240 決意は揺るがずとも
ヴァリンがミシェサーの事を見過ごしている訳は無かった。
その日の朝にはミシェサーに連絡を取ろうとした。
既に即位式の日取りも時間も決まっている。それ以上尖塔に留まっていると危険だから、と。
即位式当日という事もあり、ヴァリンが尖塔に向かう事は阻まれてしまった。次期国王の支度の間は、兄であろうと男は入室してはならないと頑なに『鳥』隊員が拒んだ。
ならば、と、朝の食事配膳担当の『風』隊員に手紙を運ばせた。
――『もういい。逃げろ』
ミシェサーなら、手順はどうあれ逃げる方法など幾らでも思いつく筈だ。
元々のミシェサーの姿のまま、王女アールリトの身繕いの手伝いをしていたとでも言って出てくればいい。
尖塔には窓があるから、そこから出て行くのも出来ただろう。
素行はどうあれ、彼女は『風』の中隊長格だ。能力を買った、ヴァリンの子飼いの部下の一人。
だからこれからも、彼女には役に立って貰わないと困る。あれほどの能力を持つ部下など殆ど居なくて、ヴァリンにほぼ無条件の忠誠を誓う者も居ないのだ。
逃げろ、と。
それはヴァリンにとって、最大限の彼女の身を案じる言葉だった。
――『申し訳ありません、副隊長』
手紙の書き出しに謝罪を乗せた、彼女からの返信は。
――『私、尖塔の生活が楽しくなっちゃいました。私の事は気にせず、副隊長におかれましてはどうぞ末永く健やかにお過ごしくださいませ。ご機嫌よう』
そんな短い離別の言葉で締めくくられていた。
「ん、……んー。あー。あー」
ミシェサーはその日、城の様子がいつもと違う事に気付いていた。
尖塔階下で見張る騎士の数がどうも増えたようだし、空気もどこか張り詰めている。食事を運んできた騎士からは手紙を渡されて、ああ、とミシェサーは悟った。
王女がしていたように頭から毛布を被って、間から覗く髪は適当に毛布の裏に薬剤で張り付けたものだ。突貫で仕込んだ偽装も、毛布を剥がされてしまえばそれで終わり。
一晩明かした尖塔の生活は不便極まりなく、風呂にも入れないし食事も好きに摂らせてもらえない。運ばれてくる茶は温く、食事は王族ではなく騎士が食べるものと同じ。掃除などされる訳もなく、酒場での生活が極楽に思えるほどだ。
これでは次期女王の座所どころか、極悪犯罪人を捕える為の独房。こんな場所にうら若き王女を閉じ込めておいたのか、とミシェサーの心には同情しか湧かない。
王女にとっての幸運は、四六時中の見張りが付いていなかった事くらいだろう。だからミシェサーが身代わりとなる事が出来たのだが。
「……んん、……あー。あー……」
声はまだなんとか、王女アールリトの声質を保っている。それでも一晩経てば変化は訪れるもので、昨日の完璧な状態から質が落ちている気がした。
どうせ今日、事は成る。
手紙の返事は即時書いて騎士に手渡した。ヴァリンは既に中身を改めて憤慨していることだろう。
怒る彼も嫌いではなかった。一番好きなのは笑顔で褒めてくれる時だったが。
ヴァリンの側に居ると、楽しい事が多かった。他の者は嫌がるような事が多くても、彼の笑顔の為に率先してやった。結果、こうして酒場の者達と道を同じくして、死を待つ運命にあるとしても。
もう、助けは間に合わないだろうなぁ。
助けを待っていた訳では無い。実際、ヴァリンは救助に来られないだろう。
昨日の今日で、こんなに事態は動いている。ヴァリンには他にやるべき事がある筈だ。ならば彼には、優先するものの順位を間違えて欲しくなかった。その結果に訪れるものが死でも、ミシェサーには後悔など微塵もない。
冷静に自分の死を考える時間は、ミシェサーにとって初めての経験で。
二十を超えてそう経たないという年齢でも、どこか達観している所のある自分に自分で可笑しくなってくる。
処刑を待つ罪人は泣き喚くのが普通だ。自分がそうしないのは何故か。罪人ではないからか。
こうしてみると、ミシェサーにとって死は恐怖ではないような気がして来る。じゃあ何が一番怖いかと考えると、今すぐ思い浮かぶのはひとつしかない。
ヴァリンの悲願が頓挫すること。
そして彼の顔にこれまで以上の悲哀が浮かぶのが、一番怖かった。
「アールリト様」
太陽はまだ上り切っていないというのに、部屋の外から声が聞こえた。
もう、来た。
慣れた動きで扉に背を向けて、わざと見えるように毛布の隙間からアールリトから切り離した髪を覗かせる。
返事の代わりに咳き込みの音を聞かせた。これで少しくらいアールリトと声の差異はあっても気付かれにくい筈だ。
「……失礼いたします」
無遠慮な騎士は、入室許可を待たずに中に入って来る。閨で急かれる事は嫌いではないが、この声の主にそうも言っていられない。
声で誰かが分かる。
カリオン・コトフォール。
アルセン王国騎士団の団長にして騎士隊『鳥』隊長。彼の恐ろしさは、ミシェサーも良く知っている。
「……アールリト様、御入浴の準備が整いました。御支度もございますので、どうぞこちらに」
「………」
「アールリト様」
足音は二つした。もう一人、誰か部下でも連れて来ているのだろうと判断する。
返事はまだしない。やはりこの声を聞いてしまうと、恐怖で体が竦みそうになる。
騎士隊の部下であっても躊躇なく制裁を下す冷酷さ。
守るべき弱者に寄り添うよりも強者に阿った男。
ミシェサーも模範的な騎士ではない。けれど、カリオンという男はミシェサーの知る限り最悪だ。
人の心も分からないような男に、ヴァリン達の邪魔はさせない。
「……困ります、アールリト様。こうしている間にも、時間は来てしまいます」
「――ねぇ、カリオン」
何度も、何度も。この尖塔に来てから今に至るまで、やり取りを脳内で試行してきた。
誰が来た時にはどうすればいい。行動を取られた時はどう返せばいい。
自分がここに居ることで、ヴァリン達の役に立てるなら喜んでそうする。手傷でも負わせられれば満点だ。
「私、行きたくない……」
王女だったら、こう言っただろう。
もう逃げられないと分かっていても尚、悪足掻きを続けるだろう。これから彼女のものになる世界を拒み続ける。
小さく蹲って震えているだけでも、尖塔に幽閉された王女の振りは出来る。
「……王妃殿下が、お待ちです」
「嫌よ……。どうしてお母様の言いなりにならなければいけないの……? 私は王位なんて欲しくないのに。ねぇ、カリオン。貴方はどうして分かってくれないの?」
震える声は、半分は演技ではない。この男を目の前にすると、どうしてもミシェサー自身が恐怖に震えてしまう。
今となっては好都合だ。震えは泣き声に偽装できる。女の武器は涙だと言うが、カリオンに対して効くかは分からない。でも試さない手は無い。
無意味な沈黙が流れて十秒。流石のカリオンでも、王位継承者に無体は働けないらしい。
「……アールリト様、それでも……今日は、貴方様の即位式です」
「誰が頼んだかしら……。私が望まない私の式典に、貴方は本当に思う所が無いの?」
心身ともに疲弊した王女の姿は、これまではミシェサーの想像にも無かったものだ。
けれど尖塔で身代わりになるために短い時間を共に過ごして、その姿を目に焼き付けた。
とても手の届かない立場に居る王女の言葉遣いは、その短い時間で驟雨のように質問を投げかけて覚えた。側で見ていたヴァリンが言葉を失う程に。
その結果は、カリオンに躊躇いを齎すに至る。完全ではないにしろ、王女を模倣できているのだから。
「……何も思わない、といえば嘘になりますが。……私はこれまで、何度も帝国との戦争を経験しています。失われる命の弱さを嘆いたのは一度ではない。失われてはいけない命は確かにあって、その命全てがその時より強かったならと思わずにいられない。これからは、何にも負けない強い命を育む必要があると考えています」
「それが、お母様の妄言に付き合う理由? ……失望したわ、カリオン」
「……失望されたとしても、いつか誰かが叶えなければならない改革です。この国を、城下の根から変化させる事で……一時の『自由』を掛ける価値がある程に、きっと、今よりもこの国は強くなれる。誰をも犠牲にすることなく、他より齎される害悪に屈しない国になる」
「そんなの、民の立場に立っていない驕りじゃない。民は国を支える為だけに生きている訳じゃないのよ」
顔を向けなくても、今カリオンが俯いているのが声の聞こえる位置から分かる。
王女の声で詰られるのは、相当の苦痛がある筈だ。これから国の最高権力者になろうとしている人物なのだから。
その権力は、彼女のみの意思で発揮されないものだけれど。
「……こんな話、亡くなった『花』隊長が聞いても呆れると思うわ」
追撃のように、この場に居ない人物の話を出す事で彼の心を意図的に揺さぶろうとした。
『花』隊長とは個人的に関わりがあったと聞いているから、カリオンに効くと思ったのだ。
「――今、何と……?」
しかし彼を苦しめる筈だった言葉は、彼の驚愕を呼び込んだ。
ミシェサーが勘で理解する。何かが違う、と。
「………。『花』隊長よ。貴方だって覚えているでしょう? 彼女は、貴方とも仲が良かったでしょう?」
「……。ええ。そうですね、アールリト様」
剣を引き抜く音が、ミシェサーの視界の外で聞こえる。
ミシェサーの背中に、嫌な汗が伝うのが分かった。
「私だけではない。隊長格は皆、彼女を信頼していました。だからこそ、あの日彼女があんな暴挙に出るなどと思わなかった」
「……。そうね」
「覚えていらっしゃいますか、アールリト様? ――彼女を含めた騎士達の葬儀の時に、貴女が私に何と言ったのかを」
「………」
まさか、二人しか知らない情報を聞かれるとは思わなかった。
『花』隊長はアールリト王女と懇意にしていたと聞いている。だが、ミシェサー自身にはそれ以上の話など入って来なかった。片方は、名前を出す事すら憚れるほどに騎士団に傷痕を残していった人物だ。
そんな彼女に纏わる、王女と騎士団長の個人的な会話など調べようもない。
「……貴方が覚えているような特別な何かを、私が言ったかしら」
「ええ。はっきり仰いました。ですから私は覚えている」
「……あの時は、私も気が動転していたから……。そうね、『残されたディルが可哀相だわ』……とでも、言ったんじゃないかしら?」
その一言で、ミシェサーの運命が決まった。
首筋に感じる殺意。振り返らないまま蹲る場所より転がって、空を裂く殺意を躱した。
カリオンの抜身の剣は、毛布を僅かに裂くだけに留まる。
毛布を引き寄せ、その場に重心を低くしたまま振り返った。
「……アールリト様は、あの時私にこう仰った。『あの人はまだ生きてるかも知れない。お願い、希望を捨てないで』と。懇意にしていた『花』隊長を、アールリト様は親愛を込めて愛称で呼ぶ。彼女、などと、今まで私はアールリト様が呼ぶ声を聞いたことが無い」
振り返った先のカリオンは、殺意を隠さずに冷たい瞳でミシェサーを見ていた。
「気付かなかったよ。いつから入れ替わってたんだい? 反逆の意思ありと見て問題は無いかな、ミシェサー」
名前まで呼び当てられた後、漸く毛布を脱ぎ去ったミシェサー。毛布と、それに貼り付けた王女の髪が床に落ちる。
「……ふふっ。うふふふふっ。いやだわぁ、王女様ってば先見の明に長けていらして。それで? 貴方は早々に諦めたツケをまだ払ってないんですか? 商売上ツケって嫌われるんですよねぇ」
「それで、何故君がここに居るんだ? ミシェサー」
「何故って。本当に分かりません? もう一度言いますよー。『どうして分かってくれないの? 失望したわ』」
薄汚れた服を着て。
王女の変装をして。
声さえ変えてまで。
本来居る筈の人物の代わりに、これまで演じ切ってみせた。
騙された側が驚愕に顔を染めるのを見るのは楽しい。けれど今のミシェサーには、体の震えが先に来ていた。
「王女の声まで偽装して、国家転覆でも謀っているのか?」
「国家転覆!! うふふふっ。その言葉そっくりお返ししますよー。本人だって拒否している継承権を王女様に無理矢理引き継がせて、実権は王妃様に握らせる? それが騎士団長のやることですか、権力に傅いてその地位を保とうだなんて浅ましいこと」
「……浅ましい? 君みたいな不品行に言われたい言葉じゃないね」
それでなくとも、今の声は王女のものとよく似ている。
吐き捨てるように呟いたカリオンに、言葉を繋げるミシェサーの恨みはここ暫くのものではない。
「あら、侮辱されてお可哀相ー。でも私は不品行だから、何度だって言っちゃいます。結局保身しか考えてない騎士団長の纏める『鳥』隊、自浄も出来ないから洗ってない犬の臭いがします。『鳥』なのに走狗って嫌ですねー。あーやだ臭い臭い」
まだ言ってやりたい事は山ほどあった。けれどそれは状況が許してくれそうにない。
出口より前にカリオンがいるのだから、ミシェサーに許された退路は窓しかない。しかし、疑われるのを恐れて逃走用の縄も用意できなかった状況で、敵から背を向けるのは死の可能性を意味する。
いつ逃げるか。逃げられるのか。武器も無い丸腰で、自分は何が出来るのか。
その一瞬の躊躇いの間に、別の人物の声が届く。
「……ミシェサー。暫く、姿を見ないと思っていたら」
ミシェサーの瞳が見開かれた。
何度も聞いた事のある声がした。声の主に恩を感じたこともあるが、それだけだ。
今の今まで何も返していない、城仕えとしてのミシェサーの恩人。
視線を向ける。見知った赤茶色の短髪を持つ人物が、カリオンの後方に立っている。
「……エイラス……!!」
王女の声で、ミシェサーの憤りが吐き出された。