235
夜の帳は緊張さえも共に闇に囲い込んだ。
更け行く夜、ミュゼは自室で蝋燭を手に文机に向かっていた。それはいいが、便箋を広げたままミュゼの筆が進まない。時折椅子の背凭れに体重を預け、軋む音を立てては同室の者が魘されるので焦って寝顔に視線を向ける。それを何度も繰り返して、ミュゼは自分が彼女の眠りを妨げる現状をどうしたものか考えてしまった。
なし崩しに同室に押し込まれた王女アールリトは、狭い室内に二つ並ぶ寝台で既に寝入ってしまっている。
寝息に混じって時折聞こえる、苦痛に耐えるような呻き。これまで話には聞いていた、彼女の身に降りかかった事を思えば無理もない。
「………」
彼女の濃紺の髪は、ミュゼが整えるまで無残な状態だった。薬品を塗りたくられた毛先を整えられもせず、あまりに乱雑に切り離していた。
けれどそれだけ、切り離したミシェサーにも時間が無かったのだろう。酒場でも身なりを気にしていた彼女が、慕っているヴァリンの妹であるアールリトの扱いを雑にするには恐らく理由がある――筈。
アールリトの代わりに幽閉される事になった彼女の覚悟は相当なものだろう。だったら、自分もその覚悟に寄り添ってやりたいと思った。
その瞬間までは。
「……?」
ミュゼが髪を整えた時、洗い上がりの毛先を切るだけで良かった。
だから、『そこ』までは触れもせず、見る必要も無かった。
髪に隠れていた耳は彼女が寝返りを打つことで、今やっとミュゼの視界に捉えられた。
「え、?」
髪の間からこっそりと出たのは、蝋燭の灯りに浮かび上がる、耳上部を切ったような歪な形。
傷痕のような不自然な肌の盛り上がりと、端が飛び出たようなおかしな形。
確実に普通のヒューマンでは作りようの無い傷で、まるで耳の長さを誤魔化すかのような粗末な手術痕。
今残っている部分から王女の耳の元の形を想像した時、言いようのない寒気がミュゼを襲った。
「っ……!?」
元の形は、長耳。
まさか、と思った。心臓が普段とは違う速さで音を立てている。
王妃の耳は普通だった。
国王は分からないが、少なくともその子供であるヴァリンの耳は長くない。
およそ二十年前にアクエリアの元を離れた王妃と、恐らくはその年月に近しいまでに成長したアールリト。
もしかして、と胸に渦巻くミュゼの疑念はその場で見ているだけでは晴れる事が無い。
ミュゼは気付けば、席を立っていた。
その頃、アクエリアも狭い部屋の寝台の上に寝転がっていれど眠れずにいた。
眠れないのはディルを案じて逸る心がそうさせるのかも知れないし、同じ建物内に昔恋い慕った女の産んだ子供がいるからかも知れない。
今のアクエリアの心の殆どはミュゼに向いているから、未練などというものは無い筈だ。
なのに、アクエリアの頭には何かが引っかかっていた。
「………」
消え失せた筈の想いがまだ、気付かないだけで自分の中に残っているのかも知れない。
アクエリアの脳裏にその言葉が浮かんだが、頭を振って否定する。
昔はどうあれ、今愛しているのはミュゼだけだ。たった一人、彼女さえ傍にいてくれればいい。
なのに、アールリトに対する不思議な感覚が消えてくれないまま夜になってしまった。
もうすぐ日付も変わる。早く寝なければ、明日に響く。
その時だった。
「アクエリア」
部屋の外、廊下から声がした。
その声を聞き間違える訳が無い。反射的に上体を起こすが、廊下からの声はまだ続く。
「……ミュゼ?」
「まだ、顔は見せないで」
それは彼女からの要求だ。
アクエリアが今現在唯一恋い慕う相手であるミュゼのお願いは、今の所全部聞き届けようと決めた。
上体を起こしたままのアクエリアは、続く話に耳を傾けるだけになる。
「……アクエリアってさ。これまで、子供欲しいって思った事ある?」
「は?」
ミュゼはアクエリアに問い掛けを寄越した。即座に返せたのは、意味が分からないと言っているも同然の間の抜けた声。
これまで二人の間でも、あまり話題に出た事が無かった話だ。ディルと共に動こうという時に、のんびり家族計画なんて練っていられなかったから。
でも今、こんな風に強請られるような形で話題に上がるとは思ってもみなかった。何故急に、と考えると自然アクエリアの胸がときめいた。
もしかして、その腹に自分との新しい命が、と色めきだってしまうのも仕方のない事で。
「……どうしたんですか、急に。もしかして、妊娠――」
「なんでそうなる」
「……俺は。貴女が産んでくれる子なら可愛がれる自信がありますし、出来るならミュゼに似た子が良いと思っています」
「真面目に答えろ」
本人としては至極真面目に答えたつもりだ。けれど回答はミュゼの不機嫌さを助長するようなものだったようで、冷たい言葉しか返らない。
「……これまで、の話だよ」
「これまで……?」
「……」
「………、ああ」
ミュゼが言わんとしている事は分かった。
つまり、前の恋人――現王妃との間に子供を欲しいと望んでいたか、だろう。
今の最愛の人の懐妊話でないと分かると、アクエリアの声色が突如として低くなる。
「覚えてないですね。二十年以上前の話ですよ、俺を捨てて他の男に鞍替えした女との子供が欲しいと思えます?」
「………」
「もうこの話題は止めませんか? あんまり、貴女相手でもしたい話じゃないです。こんな話するために、わざわざ起きて来たんですか?」
「………っ、から」
「……?」
廊下から聞こえる声が、淀んで聞き取りにくくなっている。
耳に届く切れ切れの声も短くて、いつものミュゼの様子とは違う。
最近のミュゼはアクエリアにだけ冷たかったが、またそれとも違う様子だ。
「ミュゼ」
体を寝台から下ろして扉に向かう。
取っ手に手を掛けたところで、また声が掛かった。
「開けないで」
か細い声。
「今、お前の顔、どんな顔してみればいいか分からない」
「俺はいつもと変わりませんよ」
「私の心が追い付かないんだ」
「何があったんですか」
取っ手に力を込めた。でも、それは不自然な力が外から掛かっているようで簡単に開いてくれなかった。
ミュゼが、外から開けるのを邪魔している。
「ミュゼ」
「アクエリア。私、どうすればいい」
「何があったんです。開けなさい」
「やだ。開けたら、私、アクエリアにこの顔見せる事になる」
「貴女の顔がどうかしましたか。今更貴女が今以上に美人になる事なんて無いでしょう?」
「うるさい」
小さな声とはいえ、こんな夜中に部屋と廊下で悶着している自分達がうるさいなんて言える立場でもないのに。
ガタガタ、と音を立てる扉。それ以上力を入れたら壊してしまいそうだった。
ミュゼの拒否の理由が分からない。こんな木製の板さえ無ければ、柔らかい頬に触れて宥めてやれるのに。
「貴女の顔はいつでも、俺の愛する貴女の一部でしょ? 俺の顔が崩れたら、貴女は俺を愛さなくなりますか?」
俺は愛して欲しいですけど……と注釈をつけた所で、扉を開くまいと抵抗する力が消えた。
ミュゼが再び閉ざそうとしないうちに、ゆっくり暗闇に向けて扉を開く。
そこに立っていた金の髪を持つ混ざり子は、俯いたまま。
「……ミュゼ、おいで。こんな所に立ってたら、誰かから見られたら驚かれます」
「………」
アクエリアの手招くまま、部屋に歩を進めるミュゼ。とぼとぼと覇気の無い歩みは、扉を閉められるだけしか部屋の中に入ろうとしない。
まだ警戒されているのか、とアクエリアが苦笑した。自分は構わず寝台に腰を下ろしながら、最愛の女を見遣る。
格好は寝間着だ。灯りすら持っておらず、夜目だけを頼りにここまで来たのだろう。彼女が不安定な時に、まだ側に居て良い相手に選ばれる存在でいられている事に安堵した。
「何があったんです」
「……」
「また、俺に言えない事ですか?」
ミュゼが言えない事。
隠している事。
それらに不満はあれど、全部ひっくるめてミュゼなのだ。今以上を求めるのはもう止めようと誓ったばかり。
だから、言えないなら言えないと聞けるだけで良かったのだ。話す気があるなら聞くし、無いなら聞かない。ただ、それだけの事。
けれどミュゼは、訝しむアクエリアの目の前で大粒の涙を溢す。
「っ……あく、えりあ」
声が震える。
「わたし、わからなく、なっ……」
その涙に動揺するアクエリアは即座に寝台から立ち上がり、ミュゼに駆け寄る。
肩を揺らしてまで泣くミュゼは自分の頬を掌で拭うが、後から後から流れ落ちる涙を掬いきれないと分かると目を手で覆った。
確証が無い話に泣くのは馬鹿みたいだと思っている。
でも、女の勘が悪い予感だけを告げて来た。
「ミュゼ? 何がですか」
「私、絶対無理だもん。アクエリアの居ない場所で、アクエリアの子供産んで育てる勇気は無い」
「はぁ? 何の話ですか!?」
「もし協力者がいてくれてもお前の居ない所は無理。……どれだけ愛していても、無理なのに」
アールリトは、アクエリアの子供だと。
一度しか見たことが無い、非情な話ばかりを聞く王妃の姿を思い出し悲哀を重ねた。
愛する人の子を宿しながら、側から離れなければならなくて。
それでも子供だけは産んで、自分の側で育てて。
全て同胞の為だと自分に言い聞かせながら、もし今でも慕情を忘れ切る事が出来ないとしたなら。
「自分から離れて行って、なのに他の男との間の子だと嘘吐いてまで育てるなんてもっと無理だ」
「――」
「私には出来なくて、でも私はそれに覚悟を見た。私じゃ勝てないよ、積み上げた時間と覚悟に私は心で負けたんだ。お前に向ける感情でも、私は勝てるか分からない」
「……ミュゼ。何、の……話を、してるんです?」
「本当に、わからない?」
目を覆ったまま、ミュゼが呟く。
「わからないなら、お前が捨てられた理由は、きっとそれだよ」
「っ――!?」
「本当に、お前は……酒場の交渉役って言っておきながら、人の心察するの下手糞だよな。お前は前からだ。……いや、前って言ったら変な話になるけど、私の知ってる時から、ずっと……」
ミュゼの言葉には、自分の育ての親であるエクリィへの文句が含まれている。
エクリィへの不満を、今のアクエリアにぶつけても意味の無い話で。けれど言わずにいられなかったのは、王妃がいるべきだった場所に自分が存在する事への居心地の悪さと、女心を理解しない鈍さに苛立ったからだ。
愛情の深さで争ったって、アクエリアを捨てたのは王妃の方なのに。
目の前に、二人の愛し合った証が現れてしまってはミュゼも平気でいられない。
「お前が好きだ。愛してる、アクエリア。でも、お前は絶対に手放しちゃいけない人を手放したんだ」
「………それは、俺に対する侮辱ですか? それとも、責めているんですか。俺に分からない話で?」
「分からないの? 本当に、お前は分からないって――」
本気で言っているのか。
詰ろうとしたミュゼの唇は、無理矢理手を目から引き剥がされて止まる。
息を飲んだミュゼの眼前に、アクエリアの顔が迫っていた。鼻先が触れるまで近付いて、僅かに黒を垂らしたような瞳が側にある。
「分かりませんよ。分からない方が幸せな話だってあるでしょう。こうやって貴女が泣いているのに、俺はこれ以上聞きたいと思えないからもう聞かない」
「……」
「俺にとって必要な情報じゃない。感情に左右されることが交渉役の仕事でもない。貴女を泣かせる話なら俺は要らない。貴女は諦めて、俺に貴女のこれからを全部捧げればいい」
エルフの振りをかなぐり捨てた、本来の姿に近しい瞳。
ダークエルフとしての凶暴性を隠し切れない黒が、ミュゼを見ていた。
理不尽で、勝手で、どこまでも自分本位。
けれどミュゼは、そんな彼にずっと前から恋をしていた。
「……諦めたら楽になる? お前に、私を全部押し付けてお前は後悔しないの?」
「貴女の事で後悔したことがないから分かりませんね? 喜んでください、その時の俺の苦しみは貴女だけのものですよ」
「……そんなん要らないよ。私は、アクエリアが幸せでいるならそれでいい」
「貴女次第ですよ」
両手は拘束されている。けれど拘束される前から、ミュゼはアクエリアから逃げ出す気はもう無かった。
『好き』も『嫌い』も、彼と共に存在しているような生き方だ。生まれてから自分を構成する殆どが、彼の手に因って齎されたもの。
例え今の彼に、その記憶も経験も無くても。
「ばか」
最後の抵抗でそう口にするミュゼだが、返答はいつも決まっていた。
「馬鹿で結構」
返事がそれと分かるくらいには、濃密な時間を過ごしていたから。
その夜、ミュゼは自室に戻らなかった。