232 あなたのための小さな約束
孤児院でミュゼにとって縁があるのは、フュンフだけではなかった。
フュンフに言えなかったことがある。言おうとしたら体が消えかけた。
それは、未来に直接関係する事。
「……」
中庭でその二人がミュゼの姿を見た瞬間、彼女達の視線が険しくなった。
こういう所は親譲りなんだな、と苦笑を浮かべたミュゼ。
特に男の子のような活発な短いズボンを穿いた妹の方は、怒った時のディルを思わせる剣呑な目付きをしている。
「エデン。オード。ここに居たんだ」
「……」
「なんですか」
少し前に、この孤児院で起きた事件。仮預かりになっていた子供が死んだ。
ミュゼに責任が無いとは言えない。その大人になりかけていたその子供は、望まぬ種族に生まれ付いた悲しみに耐えられずにミュゼの武器で自分からこの世を去った。
握っていた槍を、自分でその身に刺して、ミュゼの目の前で死んでしまった。
この二人には、自分に任せろと大口を叩いていたのに。
「少し、お話しない?」
中庭の砂場で遊んでいる二人は、いつも仲が良い。孤児院の前に捨てられるように置き去られていた二人は双子だ。親が誰かというのは、ミュゼと、ミュゼから話を聞いたフュンフしか知らない。
母親は、既に死んだとされていた人物だから。
「いやだ」
ミュゼのお伺いは、オードの口から拒否された。砂の山を作りながら、ミュゼを見ようともしない。
エデンも同じだ。その目には苛立ちがありありと浮かんでいる。でも、二人ともそこを動こうとしない。
「じゃあ、私が勝手に話すだけ。それならいいかな?」
「……」
「………」
返答も無かった。二人に恨まれている自覚はあるから、ミュゼは苦笑を浮かべるだけ。
砂場の縁にしゃがみ込んで、二人の姿を見る。
見れば見るほど、オードはディルに似ていた。エデンはあまりディルには似ていないから、母親似かも知れない。
二人がディルの娘であることは、一目見て分かった。
「エデンとオードは、お父さんとお母さんに逢いたい?」
その問いかけだけで、二人の動きが止まった。
「もしお父さんとお母さんが、貴女達に逢いたいって言ったら逢ってあげる?」
返答は無い。けれど止まった手が、思考中であることを教えて来た。
まだ五年程度しか生きていない子供に問い掛けるのは酷な話だろう。でも、聞けるのは今しかない気がしている。
「しらないひとだもん」
幼子が言うには、あまりに悲しい言葉。
拙い悲嘆に満ちた言葉はエデンの口から出た。自分に言い聞かせるようなものでもあった。
ミュゼは軽く首を振る。希望も何もかもを失ったかのような言葉は、まだこの年で吐き出すべきものじゃない。
「今まで事情があって一緒に暮らせないだけかも知れないよ」
「じじょうって、なに。わたしたちより、だいじなものなの」
やっとミュゼを見た、エデンの瞳。
灰茶の瞳はミュゼを映すが、子供らしからぬ疑念があった。ただの子供がこんな目をしている所を、ミュゼは今まで見たことが無い。
「お父さんとお母さん。もし、一緒に行こうって言ったらどうする?」
「いかない」
即答だった。
オードの言葉はそれだけで、再び砂の山を高く作り始める。高く、高く、嫌なものが視界から消すかのように。
二人の世界は、この孤児院で終わっているのだ。他の世界を知りたいなんて、全く思わなくていい。『外』から来た死んだ子供――スカイが、酷い目に遭った話を聞いていたから。
「わたしたちのぱぱは、ふゅんふせんせいだもん。せんせいのそばにいたい」
「……そっか」
エデンの言葉には、それだけじゃない親愛を感じさせる。
フュンフは確かに、他人には厳しいが子供には優しい。彼を慕う子供は沢山いて、施設長としての責務を様々な所で全うしていた。
でも、ミュゼは知っている。
「エデンは、フュンフ先生の事大好きだもんね」
エデンは。
母親からウィスタリアという名前を貰っていた世界で、フュンフを長く想っていた。
それは父親として慕うだけでなく、彼との子を成す程に。
その話はうっすらとエクリィから聞いていた。「あのクソ」「聖職者の風上にも置けない」「俺が育てたウィリアを」「世話になったからって見逃さず殺してりゃ良かった」――などと、散々な言いようだったが。
フュンフを近くから見ていると、自分が手厚く保護する何も知らない子供に手を出すような男に見えなかった。だから最初こそフュンフには疑念を抱いていたが、次第にエクリィから聞く人物像と離れているように見えた。そもそも潔癖が過ぎる男であり、幼女どころか妙齢の女性との噂もさっぱり無いのだ。
「二人の気持ちは分かったよ。……実はね、私、話だけが用事じゃないんだ」
言いながらミュゼは自分の衣服の中から小さな袋を二つ出す。リボンを巻いたそれは幼児の気を引いた。
二人に差し出すと、エデンは受け取ってくれたがオードは手にしない。まだ警戒しているようだった。
「私から、贈り物。どうか受け取って欲しいな」
こんなもので気を引けるなんて思わないが、受け取って欲しいのは本心だ。
自分が存在した証を、未来に生を受けたミュゼの曾祖母とその妹へ渡したかった。
エデンが袋の中から取り出したのは、小さな青紫の布で出来た髪留め。彼女の本当の名前の色をしている。
「……」
その贈り物が羨ましいと思ったのか、オードもおずおずと手を出して来た。その小さな掌に袋を乗せると、雑な手つきで包装を解く。
中にあったのは同じ形の色違い。鮮やかな青色のそれをその場で髪に差し、嬉しそうにはにかんでいる。
「街に出た時に買ったんだ。似合うよ、オード」
「………ん」
相変わらず態度は素っ気ない。
エデンも髪をそれで留め、双子は嬉しそうに顔を見合わせる。可愛らしい幼い姉妹の姿だ。
「きれいだね、おーど」
「えでんのもきれいだよ」
可愛らしさと反して、二人が背負う悲しみと苦しみにミュゼが顔を顰めた。
これから先、彼女達を襲う絶望は誰にも肩代わり出来ない。父親の話も、母親の話も、ましてやミュゼが知っている未来の話なんてしてやれない。
その場で膝を抱えるミュゼ。気を抜いたら涙が零れそうだった。
「……おねえちゃん?」
心配するような声はエデンからだ。この子が優しい事は知っていた。スカイの一件がある前は、彼女はミュゼの事も笑顔で受け入れてくれた。
オードの気難しさは父親譲りだ。他人に興味が無い癖に、自分の妻だけを今でも一途に想う男。
これからミュゼは、彼の為に。
彼に従って、この双子の母親を取り戻しに行く。
「ねぇ、エデン。オード」
この呟きは、自分にとっての誓いだ。
「貴女達のパパとママの話、私が今度お出かけした後、帰って来たら聞かせてあげるね」
膝の上にある目では二人の顔は見えない。けれど二人が驚いているのは肌で分かる。
今まで気配さえさせなかった両親の話を、よく知らない金の髪の女が知っているというのだから当たり前の反応だろう。
「……ぱぱと、まま?」
「おねえちゃん、しってるの!?」
さっきまで興味なさそうにしていたのに、二人は食いついてきた。
二人の声に顔を上げるミュゼ。涙はもう出ていなかった筈だ。
「知ってるよ。色々話してあげたいけど、今は無理なんだ」
「なんで!? なんでおねえちゃんがしってるの!?」
「どんなひとなの!?」
嬉しそう、というよりは、動揺ばかりが先に立つ反応だ。さっきまで素っ気ない態度を取っていたオードさえも、自分の両親の話になると変わる。記憶にない自分の親の事を知らないでいられる子供がいる訳がないのだ。
難しい話だろうが、二人ならきっと受け止められると思って話した。
この子供達は、『二人』なんだから。
「知ってるよ。私より詳しく知ってる人もいる。きっと、私が連れて来るから」
一人なら耐えられない夜も、二人なら耐えられる。
一人では困難な道も、二人なら目的地へ向かえる。
今はまだ幼い命である二人だが、きっと何があっても、何を知らされても強く生きていけると信じている。
だって、エデンとオードは――ウィスタリアとコバルトは。
不器用ながら直向きに愛を貫くディルと、その妻の間に生まれた子供なのだから。
「その時は、笑顔で迎えて欲しいな。……そっちの方が、きっと、嬉しい筈だよ」
全てが終わった時、ディルを連れて来ようと思った。
ディルは妻を奪還して、その妻と一緒にこの場に来られる筈だ。
双子はきっと最初こそ戸惑うが、両親の姿を見れば自分達の親だと納得するはずだ。
両親と共に暮らせるかは、双子の心に寄り添えば選択肢は幾らでもある。
ディルが。酒場が。この国が。
これからすべての環境が好転していくだろうと、ミュゼは何の疑問も抱かなかった。
「今度こそ、守るよ。約束」
疑ってはいけないと思っていた。確信が揺らぐと、足元から掬われる。
自分に出来る事は、前を向いて目を逸らさない。そして同時にディルの為に動く。
疑わなければ、油断しなければ、きっとすべて上手く行く。
ミュゼのその想いは、慢心ではなく焦燥だ。
全てが全て思い通りにいく筈がないのに、そう信じる事で全てが叶うと思わなければ自分達の不利に気付いて足が震えてしまう。
育ての親に守られてきた綺麗な白い手も、純潔も、すべてこの地で失われてからも乙女のような純真さで信じていた。
きっと願いは叶う。
夜に寝て朝に起きるのと同じくらいに、当たり前のように、思った通りに物事が進む。
けれどミュゼは気付かない。
夜に眠りにつき、そのまま起きなかった者だって存在することに。
二人の為にと思って交わす約束は、本当は自分の正気を保つためのものなのだと。
エデンとオードと、約束を交わす事で、自分が必ず戻って来なければいけないのだという拠り所を持つためのものだ。
双子の、まだぎこちない笑顔を見て、この笑顔の為に自分は行くのだと思った。両親を見て満面の笑顔を浮かべる二人は愛らしいのだろう、と。
『今度こそ』。
取り付けられた二度目の約束を、頭から信じる事の出来ないオード。
そして信じてみたいと思ったエデン。
三人の姿を、遠目から見ていたフュンフの顔だけが浮かないものだった。