242 『自由』は誰が為に
「――ふん」
壇上でディルは鼻白んだ。王妃を討ち取るのにここまで上手く事が運ぶとは思っていなかったのだ。
王妃自身の抵抗も考えていたが、ヴァリンの援護によってそれも皆無。
やがて目の保護が間に合った者は視界が定まってきたようだ。そうでない者は、呻きながら床に身を伏している。
「っあ……あ、なにが、何がぁっ……!!」
声のした方向を見れば、オルキデが床に膝を付いて状況を確認しようとしていた。片手で両目を覆い、もう片方の腕は周囲を探るように伸ばしている。
近くに居るロベリアも、膝を付いていないだけで状況は似ていた。
第三王子であるアールブロウも、目を両手で抑えて芋虫の様に床で蠢いている。
暁は。
「……ああ、やっぱりこうなっちゃいましたねぇ」
いち早くスピルリナが庇ったからか、床に身を低くしていた。やや視界が悪そうだが、濁った緑がディルを捉えている。
目を開いたままの水色髪の人形は、それ以上の表情が無いからか平然としているように見えた。
「スピルリナ、異常は?」
「申し訳ありません、マイマスター」
二人の声は、ディルにも聞こえている。
「視界が焼かれました。ピィは、誘導無しでは動けません」
暁の人形が動けないのなら好都合。
ディルは自分の剣だけを鞘に収め、周囲を軽く見渡す。
壇上に居る再起不能者は四名中三名。階下にはヴァリンが居た。
視線を受けたヴァリンは、手にしていた魔力の空になった魔宝石を放り投げる。空いた手は緩慢に腰へと位置付いた。
その唇には笑みが浮かんでいる。楽しそう、というよりも捨て鉢な笑顔。
既に着火した王妃弑逆の業火は、決着がつくまで消えない。ヴァリンだって今更止まれないのだ。
「王権簒奪からの政変。まさに『自由国家』を名乗る国に相応しい末路だと思わないか? なぁ、カリオン」
ヴァリンは、咄嗟に目を庇ったらしいカリオンに声を掛けていた。眉間に皺を寄せているものの、瞳はヴァリンを見据えている。
これだから王国騎士最強の男は、と毒づく。騎士に限らなければ、この場に最強はもう一人居るが。
「お前がこんな下らない話に乗ったのにはがっかりしたけど、お前だって思う所があったんだろうなぁ」
「……アールヴァリン。今の君は、何をしているか分かっているのかい?」
「今のお前に呼び捨てにされるのは腹立つなぁ!! 敬意くらい払うべきだろ、仮にも王兄だぞ? まぁ、お前が見て来た通りリトはもうこの城にはいないんだけどな」
「……そうか、やっぱり、城にはいないか。じゃああの方は何処にいるのかな」
「ははっ。何処だと思う? そしてお前に教えると思うか?」
笑いながら、ヴァリンが右腕を挙げた。軽く開いた掌を、緩く二回ほど曲げながら。
その瞬間、動けるもので『風』隊に所属している全員が、統率の取れた動きで靴音を鳴らしながらカリオンの方角を向いた。その瞳は、味方や上官を見るものではない。
『鳥』隊は殆どの者が反応しなかったが、『月』隊の者は半数以上の者が行動を同じくした。この時点で、それぞれの立ち位置が分かれた形だ。
「小さい時から可愛がってた大事な妹を、お前らみたいなのに渡すと思うか? あいつがあれだけ嫌がってるのに、お前らはそれさえ無視するんだよな」
「……あの方は次期国王……我等の女王陛下として、この国を率いるお方だ。この国を背に負う、時代を担う地位に就く。その能力もお持ちだ」
「責任だけ担わせてどうすんだ。どうせ美味いところは全部王妃が持ってくつもりだったんだろ」
言いながらヴァリンは手を下ろしつつ、首と胴が離れて息絶えている王妃の遺体を見遣った。
王妃が死ねば全て終わり、という単純な話では無い。王妃ミリアルテア派と王子アールヴァリン派に分かれたこの国は騎士の分断も招いたのだ。
命や立場で責任を取るのは、一人では足りない。
騎士団長と騎士王子の、一触即発の空気。それを壊したのは『時間』だった。
「……っ、!?」
「く、っ!!」
王妃が予告していた現象が、王城に降りかかる。
時計が正午を示す頃、立っていられないほどの地面の揺れに誰もが気付いた。
立っていられない、どころの揺れではない。
上下左右に大きく揺さぶられる感覚は、立っている床の消失さえ疑わせる。
その感覚はまるで、床よりも更に下。
城が立つ地面ごと、まるで作り替えられているかのような。
「お、おいおい!! 何なんだこの揺れは!?」
「……これが、殿下の言っていた『方舟』さ」
狼狽えるヴァリンとは対照的に、カリオンは落ち着いていた。他の騎士の中にも騒ぐものと静かに揺れに耐えている者が居る。
他の誰も動けずに、自分の体勢を整えるだけで精一杯だった。しかしそんな中、まるで跳ねるように走る人影があった。
白銀の髪を靡かせ、今が好機と謁見の間を飛び出す人物。
あ、とヴァリンが声を漏らした時には遅かった。カリオンやエイラスの隣を縫うように、たった一瞬ほどの時間で走り抜けていったのは――紛れもなく、ディルだった。
揺れはまだ収まらない。何が起きているのか、ヴァリンには知る由も無い。しかし、揺れ続けている事で、保たれる安全もあった。
カリオンが万全の体制になれば、ヴァリンでは勝てないのだから。
ヴァリンだけではない。他の者とて騎士団最強の男に何故勝てよう。ディルのような身のこなしがカリオンに出来ない事を、今はただ感謝した。
「……『方舟』って、こんな揺れを起こすのがか」
まだ猶予があるから、ヴァリンはカリオンに質問を投げた。
聞かれた方も聞かれた方で、まだ動けないから返答が出来る。
「地震自体は『方舟』じゃないよ。でも私も、詳しくは聞いていないんだ。プロフェス・ヒュムネじゃないからね」
「お前も仲間外れって訳か。あっちに仲間として受け入れて貰えず、こっち側に付けずで中途半端だな」
「……君も、わざわざ仲間を引き入れるために買収でもしたのかな」
カリオンも、騎士団長としての仕事が疎かになっていなかったと言えない。
こんな所でも、求心力に差を見せつけられるようだった。カリオンよりも人を纏める力がある人物に今でも勝てそうに無い。
日溜まりのような明るさと、有無を言わさず人を引っ張っていく太陽のような女性に。
ディルさえも惹きつけた、彼の妻のようには今でも振舞えない。
自分の劣等感を皮肉で巻いてヴァリンに押し付ける。けれどそんな皮肉すら、今のヴァリンは平らげてしまった。
「大半の騎士は買収済みだよ。幾らお前だって、数を相手にしたら『もしかして』があるかもな?」
「……買収、か。金に糸目を付けないって訳か」
「金で動く騎士なんて少なかったぞ? 今の俺が差し出せるのは、こっちだからな」
ヴァリンの人指し指が、己の胸をとんとんと軽く叩く。
「俺達の怒りと憎しみと憤りは、お前達の抱く未来よりも価値があるんだってよ。お前、他の奴等から見限られたんだよ」
「――……っ」
「それでも、無理を通して俺達に剣を向けるのか? 勝てば官軍って言葉があるくらいだ、俺達みーんな殺してでも、お前はその立ち位置にしがみつくつもりか?」
王子騎士から伝えられる、所属騎士達の想い。
それは総意ではない。けれど、確実にカリオンに反旗を翻すものもいた。決して少数ではないその意志は、カリオンの心を抉る。
揺らぐカリオンの心を、その時救おうとする者がいたのは――決して、いい事ばかりではなかった。
「団長」
声は、カリオンの後ろに控えていたエイラスのものだ。
「僕が、居ます。僕達が。今の自分を疑ってはいけない。貴方は騎士団長です。貴方は負けない。負けたら、今までの騎士団の名誉に傷がつく」
「……」
「貴方も。僕達も。忠誠は安くないでしょう。一度忠誠を捧げた相手を、信じた未来を。簡単に裏切って訳が無いんです」
救おうとしていたのか、更なる破滅に陥れようとしたのか。
けれどその言葉にカリオンは僅かながらに救われてしまった。『月』に所属する神官騎士の言葉に。
騎士の忠誠は簡単に揺らいでいいものではない。
それは例え、忠誠を捧げる先が仕えるべき相手ではなくなってしまっても。
仕えた相手がそれに値しなくなったとしたら、それは悪い方へと変わり行く相手を止められなかった自分達の責任だから。
「……地位ばかりにしがみつくつもりは無いよ。けれど私は、騎士団長としての立場があるから」
カリオンは低く身を伏せながらも剣を引き抜いた。
彼の心はもう決まってしまった。ヴァリンと並んで剣を振るう事は、二度と無い。
「意思を力で示せなんて言わない。けれど、私と道を違えるというのなら刃で証明してくれないか? 私に、今とは違う道があったということを!!」
ヴァリンが聞くに、あまりに不器用な騎士の生き様だ。
自分が相手をするしかない――そう決意しかけたヴァリンの肩を叩く影。
振り向かなくても分かった。『風』を束ねる男は、ヴァリンと並ぶと囁き声が届く程度に顔を寄せた。
騎士隊『風』隊長、エンダ・リーフィオット。
ヴァリンを部下として従えていた彼の今日の表情には、いつも浮かべている微笑が無い。
「お前はディルを追え」
「……エンダ、隊長」
「ここは俺達に任せとけよ。お前にばっか、カッコいい所見せてたら俺の立つ瀬が無いだろ」
「……助かる」
感謝の意をそれだけで示した。
エンダやその部下とて、カリオンに勝てる訳が無い。どれだけ鍛錬を重ねたとしても、戦闘に関する才能は努力で補いきれない部分があるのだ。才能ある者が努力すれば、その溝は余計に深まるだけ。
それでもエンダは残ると言った。今のヴァリンは、その言葉に恩を感じればいい。
一生掛かっても報いることが出来そうにない恩を。
ディルは揺れる城内を掛けた。敵も味方も関係なく、道中出くわす騎士は皆床に身を低くしていたから道行きに支障無い。
最初に目指すのは暁の部屋ではない。誰の居住区域でもなく、尖塔でもない。
走って、走って、辿り着いたのは硝子張りの一角だった。廊下の途中に、一面が硝子の壁がある。
でもそれは、正確には壁ではない。出入り口さえも硝子で出来た其処は、外に出る事が出来る。二階に位置するそこは、いつか着飾った妻と共に過ごしたテラスだった。
まだ想いを互いに伝えていない時。
好きだと、その時初めて妻から聞いた。
初めて出逢ってから何年も経って、漸く通じた想い。
あの時、好きだと、愛していると、もし伝えられていたら彼女は離れて行かなかったろう。
「――アルカネット。アクエリア。ジャスミン。ミュゼ。フュンフ」
ディルの想いを知っている者で、王城に居ない者の名を呼んだ。
彼らはきっと、力になってくれる。その時が来たら呼べと、彼等は言ってくれた。
人を信じようとしなかったのはディルだった。
けれど彼等はディルを信じた。その想いに応えたい。
もう二度と、妻と同じような想いはさせない。
妻を奪還するために、彼等は力を貸してくれる。
「待たせた」
服から出したのは、『風』の騎士経由でヴァリンから持たされた魔宝石だった。
光を放つそれは、狼煙代わりに使われる。城下に居る彼等に、ディルの状況を伝えるために。
届くだろうか。届いて貰わないと困る。
魔力解放の為の合言葉として設定された妻の名を、久し振りに口にするのだから。
「――」
ディルが息を吸う。掲げる魔宝石に視線を向けて、覚悟を決めた。
その名を呼んでも、誰も返事をしないことが今までは辛かった。
でも、今は呼んで返事をしてくれる筈の名前の主を取り戻すための闘いだった。もう、躊躇はしていられない。
「今から、迎えに行く」
願いが、漸く叶う。
「――『アルギン』!!」
最愛の妻の名前を口にすると同時、ディルが魔法石を天高く放り投げる。縦に長い放物線の頂点で、その魔力が解放された。
魔宝石は、その名に呼応するかのように眩い光を放ち、空高く強く光る。
日溜まりよりも凶悪なその光が視界を害するより先に、ディルは目を閉じていた。