た。着ている服は、施設から借りたそのままのシスター服だ。
「戻ったよ。時間も無いし急ごうか、どのくらいで着くかな?」
「二人担ぐとしても近いですし、十分もあれば余裕でしょう。変に見つかって迎撃されなければ、ですけど」
「えー? 空中戦とか私した事ないから全部任せる。撃ち落されないようにしてよ」
そして最初に部屋を出るのはアクエリアだった。もう、アールリトに視線もくれない。
その隣を、ミュゼがちらりと見てから通り過ぎる。その視線は、アクエリアとの共通点を探しているようだった。
フュンフは、二人が部屋を出て行くまで動かなかった。そして二人が廊下の向こうに消えた後、ゆっくりとした歩みでその隣に位置付く。
「貴女が城へと戻るならば、王妃派の者共はこぞって、貴女の身柄を確保しようとするでしょう。城内がどうなっているかは我々に確認できないものの、ヴァリンは既に王位継承権を放棄し、また玉座を欲していない。この国にはもう、貴女しかいないのです」
「……分かってるわ、そんな事。でも……待ってろって言うの?」
「貴女は、逃げ出したのです」
尚もごねるアールリトに、『月』隊長フュンフは非情に諭す。
途端、不満そうにしていた彼女の瞳が大きく揺らいだ。逃げる、なんて不本意だったと言いたそうな瞳だ。
「あの場に居る者は、命を賭ける者達です。私達も赴きますが、貴女はその中に参加する必要は無い。貴方は逃げ出しただけで価値がある。……同時に参加権は失われている」
「……参加、って。命を賭けるって。そんな軽い言葉で言うものなの? 私が生まれた事で起きた争いなのに、私はその場に居ることも許されないの?」
「無礼を承知で申し上げますが……。あの場で貴女の役目となれば、都合の良い囮しか無いのです」
粛々と、当然とばかりに、告げたアールリトに出来る役目。
その過酷さを思えば、本人の口も噤まれる。逃げた自分がそれしか出来ないと、改めて告げられる戦力外。
「……私は、貴女にその役目を押し付ける事を、望まない」
「………そう。私も、ね。……貴方が、私にそう言うなんて、思ってない」
「アールリト殿下。どうか、構えて続報をお待ちください。例え貴女が次代の王とならずとも、我々の灯台である事には変わりがないのです」
もう、アールリトはフュンフにさえ縋れなかった。
去っていく背中を視線で追えもしない。
悪いのは、自分じゃない。悪いと言われた訳でもない。でも、納得がいかないと憤るくらいは許される。
前髪を掴んだ。床を見ながら、自分の無力さに打ちひしがれる。
確かに自分は、ミシェサーを身代わりとして城を出た。何を於いても助かりたかった。なのに今胸にあるのは、除け者にされた不満と他の誰かを犠牲にした後ろめたさ。
「……何が、灯台よ。お父様の血を一滴も継いでいない私が、灯台なんて」
自分は女王に相応しくないと、今でも思い知らされる。
このまま帰りを待てだなんて出来る訳がない。気ばかり逸って死んでしまいそうになるのに。
「アン……。貴女だったら、待てた? ディルが城にいるのに、貴女は待てと言われて待てたかしら?」
窓まで近づいたアールリトは、桟に手を掛けて、近くて遠い城までの距離を恨んだ。
空高くには、何やら小さい塊が飛んでいる。それは先程まで話していた三人だと気付くまで、暫く時間が掛かった。
本当に、あの人はエルフなんだなぁ――と、思って視線を下に向けたその時。
「……え?」
地震で崩れかけている道。
その先に王城がある一本道の途中。
金髪の短い髪を持つ、一般人らしい女性の姿を見つけた。