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ミュゼがアールリトを風呂から上げた時、既にヴァリンはいなかった。
簡単に整えた髪は短く梳かれ、頭のあまりの軽さに王女は自分の毛先を終始弄っている。
フュンフから王子殿下の不在を知らされた時、ミュゼは手にしていた王女が脱いだ服を投げ捨てた。
「んだとあの野郎!! ちゃんとした説明後から聞けるって思ったのによぉ!!」
フュンフの目の前で声を荒げて憤慨する姿を見せるのはこれが初めてでは無かったが、すぐさま余所行きの顔を取り繕った彼女は「おほほ」とわざとらしいまでの淑女の姿を見せていた。
アールリトは目の前の、知人に良く似た淑女が豹変した姿に目を丸くしている。そんな所まで、過去に失った『彼女』そっくりだった。
二人が戻るまでには執務を再開していたフュンフも、ヴァリンに対するミュゼの扱いに頭を抱えていた。
「……ミュゼ。君は『あの野郎』と言うが、ヴァリンはアールリト様と御兄妹だ。あまり妹君の前で、彼を扱き下ろす発言はしないで貰いたいのだが」
「知っていますわよそのくらい! 湯浴みの際に今までの事色々お伺いしましてでございますのことよ!! でも説明責任丸投げして自分は酒場にってこっちを何だと思ってやがりますかあの野郎!?」
「敬語と罵倒は分けてくれないか」
ミュゼの適当な言葉遣いにも、どこか温かみのある受け答えをしているフュンフはアールリトの目から見ても珍しい姿をしていた。穏やかなフュンフの顔は、ここ数年では見られなかったもの。
二人の関係が分からず、困惑の表情を浮かべる王女。しかしフュンフはそれを現状に憂いている顔として受け取る。
「アールリト様、こちらにいらっしゃったからには、アールヴァリン様が居らずとも御身の安全は保障いたします」
「え、ええ。……でも」
困惑の表情はそのままに、王女は着ている衣服の裾をひらりと揺らがせた。
それはミュゼと同じ、この施設での制服として支給されているシスター服だ。頭巾さえ纏えば、髪も全て隠れてしまう。唯一、窮屈そうな胸元を除けば何処にも違和感は無い。
「こういった服は着慣れていないから、不思議な感じがするわ」
「御不便をお掛けして申し訳ありません。……しかし、少しの辛抱です」
「いいのよ、フュンフ。貴方のせいじゃないわ」
一番辛い立場であろうに、微笑みで返すアールリトは本当にヴァリンと兄妹なのか――。そんな疑問がミュゼに浮かぶ。本当に疑っている訳では無く、冗談のひとつでもあるその疑問は黙殺された。
「さて、ミュゼ。君にはこれからアールリト様の護衛について欲しいのだが――」
フュンフがそう切り出した時だった。
扉の向こうから、入室の合図の打音が聞こえて来る。咄嗟にミュゼはアールリトを背中に庇い、それを確認したフュンフが頃合いを見て許可を出した。
「開いている」
言葉は短く。
それで開く扉からは、紫髪の男が入って来た。
「失礼します。先程ヴァリンさんがこちらにいらっしゃったと――」
アクエリアだ。
気怠そうな瞳は無遠慮に室内を見渡した。ヴァリンは既に居なくて、代わりに彼の知らない人物が増えている。ミュゼの背後でちらちらと動く頭巾頭が居心地悪そうにしていた。
「……いないですね」
「彼なら既に酒場に戻った。何か用だったか」
「いえ? 俺だけ除け者ってのが気に入らなかっただけですよ。ヴァリンさんこそ何の用だったんですか」
彼の登場に、ミュゼが鼻白んだ顔をしている。ずかずかと室内に足を踏み入れるアクエリアは、ミュゼの背中に隠された人物を覗き見た。
覗き見られた方も、彼の遠慮の無さに顔を隠す。そうして彼は再び逆方から覗き見て、その攻防は二・三度続いた。
「お止めくださいませんか、アクエリア」
ミュゼの低音の口頭注意に、アクエリアがやっと彼女の顔を追いかけるのを止める。
恋人同士になったかと思えば距離を置いて接する二人に、フュンフが肩を竦める。新顔が齎した不快感を謝罪するのもフュンフの仕事で。
「申し訳ありません、アールリト様。これでも彼は私達側の――酒場の者なので、警戒なさらなくて大丈夫です」
「……酒場の、ということは、ディルの部下なの?」
「は?」
部下、と言われてアクエリアの眉間に皺が寄る。確かにディルが頭を務めるギルドに所属していても、彼の方が立場が上だなんて思っていない。
露骨に不機嫌になったアクエリアに、アールリトが身を竦ませた。エルフである耳尖りの種族を敵に回すなと常々言われていたからだ。
「アクエリア」
フュンフから名を呼ばれるだけで、それが自分への注意だと知っているアクエリアは目を逸らす。さして長く生きていないだろうヒューマンの彼女を怖がらせる意図は無かった。
暫く沈黙が漂った後、フュンフの溜息でそれは壊される。そして始まる事情説明。
「……何度かこれまでの話に出て来たとは思うが、彼女はアールリト様だ。アールヴァリン王子殿下の妹君になる」
アクエリアがアールリトを見る瞳には、必要以上の興味が感じられない。昔に愛した王妃の子だが、彼女への未練は既に恋心ごと失われていた。
確かに、どことなく似ている。王妃に似ていない所は父親に似たのだろうか、とぼんやり考えたが、彼女に似ていない部分が僅かに自分に似ているような気がして、有りもしない話を思う自分にまだ未練が残っているように感じてアクエリアが苦笑する。
「妹……って、あの次期王位継承者とかいう? 即位式までは城に居るのでは無かったですか?」
「なのに何故……というのは、少し考えれば理由が分かるのではないか」
王女にしてみれば、自分の話が何処の誰にまで通っているのか分からない。
けれどこの男は味方だと言われれば、少しは気が楽になる。話してはいけない事柄が無い、という事だから。
「それで? 自分の妹を置き去りにしたんですかヴァリンさん。孤児院は子供ではない女性の身柄を預かる場所なんですか?」
「特例もある、ということだ。それに彼とて自分の用事がある、それもこれも妹であるアールリト殿下の為だ」
「………妹、かぁ」
妹、という言葉が出る度に、王女の表情が暗く沈んでいく。
その暗さに気付いたのはミュゼが先だ。どうした、と問いかける前に、アールリトは顔を上げる。
「……兄様は、また此処に来てくれる筈よ。頑張ってくれる兄様に恥じないよう、私は私に出来る事をするわ」
決意は固いが、孤児達とは済む世界が違う王女に何が出来るかも分からなくて。
孤児院という場所柄、仕事も限られている。彼女にとっては未知の世界だろうにそれでも前を向くのは、血の繋がらない兄が自分を助けようとしてくれたから。
「皆、どうぞよろしくね。王女とかそういうの気にしなくていいから、これからは普通に接して」
不安と同時に、未知の世界への興味も湧く。
これから自分の足で立つ為に、少しでも城の外の仕事を覚えようという王女は意欲的だった。
王城から酒場に戻って来たディルは、自室で荷造り作業をしていた。
帰ってきて直ぐに下りて来たジャスミンには「城で寝泊まりすることになった」と伝えた。同時、「汝もアルカネットと合流せよ。酒場は危険やも知れぬ」と。
言葉がいつも少ないディルの事を少しずつ理解し始めているジャスミンは、それを承諾した。いきなり酒場を離れるのは危険だから、と、誰かから頃合いの連絡を貰えたらすぐに出ると返して。
ディルの懸念事項はそれでひとつ減った。少ない言葉でこれからの行動を了承して貰えるのは、とても有難い事だった。
「………」
服は、少なく三日分。
生活に必要なものなど、城が用意するだろう。
けれどディルには手放せないものが幾つも出来てしまった。
妻の指輪。妻の短剣。妻が使っていた手巾、結婚式の時に彼女が身に付けていた装身具。
全てが妻に由来する。以前ならば縋り付いて彼女の面影を追っていた。けれど今は手に取って、服と共に鞄に突っ込む程度で握り締めたりはしない。
余裕があれば、ヴァリンの誕生日に彼女が来ていたドレスさえも持って行きたいところだが――それは流石に諦める。
また新しい服なら、幾らでも買ってやれる。服だけじゃない、望むものや必要なものは全部買い与えたい。
妻の為に破産するのも、悪くない。これまではどれだけ願っても出来ないと思っていた事なのだから。
鞄を肩から引っ提げて、私室を出るディル。
閉店している酒場客席に向かった時、その場に居たのはジャスミンでは無かった。
「………、あの」
既に、ディルは名前を忘れかけていた女だ。クプラと言ったか。
興味は欠片ほども彼女には無くて、呼び止められた理由に思い当たる節が無くて立ち止まる。
別に、無視しても良かったのだが。
「ディル、様。その、お聞き、しました。城に行かれると……。酒場には、もう戻らないかも知れないと」
「……ああ」
「私は、貴方に、命を助けてもらって。碌に御礼を言えないまま、離れることになるのが嫌で……」
「気にする必要など無い」
ディルにとっては、『命』という括りでしかクプラを見ていない。そこに特別な感情など無かった。
彼女は自身の膨らんだ腹を撫でながら、伏せがちな視線でディルを見る。その視線に違和感を覚えたディルが、逃げるように目を逸らした。恐怖ではない薄気味の悪さを、女から感じてしまったから。
「……誰からも見放された私を、救ってくれたのは貴方でした。貴方が、私を殺すために生かしているというのも知っています。けれど私は、貴方が、私を助けてくれたから……」
「………」
「ディル様が、以前ご結婚されていたというのは聞きました。でも今は奥様がいらっしゃらないと。でしたら私は、私が殺されるその日まで、貴方のお側に居たいと思ってしまったんです。私を生かしてくれた、貴方の近くに」
視線を逸らしたのは、言葉の続きを待っていたからではない。
クプラの話す言葉には興味が無くて、その内容には嫌悪感さえ覚える。
孕むほどに心を許した相手が居ながら、こんな短期間で心変わりするような女を近くに置くなど嫌だった。
話を漏らしたのはジャスミンか。しかし押しに弱い彼女が事実しか伝えていないのは助かる話だ。妻の話がクプラの口から出た時には、怒りさえ湧いていただろうから。
「側に、など無理な話だ。我の隣を許したのは一人だけ。汝が取って変わるなど有り得ぬ」
「それでも!」
クプラは引かない。
ディルは受け入れない。
当たり前だ。
「私は、……死ぬ時まで、一人でいたくない」
利己的な感情が先立った言葉など、誰が欲しがるだろうか。
「地獄への共連れに我を望むかえ?」
ディルの愛を望む訳でなく、ただ誰かに側に居て欲しいと、そう言われて頷くディルではない。
愛を望まれても、ディルの愛は心ごと既に奪われたままだ。
最初から無理な話だった。クプラの言葉は提案にも願いにも成り切れない。
「我は、死ぬ時は独りと決めていた。妻の傍ら以外で死ぬのなら、誰が側に居ようと同じ事。同時に、我が望んで看取るのは妻のみだ。我が妻と同等になろうと思い上がるな」
「っ……!!」
「理解したなら口を閉じよ。下らぬ世迷言を聞いている時間は無い」
荷物を抱え直したディルは、迷うことなく酒場の出口に向けて歩き始める。
「どうしてよっ!!」
慈悲も見せない態度のままで、背中にクプラの恨み言を受けることになった。
「じゃあどうして私を助けたの! どうして、私はこんな世界で子供を産んで一人で死ねって言うの!? 私は何の為に生きてるの!! こんな事なら助けられたくなかったわよっ!!」
逆恨みでしかない叫びは、ディルの鼓膜を揺らして、それだけ。
扉を開くと同時に振り返ったディルは、冷酷な視線と共に言葉を投げた。
「其れを後少し早くに聞けていれば、我とて汝を生かすなどという手間は選ばなかったであろうな」
命を助けて、それでも恨まれて。
クプラにとって不利益を齎したつもりがないのに、生かした事自体を罵られてしまえばそう言うしかなかった。
言葉を受けたクプラは目を見開いて、黙り込んだ。
ディルはもう振り返らない。全てをジャスミンへと押し付けて、城への道を再び辿る。
閉めた扉の向こう側から時間を置いて、絶叫のような泣き声が聞こえた。