231 あなたのための隠し事
――十番街、王立孤児院。
「いたっ」
その時、ミュゼは薄暗い倉庫の中で木箱に入った荷物を漁っていた。
子供は成長も早いもので、その成長に見合わなくなっていた服を片付けて新しい服を出していた。
国随一の孤児院とはいえ、新しい服を毎度用意する事は出来ない。比較的綺麗な服を着回しさせる場合が多くて、今回も幾つかの木箱の中から成長に見合った服を引っ張り出している所だ。
王立孤児院の職員の仕事振りはそんな所でも発揮されていた。おおよその服の大きさを表面に書いてあるので、見つけること自体に苦労はしない。しかし収容人数の数が数なのでその量も膨大。やっとの思いで奥から引き出した木箱は古く、手にささくれた棘が刺さってしまった。
小さな木屑は手では取れない。自分の掌にぷくりと浮かんだ血の球を見ながら、ミュゼは疲労による溜息を吐いた。木箱と言うだけでも重いのに、今から服を選んでまた元の通りに箱を戻さないといけない。
毎日酒場の事で気を揉んでいるから、孤児院での業務は気晴らしになっていた。けれどこうして時折自分の現状を振り返ってみると、自分の存在ごと『今』が不安になって来る。
ディルだけじゃなく、他の面々にまで辛い思いをさせていいのか。
自分が存在する未来の為とはいえ、他の面々に命を賭けさせていいのか。
ミュゼは未来に生まれていても、他の面々の生死については知らない。もしかすると、未来に繋がる筈の命を失わせる事になるかも知れない。そうなった場合、自分の生まれ育った環境が変わる事にならないか。
不安を挙げればキリが無い。でももう戻れないところまで来てしまった。
アクエリアまで巻き込んで。
「よっと」
「あ」
掌の血の球の大きさが限界を迎えて流れ出しそうになる頃、木箱を横から開く姿があった。
見慣れた紫の髪、尖った長い耳。いつもすかした表情で余裕ぶっているアクエリアだ。
「あの子の趣味は分かりませんが、こっちの立て襟とか似合いそうじゃないですか? もうすぐ寒くなるし、厚手のものが良いでしょうね」
「………」
「下履きは今のままでもぴったりでしたが、念の為出しておいた方が良いですよね。子供はすぐ大きくなる、冬の間に成長するかもしれませんし」
ミュゼの目の前で木箱から服を見繕うアクエリアは、最初にこの場所に来た夏前とは勤務態度が違っていた。
子供を第一に思いやって、個人個人への観察も欠かさない。癇癪を起こした子供への対応にも慣れて来た。
子供と関わった事が無いと言っていた。けれどこの順応力は、これまで長生きしてきたせいなのか。
「二着くらいで良いですかね? 他の服は薄手だ。重ね着するにしても、冬になってこの倉庫にもう一度入れに来るのは面倒だ」
「……」
「ミュゼ」
アクエリアとの関係は、一度白紙に戻したつもりだった。
話しかけられても必要以上に関わらないし返事もしない。口調も敬語を使って他人向けの態度を貫いている。
自分から話しかける事も、触れる事も無い。二人の間で時折交わるものは、視線だけ。
「今は、仕事の話だけしましょう。ミュゼ、持って行くのはこれだけでいいですね?」
「……はい」
「木箱片付けるんで、持っててください」
アクエリアが差し出して来た服に、恐る恐る手を伸ばすミュゼ。
指先さえ触れることなく、二着の衣服はミュゼの胸に引き寄せられる。
アクエリアはそれきりミュゼに振り返る事もなく、無言で木箱を片付け始める。
「……」
この孤児院に二人で訪れた時、フュンフは詳細を聞いて滞在を許可してくれた。
二人の間によそよそしいものを感じた後も、何も聞かずにいてくれた。
ミュゼは子供達と接する事でアクエリアとの時間を故意に削った。それは彼も同じだ。
たった二日三日の話なのに、これだけ話していないのも珍しい話で。
アクエリアの腕が木箱を抱え、押し、元の通りに並べられる。二段三段ときっちり積み上がる木箱は元あった姿よりも綺麗かも知れない。
「ミュゼ」
まだ片付けられていない箱は残っている。けれどそれを抱えながら、アクエリアが口を開いた。
「俺、今までずっと考えていたんですけれど。……貴女の言うとおりにしようと思います」
「――……。え、……?」
アクエリアは視線を向けない。
ミュゼの視線はアクエリアの後頭部に釘付けになっている。無意識に、服を抱える腕に力が籠った。
「俺は貴女が何を隠しているか結局分からなかった。もう、今は無理に聞き出そうとは思いませんが……無理に言い寄って貴女を困らせるのは、俺だって嫌です。……なら、俺は素直に従った方が良いと思って……」
素直に、従う。
別れ話を持ち掛けたのはミュゼで、他に女を見つけろと言ったのもそうだ。
二人の関係を白紙にすると言った言葉を拒否し続けたのはアクエリア。それが、もう無くなるのは喜ばしいことだ。
「……そう」
「勿論貴女が思い直してくれるならそれが一番ですけど、そうじゃないなら俺が出来る事はひとつだけですから」
素っ気ないアクエリアの言葉は、ここ最近聞いたことが無い。
まるで一番最初、酒場で再会――いや、出逢った時のような。
ミュゼの生死さえ関係無いと言い捨てる、何にも無関心な非情な男だった時を思い起こさせる。
「それが正しいと思います。少なくとも、今は私達に浮かれている時間なんて無い」
「……」
「貴方のこれからに責任は持ちませんが、私は貴方の幸せを願います」
意識していなかったが、自分の指先が震えているのが分かる。
先程傷付けた指の痛みが強くなった。まだ刺さっている棘の痛みが、胸の痛みと呼応する。
「……だから、アクエリア。これからも普通に接してくれると助かります。」
ミュゼの記憶にあるこの男自体は、確かに非情で、長い間面倒を見て来た子供が女に成長してからも態度を変える事は無かった。
いつだって、自分が出した指示を遂行させる事に重きを置いていた。指示を出したならそれで終わりでなくて、ミュゼをいつでも見ていた。
嫌気がさして逃げ出さないように。
指示未達の事態にならないように。
未熟な養い子を死なせないように。
未来にそんな道を歩むことになるアクエリアを知っているから、どうか違う未来が訪れたとしても幸せになって欲しいと思う。
思うだけなら、邪魔にならない。
想うだけなら、邪魔はさせない。
アクエリアを。未来に名を変えて存在するエクリィを。
愛していると心に秘めている自分を、誰にも否定されたくない。
「……それ、本気で言ってますか」
問い掛けるアクエリアの声は優しくて、ミュゼは口許に微笑を浮かべる。
「本気じゃない訳が、ないでしょ……?」
その微笑の口許に、何かが流れ込んできて言葉を止めた。
少ししょっぱい一滴。最初はそれが何か分からなかった。
「本気だったらどうして泣いてるんですか」
指の痛みに気が逸れて、頬を伝う涙に気付かなかった。
指摘されて初めて気付く頬の涙。拭うために、服を持った手の甲を押し付ける。
気付いてしまえば喉も震える。息を吸うのも小刻みで、胸が苦しい。
止めるために抑えた瞼の奥から、涙が次々溢れてくる。分かっているのに指摘されたくなくて、否定する言葉しか出てこない。
「っ……、泣いて、ない」
「嘘だ」
「泣いてませんっ……。私が、泣くなんてっ……意味、わかんない。目でも腐ってるんじゃないの?」
「腐ってるから貴女が美人に見えるなら、腐ってる方がいいんでしょうね?」
「なっ……」
失礼な物言いにアクエリアを睨みつける。しかしその目許が赤くなっていて、笑いを誘うだけに終わってしまう。
その笑顔だけでも、見るのは久し振りなような気がした。離れようとした日々は短いものだったが、ミュゼにとってはその笑顔さえも見られて嬉しい。
笑顔のアクエリアが、愛しい。
「……ミュゼ」
木箱はあとひとつ残っていた。けれど無視して、アクエリアはミュゼに近寄る。
ミュゼは一歩引いたが、距離を詰めるアクエリアの速度に勝てない。
あっさりと腕を掴まれたミュゼは、もう逃げられない。
「俺は、貴女の言葉を尊重すると言った。でも、他の女を見つけるなんてもう無理だ」
「……え?」
「これからの八十年、言われた通りに出直します。それまでずっと貴女を想い続けると誓います。病める時も健やかなる時も、ずっと貴女を愛します。だから」
それは彼がこれまでの時間で考えて来た、二人の関係性。
目の前で片膝を付くアクエリア。
位置を変えて掴まれた手首は痛くない。その拍子に持っていた服は落ちた。
「八十年のそれまでも、その先も、ずっと俺の傍にいてくれませんか。それ以外は望まないし嫌がる事は何もしない。だから、八十年のその先まで俺と一緒に生きてください」
「……八十年、って。私、もう、死んでるかも、よ?」
「俺が貴方に嫌なことして怒らせたんですから、痛み分けですね。それはそれとして勝手に死なないように」
「そんな無茶な……」
やや乱暴に手首を引き寄せられ、無防備な指先に唇が落とされる。久し振りに感じた彼の唇の感触と熱が、指先である事にややもどかしさを感じた。
こんなことをして見せる程には、アクエリアは女性の扱いに手慣れていた。でもこれまで一度として軽薄な様子をミュゼには見せて来なかったから、今の行動はきっと本気なんだろうと分かる。
返答に困って硬直しているミュゼを片目で盗み見たアクエリアは笑っていた。
「……嫌がりませんね?」
「!!」
「貴女が嫌がらなくて俺がしたい事だったら何でもするつもりなんで、宜しくお願いします」
「馬鹿!! ちょっと嬉しくなって損した!!」
片膝を付いているついでに、床に落ちた服を拾うアクエリア。上から見るだけでも彼の肩が震えていた。誰かに目の前で縋るなんて、ミュゼが最初の相手だから。
手は離れない。彼の手が滑るように、繋ぐ形で移動した瞬間。
「――いたっ!」
「え」
先程負傷した傷に触れた。まだ棘が刺さったままだ。
アクエリアがすぐさま指を確認すると、滲んでいた血が既に乾きつつあった。
「何か刺さってますね。……これ、俺じゃ取れませんよ。すぐに医務室行きましょう、ミュゼ」
「だ、大丈夫だよこのくらい。部屋に戻って自分で取るから」
「駄目です。……やっぱりさっきのは無かった事に。『貴女の身の安全が確立していない時は安全の為に嫌がる事もします』。うん、これでいい」
「過保護!! このくらい平気だってば!!」
罵られても無視して倉庫を出ようとするアクエリアと、腕を引かれてどうする事も出来ないミュゼ。
言い争う二人の声に、他の職員は驚きの表情を浮かべた。同時に、二人の関係を知るものは笑みを湛える。
何をしているのかと眉を寄せるのはフュンフで、アールリトは事情を分かっていないながらも仲の良さそうな二人に悪い印象は抱かなかった。
二人にとっての地獄が訪れるのは、今じゃない。