243 方舟への乗船方法
「っあ」
十番街の空が異様な光に包まれた、その光景を見たのは同じ十番街の孤児院にいるミュゼだった。
地面が揺れ出したのは少し前からだ。異様なのは光だけでなく、王城自体が異形と化しつつある。
ミュゼは窓の桟に手を掛けたまま、開かれた窓から身を乗り出してまで王城の姿を視界に捉えていた。
それは、王城の中にいたなら知り得ぬ光景だった。
王城は、広い敷地を城下のそれよりは低い城壁で覆っていて、中を外から覗き見るなど殆ど不可能である。
しかし今は、その城壁より上に『城がある』。
土や土台ごとそのままに掬い上げ、伸び上がる緑色と茶色に抱かれるように、茂る樹木に伴われて空へ空へと移動する。
巨大な樹木だった。苗の時に側に在ったものを巻き込んで大きくなるように、その樹木は城を抱えたままみるみるうちに成長する。大きい筈の城も、その樹木に抱えられた姿を見れば小さいものだった。無残な形に崩れた建物の残骸も樹木の端に見えたが、あれは話に聞いた隊舎だろう。
ミュゼは異様すぎる光景を見ながら、どこか他人事のように目が輝いていた。
話に聞いた通りの景色だった。育ての親であるエクリィがミュゼに言って聞かせた、この国の最悪の形。いつかの彼が見た景色が、今自分も見られている。ミュゼにとって百年の時を超えて眼前に広がる景色が、かつての彼の苦悩を分かち合わせてくれているようで。
「アクエリア! アクエリア!! 見ろあれ! 凄いぞ!!」
「大きな声出さないでくださいよ、聞こえてますから」
その時には揺れ動く床に嫌気がさしたアクエリアは、早々に自身の使える魔法を使って床から浮き上がっていた。自分の膝程の高さまで浮き上がって漸く、身体の平穏が保てている。
そのままでは酔ってしまいそうな酷い揺れに害されているのは視界も一緒で、アクエリアはぐらぐらと揺れ動く視界から平衡感覚を守るために目を閉じていた。だから、ミュゼから見ろと言われても目を開ける事が叶わない。
「……すまない、ミュゼ。私からも、……頼む、大きな声は止めてくれ」
悲痛な声を出したのは、同じ部屋にいたフュンフだ。
何故この三人が同じ部屋にいるかというと、ここが施設長室だからに他ならない。
早い時間からヴァリンから連絡が来ていたのだ。『今日始まる』と。
それで準備をしていた三人だったが、また地震が来るという話までは聞いていない。
結果、寄る年波に勝てない四十を超えたフュンフが一番先に参っている。地震で施設中鳴り止まない悲痛な叫びと物音のせいで彼の声も掻き消されてしまうくらいだ。
「なんだよー、だらしないな二人とも」
男二人からは『質の悪い酒で泥酔した時の景色』『常軌を逸した立ち眩み』『三日起きたまま夜を過ごした後の朝日を見た感覚』『ディルに振り回される剣の視界』などと、大喜利のように現状を説明されたミュゼ。緊張を取る為の冗談だということも分かっている。気が張っているのを誤魔化したいのだ。
ほんの少しだけ離れただけの場所が、みるみるうちに変貌していく。その中には縁の深いディルがいるというのだから、アクエリアもフュンフも気が気じゃないのだろう。
ミュゼだって本当は落ち着いていられない。けれど男共がだらしない様子を見せていると、逆に冷静になるというもので。
「今、王城が浮いてるよ。プロフェス・ヒュムネ達の能力だろうね」
「……浮いている?」
アクエリアが空中に身を留めたまま、ミュゼの隣まで移動した。普段から外見変化に魔力を割いているから、いつもだとこういう事に魔力を使いたがらないのに。それだけ、この揺れが酷いのだ。
窓から外を見たアクエリアの表情は、今までで見た驚愕の表情の中でも控えめな方だった。これまでも色々驚きすぎたからかも知れない。
「……あれ、何ですか。緑? 茶色も見えますが、幹ですか。城に絡むようにして伸び上がっている」
「城自体を、プロフェス・ヒュムネ達が土台になりながら地面ごと持ち上げているんだよ。城攻めが普通の国じゃ出来ないように、無理矢理防御力を自分達で高めてるんだね。……たいした決意だよ」
ミュゼが手を出し、つまむように狭めた指の間から城を見る。
それまでも王城として巨大だった建物だが、それを持ちあげる樹木は城の比ではない。世界の何処を探せばここまでの巨木と逢えるかも分からない。城を包むようにして、空へと持ち上げるほどの大きさなんて。
「あれね、確かプロフェス・ヒュムネの中でも年寄り共の仕事らしいよ。……やると、死ぬんだって」
「――は?」
「自分の体全部を植物に変えるんだって。能力は様々なプロフェス・ヒュムネでも、先祖を辿れば皆同じ植物だ。あの大木なら何人のプロフェス・ヒュムネが犠牲になったろうね。それだけ、奴等にとっては悲願って訳だ」
冷静に分析するミュゼの言葉に、アクエリアは疑問を抱いた。
彼女の近くに居た期間は短いといえど、プロフェス・ヒュムネと懇意にしているところなど見た事ない。
今までも、同じ様な場面に出くわした事が有る。
ミュゼは、アクエリアよりも短い期間しか生きていないのに、色々な事を知っているように思えた。
「……あれは、プロフェス・ヒュムネ達の姿だと? あの城を道連れに伸びる巨木が」
「そうだね。……あ、ほら、今成長が緩くなってきた。あの形で今は終わるのかな。でもこれからも何年も何十年もかけてまだ伸びるよ。もう、ああなっちゃったらプロフェス・ヒュムネは植物になるしかない。話しかけても言葉も反応も無くなって、誰と交流する事も出来なくなる」
「何故知ってるんです?」
「教えて貰ったからかな。私より先にこの惨状を見た奴から、それはもう丁寧に。見たくも無い地獄を見てから、誰かに話す事でしか苦痛を晴らす事が出来なかった男から」
「それは、例のエクリィさんとかいう男ですか?」
「……」
「貴女の昔話には、いつもその名前が出てきますね。……本当に、俺が貴女の一番だったらこんな事言いませんよ。ええ、分かるでしょ。嫉妬です。貴女の事を子供扱いしてたっていう、貴女の育ての親に死ぬ程妬いてますよ」
妬いている、なんて。
ミュゼが隠して来た全てを知ったら、この男はどんな顔をするだろう。まさかそれが未来の自分だなんて思うまい。
ずっとずっと大好きだった男から愛されていても、ミュゼの心は晴れない。自分が未来の育ての親に不義理を犯しているようで、いたたまれない。
「妬かなくてもいいんじゃない? ……私は器用じゃないから、一人ずつしか愛せないよ」
「……ミュゼ」
「んんんっ!! そういうことは余所でやって頂きたいのだがな!!」
施設長室が二人の空気に毒される前に、フュンフが咳払いで雰囲気を散らした。アクエリアは少し不満げにフュンフを見遣るが、それだけだ。
ミュゼが『成長が緩くなってきた』の言葉とともに、地震の揺れが収まってきた。
土地をいきなり変化させるこの一連の地震が、プロフェス・ヒュムネ達の引き起こしたものだと分かった所で――止める術は、もう、その命を奪う他に無いのかも知れない。
揺れが小さくなったところで、やっとフュンフも動ける。まだ地面が揺れているかのような眩暈を覚えながらも、ミュゼやアクエリアのように窓際に移動した。
「――あれは」
「見えた?」
フュンフの言葉に反応したのはミュゼだ。
変貌した城の状態もそうだが、フュンフにとって一番の気がかりが見えている。
空に位置する太陽とは別に、見えている城中央で光る何かがあった。持ち上げられて城壁から露わになっている城の、二階部分。
まるで小さな太陽が落ちて来たかと思わせる光を放っている。それは暫く見続けていると、やがて消えた。
「あれは……連絡用の魔宝石だな。ディル様か」
「多分ね」
この連絡を待ち侘びて、ミュゼはずっと窓の外を見ていた訳だが。
多分、と言ったのには理由がある。ヴァリンからは「あいつに魔宝石持たせた。窓から見てろ」としか聞いていない。
城仕えの誰かが同じような手段で他の誰かに連絡を取ろうとしていたら――ディルとの違いを、ミュゼ達が知る術がない。
でも、報せが来たなら行くしか無いのだ。先にディルが、地獄の入口で待っている。
問題は、どうディルの元へ行くかで。
「正攻法で……行けないだろうなぁ。城の出入り口、もう地面から大分離れてる」
「女史は木登りは得意かね?」
「普通の木登りでしたらね!! 何が悲しくてあんな化け物大木を上らないといけないんです、上るだけで日が暮れる」
城から出るのも、入るのも。
それが可能な作りをしているようには、今の所見えない。床の無い門だけが遠目から見える。あそこまで辿り着くにはどれだけの時間、木を登り続ければいいのだろう――。否、そんな疲労ばかりの前座、絶対嫌だ。
「では、問題はあの王城までどうやって行くか、という話だが……」
「うーん……。どうしましょうかねぇ? 障害物っていう規模じゃないですよ、でも早く行かないとマスターの動きに間に合わなくなる」
「……あの」
今度咳払いをしたのはアクエリアだった。大きく揺れなくなった床に足を下ろして、二人に意味ありげな視線を送っている。
どこか照れ臭そうに、けれど自信ありげに胸を張っていた。ミュゼに褒めてもらいたい、と瞳が語っている。
「俺を誰だと思っておいでですか? あの程度の高さなら、俺だったら連れて行けますよ」
「……」
「………」
「なんですかその目」
しかしアクエリアの望みとは裏腹に、フュンフもミュゼも、向ける視線は疑念と嫌悪に色付いていた。
別に、二人はアクエリアの言葉を信じていない訳では無い。
『連れていける』と言ったその先に、この男が何を要求するか分かったものでは無いのだ。
同時に二人は分かっている。要求されるのは金銭ではなく、ミュゼに関わる何かしらの物品や行為だ。
「まぁ? 俺だって疲れますからぁ? 多少の見返りは要求したい所ではありますけれどねぇ?」
「そういう所だよアクエリア」
「自らの振る舞いを顧みろ」
「……フュンフさんは、そういった趣味がおありなのですか? 俺の振る舞いなんて大半がミュゼ関わってますけど、聞きたいならミュゼからの許可も必要になるんで」
「誰が言って聞かせろと言ったか愚か者め!!」
聞いているだけで頭の悪くなりそうな会話だ。ミュゼはもう二人の話に耳を貸さない。
改めて見遣った城の位置は、人の足で向かうのもきっと無理だ。となると、アクエリアを使う策が一番良い。
「なー、アクエリア」
「何でしょう?」
「話は終わっておらんぞ!!」
「はいはいちょっと待っててねフュンフ様。アクエリアってさ、私とフュンフ様を同時に運べる?」
「同時に? 無理じゃないでしょうけどね、フュンフさん抱きかかえて飛ぶのなんて正直嫌ですよ。あー、そうなったら俺をあたたかーく癒してくれる、心優しい金髪の槍使いどこかにいませんかねー」
面倒臭ぇなこのダークエルフ。
二人のみならず、他に誰が聞いても同じことを思ったろう。
フュンフは付き合いたくないのにこの妄言に付き合わされ、犠牲となるミュゼに憐憫混じる視線を向けている。
「……全部終わったら考えとくよ」
「本当ですね? 嘘はいけませんよ」
「話が纏まった所で準備しようか。荷物持って来るから待ってて――」
ミュゼが揺れの収まった地面を、扉に向かって歩き出した時。
扉が開いていて、そこに人影があるのに気付いた。
短くなった濃紺の髪。
不安そうにしている、黒に近い紺色の瞳。
「……あの、私……話が、あって」
王女、アールリト・R・アルセン。
彼女は、三人を前にして指を組み、祈るようにして言葉を紡ぐ。
「お願い。私も、連れて行って」