233 あなたのために――たいと思っていた
王城、入室禁止の区域。
静かなそこは、大扉で隔離された生活部屋が三つほどある。
部屋の主が生活のすべてをそこで送れるよう、邸宅として必要なものは全て揃っていた。
その中で窓の無い部屋は二つ。ひとつは部屋の主の作業部屋だが、もう一つは寝台と様々な医療器具が用意されている場所。
暗い部屋に、いつでも灯る蝋燭。一人の女は、部屋の壁際に設置されている椅子に腰を下ろして一日を過ごす。
いつも、暗い表情をしている女だ。けれど、ここ最近はそれが顕著。
「――ラドンナ」
いつでも側に仕えている者の名を、女の口が呼んだ。
その名を持つ者を探そうと顔を上げても、女はどこも見られない。
ふるふると、必要最低限の筋肉さえ失った細い右腕が空中へ延びる。
震える腕に手を添えたのは、名を呼ばれたラドンナだった。
「此処に」
鈍い銀の髪を持つ女は、その言葉に安堵の溜息を吐く。
「ああ……、ラドンナ……。ラドンナ、居たんだね。良かった」
「居ります。私は、いつも、貴女様と共に。マスターから、そうご命令されていますので」
「だ、よね。そうだよね。良かった。もう、何も見えないから、アタシ、一人になったのかって怖くなって」
孤独を恐れる女の瞳は、頼りない蝋燭の灯りにさえ宝石のように輝いていた。
ラドンナが宝石のような瞳だ、と、その皮肉が自身に浮かんだことに目を細める。人形が目を細めるなんて、本当は有り得ない話だけれど。
「ねぇ」
女の声が、ラドンナに問い掛ける。
「今日は、あった?」
彼女は、自分の夫が、自分に捧げる花束を待っていた。
「いいえ」
いつも、月命日に、必ず捧げられていた彼の愛の形だ。
花の色も葉の形も香りさえ、何もかも分からなくなっても、彼から捧げられる花を楽しみにしていた。
心から愛した人が、自分の事を忘れないでいてくれる。
それだけが、彼女にとっての救いだったから。
「なかっ、た? ……と、鳥とか、獣に、悪戯された、とか」
「見張っておりましたが、ディル様の姿すら見えませんでした」
「わすれ、てる? ディルだって、一回くらい、忘れるよね。……ずっと、忘れずにいてくれた今までのほうが、……有り得ない話だ」
月命日はとうに過ぎている。なのにこれまで欠かさずに墓前に捧げられていた花が無い。
彼女にとって、愛する人に忘れられていないという事実は生きる希望だった。その希望を胸に抱けない今、絶望に身が引きちぎられそうだった。
――あんな痛み、二度と嫌だと思っていたのに。
「……何か、あったのかな。ディル、本当に忘れてるのかな。アタシのこと……もう」
「……失礼ながら、夫人。貴女が、彼に忘れて欲しいと願っていたのではないのですか」
「それはっ……」
確かに言った。
彼には、自分を忘れて幸せになって欲しいと。
けれどそれは今じゃなくて良かったろう。どうせ、そう長く生きられないと彼女は理解している。我儘でしかないけれど、どうか、自分が生きている間は花を届けて欲しかった。
生きている間は、自分が本当に存在していた証を、彼から受け取り続けたかった。
「……本心だけど、違うんだ。違うんだよ、アタシは、ディルが、幸せであって欲しいけど」
花束を受け取っている自分の死骸はきっと、彼から愛されていた。
そう信じていないと、心まで死んでしまいそうだったから。
「アタシのことを本当に忘れるなんて無いって、愛されてたって信じたいんだ。言葉にしないディルの心は、本当はアタシを少しでも想ってくれてたって、死ぬまで自惚れていたい」
花束を捧げる理由は、彼を置いて死んだ不出来な妻への恨みでも良い。
彼の側に、ほんの少しの時間でも存在していた者への憐憫でも良い。
何かしら彼の心に残る事が出来たと、自分を慰める理由になる。
どちらにせよ、二度と逢えないのだ。遠くから想い続けるだけなら逢えなくても出来る。
逢えたとしても、彼の顔を見る事すら二度とできないのだから。
「ラドンナ。ごめん。本当ごめん。無茶言ってるって分かる。でも、きっとディルはまだアタシを忘れてない。お願い、まだ、諦めたくない。ディルを待って。それで、どうか、持って帰って来て」
「……夫人」
「お願い。アタシ、あの花が無いと怖いんだ。今月も、きっと持って来てくれる。アタシはまだ、ディルに忘れられてないって信じていたい」
一人では生きていけない彼女の懇願を、ラドンナは聞くだけなら出来た。
懇願の最中、二人の耳に誰かの足音が届く。平たい靴底で床を叩く、男の足音だ。
は、と気付いた様子で彼女は肉色の唇を噤んだ。そして、噛みしめる。
「只今戻りましたよ、愛しい人」
「……」
愛を口にした声は、執着心を伺わせる粘性の音色。
揺れる白色の髪は猫っ毛の柔らかな印象。
閉じているのか開いているのか分からない瞼の奥は、濁ったような緑色。
愛しい人と呼ばれても、彼女は不満を顔に出さなかった。ただ悲哀入り混じる複雑そうな表情で、声のした方角を見る。
姿を見せたのはこの区域の主、宮廷人形師である暁だった。
「暁、聞きたい事があるんだけど」
「はいはい? 何でしょうかねぇ。今なら簡単なお願いでしたら口付け一回で何とかしますよぉ?」
「アタシの体が昔みたいに動いてたらぶん殴ってた」
虚勢を張る彼女を、暁は慈愛篭る視線で見た。
最早叶わぬ『もし』の話を、この部屋でのみ生きるしかない今でも口にする。
暁にとって可愛らしく、愛おしい、たった一人の女性だ。
その腕すら、もう満足に動かせない癖に。
「ディルの事だけど」
「ああ、駄目です。聞けません」
「アタシ、まだ何も言ってない」
「何を好き好んでウチがあんな奴の話を聞かなきゃならないんです。こっちだって一仕事終わった後なんですからもっと癒される話を聞きたいですよ」
あからさまに不機嫌になった暁は、着ていた上着をラドンナに渡した。
そのまま肌に纏っているシャツの袖を捲り上げ、医療器具の中を漁り始めた。
夫人と呼ばれる彼女も、そのまま黙る事はしない。
「アタシは癒される。ディルの話なら、永遠に聞いてたい」
「勘弁してくださいよ。ウチとしては貴女の話だけ聞いてたいですねぇ」
「……それ、本気で言ってんのか」
声だけが、剣呑な雰囲気を齎す。
低くなった声は掠れていて、けれど瞳は何も変化が無い。体の動きも無ければ、口とは裏腹に暁へと暴力を向ける事もしない。
暁は目当ての道具を見つけると、それを手にして翳す。服を作る縫い針よりも太い針が付いている注射器だ。
「アタシは、ココに来てから、何も変わらない毎日を送ってる。ディルがくれる花束だけが、アタシに許された非日常だってのに」
「本当に『だけ』ですかねぇ? あれだけ毎年のように生死の境彷徨ってるのに、そっちは非日常じゃないんですかぁ?」
「……今更だろ。アタシは、死ぬことは怖くない」
暁が鋳造したという針は、今の彼が持ち得る技術ではこれで限界だった。
何回も、何日も、何か月も、何年も、腕に刺され続けた後は残っている。けれど、その痛みを彼女は拒まない。
暁の手が彼女の腕を取り、その柔肌に針を突き立てる。彼女の唇が歪められて、堪え切れない苦痛が音になり零れ落ちる。
こんな針が齎す痛みなど、六年前の『あの日』に比べれば、痛みの範疇にすら入らない。
「んん、薬液が今回で終わりますねぇ。またアールウィン殿下に用立てて頂かないと」
「っ……も、別に、薬なんて、要らないんだけどな……? こんなになった、アタシなんか、打ち捨ててくれていいのに」
「そうは行きません」
薬液を押し込める暁の腕は、ここ数年で血管が強く浮き出るようになっていた。
まだ、以前は瑞々しい若者の腕だった。少年から青年になってしまった彼の体が、月日の流れを克明に示す。
これだけの時間が流れているのだ。
きっと、ディルにとっても、妻を忘れるに充分な時間だろう。
「俺は、何があっても貴女に生きてて貰います。俺の傍で、貴女がどんなに苦しんでも、俺を恨んでも、可能な限り命を引き延ばす。何を敵に回そうが、何に媚びを売ろうが、何を捨てようが、俺は貴女を愛している。それだけが貴女を生かす理由です」
暁は、偏愛を彼女に向け続けているが。
それはきっと、暁が望んで側に置いているからだと、執着する存在の近くにいるからなのだと理解する。
でなければ、彼女ですら厭う自分の現状を、そのまま愛する者などいないと思っている。
「……暁に守られて、囲われて、生き続ける今のアタシは、暁が望んだ未来の姿なの?」
「こうでもしないと貴女が手に入らなかったなら、望んだでしょうねぇ。本当はディル様をこの手で殺したかったけれど、貴女がそれを望まなかったから」
「ディルが死んだら、アタシはお前さんに噛みついてでも死ぬよ」
「させませんよ」
針は、否定と共に離れていく。抜いた途端に血液が傷口から溢れ出して、暁の指が綿布と共にそれを押さえ付けた。
血を止めるためだけに押さえられた筈の腕は、六年より以前の彼女の肌として有り得ない色をしている。
「俺が貴女を愛しているから。……他の何がどうなっても、貴女だけは死なせない」
赤黒く、肌が裂かれた肉色。既に歳月を経て歪に塞がった傷口は、引き攣った皮膚が滑らかさとは程遠い波を打つ痕になっている。
「……アタシは、アタシじゃなくて、ディルと……ウィスタリアとコバルトの命を優先したいよ」
血が止まったかという時に暁が腕から手を離す。
その唇は引き結ばれていたが、彼女はそれに気付けない。
「ウィスタリアと、コバルトは、元気? ディルが見ていてくれてるなら、元気なんだろうけど」
「………」
「一度も顔を見られなかったけど、元気に走り回ってる年頃だろうね。まだ文字は読めないかな? ……なぁ暁。あの双子は、今どうしてる?」
ラドンナは側で見ているが、口を開かない。
暁は問われて、少しの間考え込んでいた。
暁は、彼女が文字通り命を賭けて産んだ双子を孤児院に捨てていたから。
どれだけ彼女が、腹に宿した夫との子を愛していたか知っている。けれどそれさえ憎らしかった暁は、父親の許へと送り届けると嘘を吐いた。
暁は、双子のその後を知らない。後から母である彼女に対する罪悪感は多少湧けど、興味は無かった。
運が良かったなら孤児院に引き取られただろうし、運が悪ければ死んだだろう。その程度の考えしかなかった。
「……暁?」
その無言が、彼女に不審を生む。
「……。ええ、元気ですよ。忌々しいですけれど貴女に似て、父親が大好きな双子です」
その不審に返すのは、まるでその現場を見て来たかのような嘘偽り。
けれど彼女はそれが偽りだと気付かない。
「そっか」
口端だけをぎこちなく緩めた笑みは、暁の眉を顰めさせるのに充分で。
未だに、離れていてもたった一人を想っている想い人が今は憎くて。
「ったく、誰も彼も何が良いんでしょうねあんな人形みたいな人。……あと、言わないで言おうと思っていましたが」
「何?」
暁の心に、仕返しをしてやりたいという思いが湧いたのもその時だ。
言わずにおこうと思った事実を、捻じ曲げて伝えてやる。
「酒場に妊婦が居ましたよ」
「……え?」
「なにやらディル様、少し特別扱いしてるみたいですねぇ。あのディル様がですよ? 妊婦なんてあの酒場の『仕事』にも使えそうにないのに近くに置くなんて、珍しい事があったものですよねぇ? ……腹の子は誰の子なんでしょうかねぇ」
下世話な口調で嘲笑を交えながら口にする暁の言葉に、彼女は口を半開きにしたままだ。
その顔がもし六年前のままだったなら、目を見開いて激昂でもしていただろう。
けれど今の彼女は、それさえ出来ない。
「………ぁ」
吐息は、様々な感情を以て音を漏らした。何を言えば良いのか自分でも分かりかねているような間が沈黙を齎す。
他に女を作ったのかという失望。自分を差し置いて他の女を側に置く怒り。自分を忘れられてしまったという恐怖。
けれど彼女は、それらを上手に別の感情で上塗りしてみせた。
「そっ、か」
その言葉は、安堵に包まれていた。
この女からそんな感情が出る事に驚いたのは暁の方で、目の前で泣き叫んでくれる予想図を叩き壊された事に濁った緑を見開かせる。
いつだって、暁の予想を覆す女だ。そんな彼女を側に置いた今でも、予想は裏切られるばかり。
「……ウィスタリアとコバルトに、新しいお母さんが、出来たんだな。そっか……そっ……かぁ……」
子を想う母親の気丈な姿を見せていても、声は震えている。
妻としても、母としても、何も出来ない役立たずとしての自分が、やっと第三者の存在を以てして自由になれた気がしている。
遠くから想う事も、最早しなくていいのだと。
これからは、自分の存在が邪魔になるだけだと。
「……これからは俺の為に、生きてくれませんか。俺だったら貴女の最期までを傍に居て、愛し続けると約束できますよ」
諦観と同時に絶望を声に滲ませる彼女に、優しく努めて願いを投げる暁。
これまでは断られ続けていた。でも、今ならどうか。
ささやかな願いに返る返事はいつも同じだった。
「やだよ」
そして今回も、彼女にとって生きる意味など何もなくなっても、拒否しか戻らない。
この六年間、当たり前ようにあった返事だった。だからもう暁も、微笑しか浮かべない。
「アタシは、……今でも、ディルがいい」
六年では、彼女の心を変えることが出来なかった。
では七年ならどうだ。
八年なら。
ずっと、ずっと、暁は望みの期間を一年ずつ増やしていった。一年が二年に、二年が三年に。
自分が年を取る事以外何も変わらなかった。
「そうですか」
ずっと思っている。
彼女の心が変わる時がいつか来るのだろうか、と。
不毛な想いに疲れて来ているのは、この区域に幽閉されて、愛しい人の姿さえ見ることが出来なくなった彼女だけじゃない。
側に居るのに想いが届かない暁だって同じ。
「……今日は少し痛くしましょうかね」
注射器を置いた暁が、次に手に取ったのは小型の手術用小刀だった。生き物の肉を切り裂くそれは、材質も武具としての刃と同じ。
それは何度も彼女の肉を切り開いている。腕、腹、場所を問わずに肌を滑る凶器だ。
見えずとも、苦痛の気配を察した彼女は苦々しい表情を隠さない。暁の前では、不快に曇る顔ばかりを見せていた。
「……勘弁してくれよ。もう、アタシそういうの嫌なんだけど」
「大丈夫です、すぐ終わりますよぉ? ……暴れないで、じっとしててくださいねぇ」
ラドンナは、距離が近付く二人を見ていた。
二人が抱いている想いは六年間変わらないのに、交わる事の無かった感情そのままのような光景だ。
彼女はこの場所から離れられない。逃げられない。
『暁に囲われている』という現状が彼女の地獄に直結する。
「ウチだって、手が滑って貴女を死なせたい訳じゃないんですから」
暁の悲しみを湛えた微笑。
ラドンナの瞳に、触れ合う距離まで近づいた二人の姿が映る。
彼女は、逃げられない。
ディルのために生きたいと誓った。
ディルのために死にたいと願った。
今の彼女はそのどちらも出来ないまま、誰も知らない場所で命を繋いでいる。
彼女の地獄は、きっと死ぬまで終わらない。
そして死を与えられる存在は、目の前にいる悪魔ではなかった。