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 朝日が昇れば、自然に目が覚めてしまう。

 カーテンの向こうの街は明るくなって来て、ユイルアルトは既に活動を始めた街の人間を窓の内側から眺めていた。

 今までユイルアルトはこの酒場に身を寄せてから、人と関わる事を極端に避けてきた。外の人間とは、買い物に行く先の店主くらいにしか話しかけない。あとは先日のミュゼやフェヌグリークのように店に来た訳ありの者や、医者としてのユイルアルト達を頼るほんのごく一部の者程度としか関わっていない。

 

 この酒場は、ユイルアルトにとって『砦』だった。


 勿論、この場所が酒場という顔を隠れ蓑に何をしているか知っている。その片棒を担ぐ事もある。『死なない程度の毒薬』を受注した事もあるし、『意識を保ちながら四肢が動かなくなる毒薬』を渡した事もある。それの用途は聞かなかったし、聞きたくなかった。

 毒を調合して、渡して、それで身の安全が守られる砦。その砦には武器も守り手も充分に揃っていて、ユイルアルトは奥の部屋で時間が経つのを、自分に植え付けられた恐怖が過ぎ去るのをじっと待っているだけ。それがいつになるかも分からないけれど。

 そんな砦を出て、外の世界へ行けと言われて、ユイルアルトには不安が消えない。でも、それは一緒に行くジャスミンの方が強く思っている事だろう。

 昨夜用意が済んだ荷物の最終確認しようと窓から離れる。

 背負い鞄に纏めた服や小物と、小さな肩掛けに収まってしまった薬の材料。それから。


「……連れて行きますから、早く芽を出してくださいね」


 未だに目を出さない植物の、最後の種を植えた鉢。

 ルビーに言われたからではないが、一緒に連れていく決心がついた。これで、いつでも様子を見る事が出来る。


 ジャスミンは、まだ寝ていた。

 今日からは疲労が溜まる一方だから、まだ今は寝かせていようと思ってユイルアルトは自分の身支度を始める。

 寝間着からユイルアルトを象徴する黒いワンピースに袖を通す。長い裾は足首までを隠し、袖も晩春というのに手首までを覆う。

 首元もすっかり黒で包まれて、『いつものユイルアルト』が出来上がる。

 本当は黒という色にそこまで愛着がある訳ではないが、他の色を選ぶ気になれずに服はこの色ばかりだ。

 最後に、髪に花飾りを通せば自室での準備は終わる。


「ルビーさん」


 ジャスミンが寝ていると思って、その名を呼んでみた。……待っても、返事は無かった。

 当たり前か、と思いながら自分のタオルを用意した。顔を洗いに一階へ行く為に。


 ユイルアルトが部屋を出て階段を下りていく音を、ジャスミンは瞳を開いて聞いていた。




 時間は昼前になって、マゼンタが一階に二人分の食事を用意した。

 ユイルアルトとジャスミンはマゼンタに呼ばれ、一階に下りて出発前の最後の正餐を味わっている。

 今はまだ、その二人以外の姿は一階には無い。マスター・ディルさえも部屋から出ていなかった。


 そこに、この二人にこれから同行するヴァリンが現れるのは、状況からしても当然な事で。


「あー、面倒臭い。おい、戻ったぞ」


 気怠そうなヴァリンは昨夜、酒場の部屋に泊まった筈なのに、姿を現したのは酒場の外からだった。相変わらず扉の鐘は鳴らないし、足音も殆どと言っていいほどしない。

 しかし今日のヴァリンの格好はいつもと違っていた。髪を上げて正装をする姿は本当に時々だが見る事があったけれど、今日はそれとも違う。

 鬱陶しい前髪は後ろに撫でつけられている。端正な顔が完全に露出する所はこれまでも数回見た事はあって、それはいい。

 しかし身に着けている服はいつもの物ではない、というか今まで一度も見た事が無い。

 白と深緑の生地で仕立てられたその服は、金色の縁取りがされている。留め具に使われている紐さえ金色で、肩から膝裏までを纏うマントは深緑。膝よりも少し上までの長さの、銀色に光るプレートブーツを履いていた。腰に佩いたレイピアは、ヴァリンの愛用の武器。

 ジャスミンとユイルアルトが同時に固まった。その格好はまるで国家所属の騎士だ。今までの軽薄さを塗り替えるような凛々しい立ち姿に、二人の中のヴァリン像との乖離が激しすぎて理解が追い付かない。


「ふ、惚れ直したか?」


 そんな二人を見ながらのヴァリンの言葉に、ユイルアルトが匙を置いて手に飲み物を取った。今日のお茶はユイルアルト謹製のハーブティだ。それをゆっくり、一口、二口、口内に流し込んで。


「そんな妄想言うなんて、こんな時間から酔っ払ってるんですか?」


 いつもの調子を取り戻そうと、最大限に嘲りの言葉を投げたのだが。


「殿下に何という口の利き方を!!」


 今まで聞いた事の無い声での叱責に、ユイルアルトが目を丸くする。


「無礼が過ぎますよ、口を慎みなさい!」


 その声はヴァリンの背後から聞こえてきた、と思ったらその声の主は走ってヴァリンの前に立つ。

 ヴァリンの服の深緑の部分を、明るく薄い茶と橙を混ぜたような色に変えたような服。色違いのそれを纏った男は、足音もヴァリンと比較すれば煩く聞こえる。

 短く切り揃えた髪、その色は青い。顔は中性的な雰囲気を纏っている。ヴァリンよりは若そうで、声質はやや高めだ。


「やめろ、フィヴィエル。無礼はお前の方だよ」


 女性相手にも高圧的な発言をしたその男の名を呼びながら、ヴァリンが迷惑そうな表情を隠さずに言い放つ。

 名を呼ばれ、フィヴィエルが身を固くする。そして肩越しに振り返って。


「も、申し訳ありません殿下。ですが」

「―――ほら」


 迷惑そうな顔は、その一瞬で威圧的な顔に変わる。次の瞬間、ヴァリンの平手がフィヴィエルの顔を張った。


「呼び名。……何度言ったら分かるんだその頭は。カリオンに苦情でも入れなきゃ分からんのか」


 殴られたフィヴィエルは、黙ってその仕打ちを受け入れた。そして俯いたままその場に膝を付く。


「……申し訳、ございません」


 ヴァリンの無体は今迄にも何度か見てきた。しかし、ヴァリンが誰かに傅かれている姿を見るのはユイルアルトとジャスミンにとっては初めてだった。

 殿下、と言われたヴァリンは溜息を吐いてユイルアルトとジャスミンに視線を向ける。その視線は変わらず気怠げだ。


「形式的なものだから、簡単に済ますぞ」


 何を、と問い返す時間すら与えずに、ヴァリンが口を開いた。


「『風』隊副隊長アールヴァリン・R(ラズリウス)・アルセン。『鳥』隊所属フィヴィエル・トナー。現時点を以てユイルアルト・フェロー、ジャスミン、両名の護衛に当たる。……これでいいだろ、ディル」


 気づけば、廊下の向こうからマスター・ディルが姿を現していた。壁に体を預け、ヴァリンの宣言を聞いている。

 マスターもヴァリンも、互いに面倒臭そうな顔をしている。宣言を聞いた後のマスターは、瞳を軽く伏せて頷いた。そしていつもの自分の指定席に向かう。


「……ふく、たいちょう……? え、ちょっとまっ……、え? なに? ちょっと、聞き間違いですか?」


 一番動揺しているのはジャスミンだ。先程のヴァリンの宣言の中に聞き馴染みの浅い言葉が幾つもあった。その情報量に思考が付いていけていない。

 対してユイルアルトは冷静だった。冷静なのは思考回路だけで、宣言の中の言葉が意味するものを理解してしまって冷や汗が止まらない。

 これまで隠してきたヴァリンの正体が、この宣言で明らかになったのだ。


「………アルセン」


 ユイルアルトが手に滲んだ汗を感じて、茶が入ったカップを静かに下ろす。

 ヴァリンの本名は『アールヴァリン・R・アルセン』。

 この国の名前は『アルセン』。そして、それを姓にすることが許されているのはほんの一握り。

 アールを名に冠する五兄妹の事はユイルアルトだって知っていた。この国の頂点に存在する国王の子供達は、五人とも名前の頭にアールを付けている。そして何よりアールヴァリンというのは、次期国王と噂されている嫡男の名前だ。


「だから言ったろ。俺の肩書だけはこれ以上無いほど優良だ、ってな」


 ジャスミンの顔がみるみる青く染まる。

 ユイルアルトは頭と耳が同時におかしくなったのかと疑い始めた。


「どうした二人とも、食事が進んでないみたいだが?」

「……こんな状況で食べろって言うんですか」


 そんな二人の表情の変わりようを楽しそうに眺めながら、ヴァリンが肩を揺らして笑う。


「もう満足したなら行こうか。楽しい楽しい小旅行の始まりだ」


 王子という存在は、二人とも本の中でしか知らない遠い世界の住人だった。

 それがまさか、こんな寂れた酒場で出逢った悪趣味男がそうだと思っていなくて。

 ユイルアルトが横目でジャスミンの様子を窺った。彼女は全身震えていて、暫く立ち上がれそうもない。

 食事を残すのは気が引けたが、これ以上は喉を通りそうになくてユイルアルトが席を立った。

 マスター・ディルは、そんな四人の姿をカウンターの中から眺めている。いつもと変わらない顔で、退屈そうに腕を組んで座ったまま。


「……部屋に荷物置いたままなので、下ろして来ます。手伝ってください」

「ふふ、部屋に入って良いんだな? 許可も貰った事だし喜んで入り込むが」

「やっぱり来ないでください。来たら怒ります。すぐ戻りますからジャスになにもしないでくださいね」

「残念」


 何処までが本気で、何処までが冗談か全く分からない。それはこれまでも同じだったけど、正体を知った事で更に分からなくなった。

 王子殿下がこんな酒場に身を寄せている理由、そして、裏ギルドの副マスターをしている理由。ユイルアルトが想像していたものよりも深い理由がありそうで、出発を前にこれ以上ないくらい憂鬱になる。


「……ルビーさん」


 皆から離れ、階段を上る時に、再びその名を小声で呼んだ。

 返事は無かった。

 代わりに、肩が重くなった気がしながら階段を上る。


「そこにいるんでしょ」


 返事は無い。

 応える声が聞こえない事実に焦れて、ユイルアルトが諦めたように肩を竦める。もとより住む世界が違う幽霊なのだ、返答するのも気まぐれといった所か。

 この上でまだ隠されているらしいヴァリンの事情についていける気がしなかったが、今は仕事の事だけを考えるようにした。


 まだ、始まってもない仕事のことを。




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