230 あなたのためになれないこと
「やれやれ……」
疲れた表情を隠さずに、酒場の一階へ降りてきたのはジャスミンだった。
出立直前のディルと何やら言い争ったらしいクプラが錯乱状態で、泣き喚いて暴れかけていたのを宥めて寝室に送ったばかり。何を言ったんだ、とマスターに聞きたくとも彼は既に城に向かってしまった。
とはいえ、何となく何が起きたかは分かる。命を救って貰った、という言い訳を重ねてクプラはディルについての色々な話を聞きたがっていた。
その瞳が、誰かに特別な感情を抱いている色をしていた。色彩が変わった訳では無い。心に灯る火がそう見せるものだ。それは恋情と言う名前を持つ感情に近い。
彼は無理だ、と、今は側に居ない奥さんを愛し続けているから、と何度言ってもその色は変わらなかった。
あまりに疲れたので、お茶の一杯でも飲まないとやってられない。慣れた厨房に入ると湯を沸かし、さっと雑な手つきで茶を淹れる。今日の茶は、柑橘に似た爽やかな香りが上るジャスミンのお気に入りのものだ。
正確には、ジャスミンと、ジャスミンの親友がお気に入りの茶。
「……ふー」
ここ最近は気晴らしが無い。街は閑散としているし、食料も自分達の酒場以上に持っている所は無いだろう。
食べるものがあるだけまだ、ジャスミンはマシだった。
既に城下の至る所で食糧難が発生し始めている。
酒場の食料を分けたい気持ちはあるが、それで自分達が立ち行かなくなったらそれで終わり。
良心と冷静さの板挟みで、ジャスミンは外に出る事さえ億劫になってしまっている。
「っはー! 疲れた!! おい俺にも茶!!」
「わ!?」
堂々巡りの考え事の最中に、酒場の扉が大きく開いた。閂を締め忘れていたのはジャスミンだから文句は言えない。
入ってきたのは幸運と言うべきか、王子騎士であるヴァリンだった。彼はジャスミンの姿を見るなり、手に持っている茶に目を付けた。
「ま、待ってください、今淹れますか、らっ!?」
大股で近寄って来た王子騎士は、厨房に向かおうとするジャスミンの手から流れるような動きで茶器をひったくる。中の茶が一滴も零れないようにする柳を思わせる動きは見事なものだ。
そのままジャスミンの茶を口に運んで、一息つけたかのような顔をする。まだ熱い中身は半分ほど残っていた。
「……何だって俺こんな忙しいんだろうな。帰って来る途中にディルと擦れ違った」
「……あ、あの、ヴァリンさん」
「少しは酒場で休憩挟むかと思ってたのに……ん? どうしたジャスミン」
「それ、わ、私の、飲んでたお茶……」
「は?」
ジャスミンは異性との接触に免疫が無い。最近はそれでも慣れてきた方だが、間接的にでも誰かと口付けるなんて出来なかった。
手にした茶器とジャスミンを見比べて、ヴァリンがにやりと笑う。
「どうやら俺は、この酒場を根城にする有能な医師の不興を買ってしまったらしいな? だが俺はアルカネットから疑われるような育ちをしているらしくてな、どうしてお前がそんなに顔を赤くしているのか分からん。理由を教えてくれないか?」
「え!? え、えええっ!?」
「ふはっ」
手にした茶器を横に置き、初心な反応を面白がると、ジャスミンは思ったような反応を返して来る。
それがヴァリンには堪らなく面白くて、そういう所を含めてジャスミンを気に入っていた。
「面白いよなぁジャスミンは。そんな反応ばっかりしてると、俺以上に悪い男が出てきたら良い様に遊ばれるぞ? もっと免疫つけとけ」
「……ヴァリンさんだって、最近まで私で遊んでたのに……」
「その件に関しては謝罪するよ。俺もあの時は荒れてたからな」
「………」
ヴァリンは暫く前まで茶の髪の女を求め、ジャスミンもその範疇に入れられ遊ばれた。
体の関係は無い。ただヴァリンが言い寄って、ジャスミンが拒んで、その繰り返し。
何も起きない、恋愛未満の話。
「今は、荒れてないんですか?」
荒れてたから人の純情を弄ぶなんて、許されない話だ。
指摘するとヴァリンは気まずそうに、微笑を浮かべたまま目を逸らした。
少し前までだったら、この酒場に他に邪魔者がいないと知ったヴァリンは好機とばかりにジャスミンを口説いたろう。今まで二人っきりになった事が無いから、もしかしたら口説かれるだけじゃ終わらなかったかも知れない。
それが今はどうだ。必要以上に関わらず、必要がある時も多少の冗談は言えど礼節を忘れない。
彼がこうなった時期を、ジャスミンは知っている。親友であるユイルアルトが居なくなってからだ。
「荒れてる。荒れてるさ、荒れずにいられないだろう。城があんなことになってるんだ」
「……それでも、前みたいにふしだらな荒れ方じゃないと思いますが」
「……え? なんだ、ふしだらな荒れ方の方が良かったか?」
「違います!!」
ジャスミンが必死になって否定すると、ヴァリンは笑う。
それは皮肉を交えた大人びた笑顔でなくて、小さな子が親に褒められた時のような、ふにゃりとした笑顔。
最近分かって来た。こっちが、王子でも騎士でもない、『アールヴァリン』個人としての本当の顔だと。
「やっぱり、面白いなぁジャスミンは」
「…………」
「お前もそのカタい所さえ無ければ、俺の部下の五人や十人紹介出来るんだがなぁ。……ま、処女なんて面倒だって言う奴ばかりだが」
「はぁ!?」
そのヴァリン個人としての顔は、ジャスミンには失礼な事ばかり言うのだけど。
「私だって、そ、その気になれば、男の人くらいっ!! ですがそういう目で見て来る人なんてこっちから願い下げです!」
「ほー? ……じゃ、『その気』とやらになって試してみるか? 俺で」
「っ……!!」
楽しんでいる瞳が、不意に細められる。
これまでのヴァリンの人生を、ジャスミンは深く知らない。だからその言葉が冗談かどうかも分からずに、一歩後退るしか出来ない。
藍色の瞳の輝きは、どれだけ綺麗なものだとしてもヴァリンのものだ。ジャスミンでは抗えない力を持つ彼の手に掛かれば、有無を言わさず純潔を散らされてしまうだろう。
格差を感じさせる魔性の獣に噛みつかれる予感に身を震わせるジャスミンに、ヴァリンは顔全体を歪めて笑った。
「っはは! あははは!! 慣れない事言うんじゃないぞジャスミン! 本気でお前に何かする訳ないだろ、俺ディルに殺されてしまう!」
「……ぁ……?」
「男の本気と冗談はちゃんと聞き分けろ。……でも、多分俺はそういうお前も嫌いじゃない」
先程までジャスミンをも惑わすような色香を出しておきながら、今浮かべている笑顔は子供のようだ。振れ幅の大きな反応が、ヴァリンという男の印象を大きく変えていく。
嫌いじゃない、なんて、男性に免疫が殆どないジャスミンにしてみればそんな言葉で頬を染めるのも当たり前で。
「嫌いじゃないから……俺は、お前を守るよ。ユイルアルトとも約束したからなぁ」
「イル、……」
二人の間で意味のある名前が出るのも久し振りだ。
ジャスミンは、ヴァリンが彼女と交わした契約を知らない。けれど、ヴァリンは彼女に普通とは違う感情を抱いているように見えた。
「……ヴァリンさんって、イルのこと」
「無い。断じて無い。俺が愛してるのはソルだけだ」
「ですよねー……」
ソル、という存在の事も幾らか聞いた。その茶色の髪の女性について知っている事は少ないが、話を聞けば聞くほどに、計り知る事の出来ない絆が見えた。
ヴァリンは彼女を思って、城と敵対する覚悟も添えて、今酒場に残っている事も。
不思議と疎外感は感じない。だって、明らかに関係の無いジャスミンでさえ、この酒場は仲間として受け入れてくれたから。
「お前を守るから、お前も守られようとしてくれよ? 一人で行動しようとするな、俺達を頼れ。礼は要らんから、時々こういう冗談に付き合ってくれればそれでいい」
「……遊ばれているようで、あんまりしたくないんですけど……」
「釣れない事言うなよ。……大丈夫だよ、短い間だけだから」
「え?」
「まぁまだお前と遊んでたい気持ちはあるが、俺は急ぐぞ。本番が始まる前に、色んな準備しなきゃならんからな」
その言葉の意味が分からず疑問を返したが、ヴァリンは上階へ向かう階段へと歩き始めてしまった。
足取りは早く、ジャスミンが振り返る頃には既に三段目を上がっていた。その歩みを一度、止めて。
「今日から、俺の食事は不要だ。今までありがとうな」
ヴァリンが礼を言う事も、もう珍しい事では無い。
殊勝で紳士的な姿は王子騎士の呼び名に相応しいものだった。
ジャスミンは、その言葉に返事する事も忘れていた。
「――ヴァリン、さん?」
呼びかけてももう振り向きもしない彼の背中さえ見えなくなる。
何で今、礼を言う必要があったのか。
今日から、なんて、またいつ必要になるか分からないじゃないか。
疑問が後から後から幾つも湧いて、なのに彼に声は届かない。
同じように階段を上れば声は届いたかも知れない。返事が来たかも知れない。望めば答えだって返ったかも知れない。
なのにその一歩を躊躇ったのは、ジャスミンがヴァリンに覚えた違和感のせいだ。
まるで、聞いてくれるなと言いたげな態度だった。
聞いたところで、ヴァリンの思考の何か一欠片さえ変化させる事もジャスミンには出来ないと分かっていた。
彼の覚悟を変えられるのは、同じ茶色の髪を持つ女でもジャスミンではない。
「……ヴァリンさん」
彼が過去に失ったという、彼が愛した女性だけが、ヴァリンの覚悟を変えられる。
死んだ彼女と同じ立ち位置には、ジャスミンでは決して立てない。
痛いくらいに分かっていたから、彼を引き留める言葉は飲み込んで押し殺す。置きっぱなしにされているヴァリンから取られた茶器を手にすると、既に中身は温くなっていた。
その茶を口に含むのに、喉が渇いた以外の意味は無かった。
けれど彼の気持ちが少しだけ理解出来そうな気がして、彼が口を付けたのとは違う場所から茶を飲んだ。
同じ食事を口にして、同じ建物で寝泊まりして、同じ茶器で茶を飲んだ。
彼の残した茶を啜っても、その胸に未だに宿る悲しみさえ完全には理解出来なかったけれど。