241 揺らがずに留まり続ける行為の末路
「……あははっ。やだ、騎士団長様に『月』副隊長様までおでましだなんて。こんな特別待遇、確かに王女様じゃないと受けられないわね?」
『月』の副隊長にまで上り詰めた、堅物さと公私を分ける性格を買われた男。
実家を勘当されたミシェサーが、城仕えになるために手筈を整えた男。
幼馴染である彼が王妃派である事は知っていた。けれど今ここで顔を合わせるなんて思わなかった。
エイラス・エラファウス。
ミシェサーの幼馴染にして、ミシェサーの望む形で運命を決定づけた男。
「君が姿を眩ましている時は、大体が悪企みをしている時だ。今回は痴情の縺れではないみたいだけれど、そうであった方がどれだけ良かったろう」
「……あぁら、エイラス『月』副隊長殿。御無沙汰しておりますわぁ。……こんな時にいらっしゃるだなんて、私達は今でも縁が繋がっているようですね?」
「繋がりたくもない縁、だよ。昔は君の事嫌いじゃなかったけど、今の君は大嫌いだ」
「嫌い? うふふふっ。あはっ、あはははは!!」
エイラスの手引きで、ミシェサーは仕官する事が出来た。
彼と過ごした幼少時代は、二人とも純粋に友人として付き合っていた。
立場を違えた今となっては、過去が邪魔する関係でしかない。何も知らない間柄であれば、カリオンより先に討ち取っておきたい相手だ。
「私だって貴方の事嫌いですよー。昔みたいに可愛い可愛いエイラスちゃんで居れば良かったのに、人の事を糾弾できるような立場かしら? ……私の事、馬鹿に出来ない立場の癖に」
「………」
「良いのよ、エイラス。行く道が違えば親兄弟でも憎み合うわ。貴方が大事にしているものと、私が守りたいものが違うだけだもの。私を好きなだけ罵ってよ、そっちの方が興奮するから」
ほぼ確実に死ぬことが分かっているミシェサーでも、余裕を感じさせることが出来るのは相手が幼馴染だから。
気心の知れた仲というのは楽だった。死を齎されるなら彼が良い。
男女間の愛情なんて無いに等しいけれど、慈悲も無い恐ろしい怪物のようなカリオンに殺されたくはなかった。
「……ミシェサー。自分の状況が分かっての言葉かい?」
「分かってるわ。分かってなきゃこんなことしない。だから私は今なら、こんな事も言えるのよ」
黙って殺される訳では無い。
彼らの心が、せめて。
最悪の形で、自分達の状況を認識するように。
「この国を憂慮した結果がこれなら、とんだ思い違いね。カリオン団長。エイラス『月』副隊長。アルセンの民は貴方達の思うほど、弱くは無いわ」
今の立ち位置が正しいものだという彼らの誤認は冗談ではない。
正義が自分達にあるとは思わせないように。
「正規の方法でなく、自分達のいいようにこの国や民を扱えば、近隣諸国全てが敵に回るのに。負ける負けない以前の話になる。自国の民も存賽に扱うような国に信頼も何もあったものじゃない。一商人の娘ですらそんな事簡単に思い付くのに、貴方達はどうして考えが及ばないの」
王女の声で、王女の口調で。
諭すように、小馬鹿にするように、自分達の立場全てを嘲って見せる。
例え顔はミシェサーだろうと、彼等がこの言葉を思い出す時には王女の声で蘇る。
何度も、何度も。
彼らの中で蘇るこの声が、未来永劫彼らを苦しめればいい。
民を無下にしてきた報いを受ける時も、この言葉が彼等を苛めばいい。
「……黙れ」
短い声は、カリオンの口から聞こえた。
黙るのはそっちだと言ったらどんな反応をするだろうか。その反応も見てみたかったが、今のミシェサーには猶予が無い。
武器が無くて抵抗できないなら、心を傷付ければいい。
彼等に、まだ心なんてものがあるかも分からないけれど。
「黙れと言われて黙る私じゃないわ。再びこの国を災禍に巻き込んだ罪は重いわよ、二人とも」
カリオンの剣が、再び空を裂いた。エイラスの得物である槍の穂先が、ミシェサーに向かった。
床に脱ぎ捨てた毛布をもう一度手に取ったミシェサーは、それが広がるように大きく振る。
目隠しのように広がる毛布は、彼等の切っ先を鈍らせた。ミシェサーのやや右を逸れた切っ先を躱しながら、急いで窓にまで移動する。
いつでもそこから逃げられるよう、鍵だけは開いている。問題はそこから下りられないというだけで。
「っ……」
毛布が使えるのは一度きりだった。剣先に巻き付いたそれを苛立ち混じりに外すカリオンが、一歩、また一歩と距離を詰める。
ミシェサーが窓を開こうとするほんの数秒で、カリオンは首を狩るだろう。
もう間に合わないと悟ったミシェサーは、窓に背を向けて壁に指を這わす。
「……最期の言葉は、もう言い終わっただろう? この場で、君を大罪人として処罰しなければならない」
「はっ。大罪人だなんて笑っちゃう。私は私の信じるものの為に生きたの。少なくとも、貴方達より付いていきたいって思える人と出逢えたのは幸福でしかない」
指先は、壁際に文字を辿る。
それは何も残せない、何にもならない指遊びのひとつ。
誰も知ることが出来ない、本当の意味での彼女の最期の言葉。
「貴方達と一緒に腐っていくくらいなら、綺麗なままで死んだ方が何倍もマシよ。私は罪なんか犯してない。私を殺すのは、貴方達の狂った思想なの。――この国が傾いてく様、精々イカ臭い手を拱きながら見てるといいわ!!」
避け切れる間合いで無いのはミシェサーだって分かる。でももう避ける気も起きなかった。
自分に出来る事はこれで全部だ。
後を全てヴァリンに任せるのは部下として忍びないが、やれるだけの事はやった。
唇に笑みを浮かべたミシェサーは、壁に付けた震える指で。
――ごめんなさい副隊長。
ヴァリンへの謝罪だけを、最期に残した。
――約束、守れない。
カリオンが激昂の形相を浮かべたままミシェサーへと詰め寄る。歩幅大きく近寄りながら、剣を持ち直した。
その場にいる三人の耳に届く風切り音。
肉を抉る刃の音は、ミシェサーの胸から。
「……っあ、……あ」
胸の中央、鳩尾を貫かれたミシェサーの顔は無感情そのものだった。
ミシェサーの背中にあった窓硝子を割りながら突き立てられたエイラスの槍が、窓と彼女の体とを縫い留める。槍が奏でる硝子の破砕音は、彼女が貫かれるより僅かに遅く聞こえた。
「……エイラス」
「団長の……お耳に入れるような事では無かったので」
カリオンより先に、エイラスが手持ちの槍を投擲したのだ。
勢い良く刺さったその柄には魔宝石が輝いている。
「……っ、ぐ、ぅううっ……」
ごぽり、粘性の音と共に血を吐いたミシェサー。その血は目の前にいたカリオンの鎧を汚した。そのまま槍を伴って、力無く膝から倒れ込む。
カリオンは血に汚れたままその姿を一瞥し、それ以上尖塔に残る必要も感じず踵を返す。
「……ミシェサーが王女と入れ替わったということは、アールヴァリン王子殿下も関わっている筈だ。だとしたらディルもだろう。やはり、あの二人の目的は王妃殿下に恭順する事では無い」
「だとしたら、王女殿下はどこに? ミシェサーを殺すのは、尚早でしたか」
「彼女はきっと喋らないよ、だから彼女は王子殿下直属になった。君も分かっているだろう、エイラス。だから、聞くなら王子殿下に聞く方が手っ取り早い」
カリオンの関心は既に謁見の間へと向かっている。
扉を潜って階下に駆け出す音を聞きながら、エイラスはその場に残った。
まだ、ミシェサーが生きているから。
「……ミシェサー」
もう助からない傷だ。死ぬように、でもすぐには死なないように槍で狙った。苦痛を感じる死こそが、罪人には相応しいと思っているから。
案の定、ミシェサーは瞬きもしないまま、刺さった槍を抜こうともせずに俯いている。
黙っていると愛嬌のある美人だ。今は顔色も悪く、吐血のせいで顔すらも血に塗れているが。
「君の事、昔は友人として好きだったよ。でも、今の愚かな君は嫌いだ」
「……ふ、……っう、ぐ。……ふ、ふふふふっ」
力無い笑い声が途切れる度に、青くなる肌に血の雫が垂れ流れる。
ぼたぼたと顎を通って落ちる吐血は、彼女の豊満な胸元を鮮やかな赤に汚していった。
「そぉ。……わたし、もね。……わたしもね」
微笑みの様に唇が弧を描く。
俯いた顔が上がり、エイラスに向いたその瞬間――血のように赤い瞳が、エイラスに向かって見開かれる。
「だいっきらいよ」
「……」
「ふく、たいちょうの。じゃま、しないで。あのひと、は。わたしの、……」
物語を、書いてくれるの。
そして一番に、私に見せてくれるの。
いつか彼が自分の立場に憂いなく、好きな事が出来るような世界になったら。
彼の顔に笑顔が今以上浮かぶような自由を手に入れられたら。
その時は命果てるまで、ソルビット様の事を思い出しながら生きていきたい。
「……ふく、たい……ちょ、ぉ。……もうしわけ、……あり、ま、……」
約束は叶わない。
見ることが出来ない、ミシェサーを書いた物語はどんな文章で始まるのだろうか。彼が書く予定の書き出しに思いを馳せながら、ミシェサーは大量の吐血をした。
やがてミシェサーは動かなくなる。最期まで目を閉じることなく、王女の衣服を血に染めて。槍を杖のように体の支えにしながら、完全に床に臥せる事は無く。
エイラスはミシェサーの死を確認した後、血染めの槍を引き抜いてカリオンの背を追うように走った。
そこで二人が見ることになったのは、白の光に染まる謁見の間。
やっと目が開くようになる頃には、転がる王妃の首が壇上にある景色だった。
王妃の体液に濡れそぼったディルは顔を拭い、殺意湧き上がる視線で周囲を見渡す。血濡れのようで赤くない、この世のものとは思えない光景。
その視線の先に一瞬だけ入ったカリオンは、言いようのない悪寒と高揚感を覚えていた。
いつかに剣を交えたディルが戻ってきた。
やはり彼は知っているのだ、彼の妻がまだ生きている事を。
「――ああ」
カリオンは数えきれない程の人物の血で染められた玉座に興味は無い。
でも、その隣に立つ銀色の死神の姿は渇望していた。凄絶な程に美しい、凡人とは掛け離れた美貌の、剣持つ死神。
「貴女は、本当に」
カリオンが口にした『貴女』は、先程死んだであろうミシェサーでも、王妃の事でもない。
この場にいないディルの妻へと向けた言葉だった。
「……愛されていたんだね。ディルがあんな顔をするのは、貴方が関わる事だけだった」
――好敵手と思っていたのはカリオンだけだ。
今だってディルの視界に入れたのは一瞬だけで、結局彼の瞳はただ一人しか映そうとしていない。
愛を与えるだけ与えて消えた女を取り戻すために、矜持のみならず命まで捧げようとした男がそこにいた。
彼女が齎した地獄は、最悪の形で再びこの王城を覆い尽くそうとしている。