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「……難儀な能力だな」
「そうですか? 僕は、この能力しか持っていない。母も同じ能力を持っていたので、別に難儀と思った事は無いですね」
質問が終われば、ロベリアは大人しい少年だった。年齢もそこまで重ねているとは思えない。ディルと比べて、一回り以上も年下に見えた。
札を集めて片付けて、筆記具も纏めて横に置く。そうして向き合った二人の間で、視線が合った。
「……先程、貴方がお聞きになったマゼンタ様の事ですが。あの方は今、病に臥せっておいでです」 「病?」
「ええ。毒殺騒ぎの話はご存知でしょう。あの毒に、直に触れてしまったらしく。命に別状は無いのですが……」
「ロベリア。マゼンタの話を口外するのは止めて貰おうか」
マゼンタの近況を語る口に王妃からの制止が入った。
ロベリアは頭を下げるだけで表情を変えない。
「いかな婚約者とて、自らの状態を言い触らされて面白くない相手も居よう。特に、あの子はもう酒場の面々に関わりたがらない」
「関わりたくなくても仕方ない事だってあるでしょう……、ディル様。あの毒薬は、酒場の人が用意したものですよね?」
口端に笑みすら浮かべないロベリアが、王妃の制止さえ無視して核心を付いてきた。
それまで大きな反応を見せなかったディルが、一瞬だけ引き攣るように指を動かす。
ロベリアは、その反応を見ていた。冷淡な視線で、それに関して何も言わず。
「殿下を裏切らないと言った言葉が本当なら、薬を用立ててくれませんか」
「……何の為に?」
「決まっているじゃないですか、マゼンタ様にお飲みいただくのです。あの方が病に臥せる姿を見ているのは、忍びない」
「……仮に、あの毒薬とやらが我が酒場の者が用意したものだとして」
ロベリアにとって大事な質問だろうに、能力を解除したらしいのが不思議で不気味だった。言葉を選ぶように、間を置いて答える。
薬を用意しろと言われれば、毒薬の正体が分からないと解毒薬は作れないとジャスミンに言わせるつもりだったから。
「解毒剤を我等が持って来たとする。……マゼンタは、素直に飲むのかえ」
「………」
「其れこそが、死に至らしめる毒薬と疑い、飲まずに瓶を叩き割らぬかえ」
「……ああ、そうですね。話に聞くだけだったけれど、貴方にとって彼女はそんな人なんですね。僕の知っている優しいマゼンタ様と、他の人から聞くあの方が、随分違う」
独白のような言葉を聞いても、ディルの表情は変わらない。
親しい者とその他に見せる顔が違う人物には、他にも心当たりがある。
しかしマゼンタは、少しばかり極端なようだ。ディルの知らないマゼンタの姿は知ろうとも思わないが、彼女の姿のあまりの乖離に戸惑うロベリアの気持ちは分からなくもない。尤も、ディルが二人の関係に重ねるのは自分達夫婦の昔の姿だった。
「……我に、此の様な疑いの目を二度と向けぬと確約できるなら、我等も解毒方法を調査する気も湧くかも知れぬ」
「ふふ。……すまぬすまぬ」
ディルが不満を垂れた時、反応を見せたのは王妃ミリアルテアだった。
これまでほぼ静観を貫いていた彼女が椅子から立ち上がる。その背中に、誰も伴なわない。
「ディルよ、其方の事を疑っていたのは事実だ。……先日、我に剣を向けずに命令を聞き届けた時から、今のロベリアによる『診断』を受けて貰うまで、其方に伝えようかと悩んでいた話があるのだよ」
「話が見えぬが。此れ迄疑いが晴れなかったとは遺憾だな」
「私に従う理由が、其方の妻の事のみとはどうしても思えなかったのだよ」
「……」
「本当に、其方の妻は……あの者は、良い女だったよ。きっと、私に何の柵も無く、対等な関係であれたら……友人になってくれと言えば、承諾してくれたろう。あの者を死なせた其方を、あの頃は本気で恨んだ」
王妃の恨み言は棘こそあるものの、六年という時間の経過とともに鋭さは無くなっていた。
絨毯を踏み締める王妃の足はディルまで近付いて、扉に向かうとともに離れて行く。
「ディル。あの者を死なせたこの世界に、今一度思い知らせてやらぬか」
「……」
「我等が作ろうとしている新しい国を、今度こそ同胞を死なせない強い国にするのだ。強い国は自分達で作るしかない。規律を守り、敵を排除し、我等に逆らう全てに鉄槌を下す。誰も死なない世界を作るには、立ち塞がる不安要素を磨り潰すしかない。鉄の味がする土壌に建つ国には、我等が咲かせる花で溢れさせる。……触れればただでは済まさぬ刃の花だ」
背中から顔だけ向けてディルへと視線を寄越す王妃は、口許に笑みを浮かべていた。
「その時には、ディル。もう一度、其方に王国騎士の地位を与えてもいいと考えている」
「……ふん。騎士の勲章になど最早未練は――」
「同時に、もう一度『花』騎士隊の設立も考えているよ。あの者が冠した『花』の符号を、夫である其方が受け継ぐのだ。美談だと思わぬか?」
「……」
騎士隊『花』。
ディルだけではない。ヴァリンだって、その隊の符号に特別な意味を持っている。
これまでで一番愛した女が所属し、命を散らせた隊だ。今では失われたその隊は、先の戦争での死傷者の数の埋め合わせと、現隊長と次期隊長の消失の為に解散させられている。
『花』隊が復活する、という件が――王妃には、ディルを釣る為の材料になり得るとでも思ったのだろうか。
「……考えておこう」
ディルの返答はそれだけだ。
「良い返事を期待しているよ」
王妃の返答から、ディルが断るだろうと思っている気配は感じさせない。
ディルの中でその符号は、妻が生きていてこそ意味を持つ。
妻のいない符号になんて、何の意味も無い。少しだけ郷愁を煽られるだけの、ただの名前だ。
今『花』の符号を出されても、見え透いた魂胆には怒りを誘われる。けれど、王妃はそんなディルの心中にも気付かない。
「さぁ、ディル。付いてこい」
「何処へ?」
「面白いものを見せてやろう。私達の悲願を叶えるための、私達が二十年を費やした計画の形だ」
部屋の扉を自ら開く王妃。軽く指を曲げて同行を指示され、ディルが側に控える形で付いていった。
王妃が動いたのに他の誰も動かない。前からそう伝えられていたかのように、ディルだけが同行を許されている。
閉まる扉の向こうに投げるディルの視線は冷たかった。カリオンは苦々しげにディルを見ていたが、それは敵意から来る視線ではないように感じる。
「ロベリアの事は許せ。あれも、マゼンタが臥せっているから気が立っているのだ」
「許すも何も、気にも留めぬ」
ディルが部屋を出るのを待って歩き出す王妃。その後ろに控えながら、ディルは剣からは手を離していた。
王妃を弑するなら今では無い。それに、王妃が語る『計画』とやらも気になっていた。二番街が崩落した事よりも重要なことなのだと、王妃の口振りで理解したから。
「……婚約者と言ったか」
ふと、ロベリアの言葉の中に引っかかったものを思い出した。
これまで、マゼンタは特定の相手がいる素振りを見せた事が無い。大抵の事は姉であるオルキデと一緒に行動し、店で時折余所者に言い寄られる事はあれど無難に躱していた。
「婚約者だよ。幼少期から、我等同胞の年寄りに決められた間柄だ。尤も、本人達の感情はそれだけではないようだがな」
「あの姉妹に特定の相手がいる話は聞いたことが無い。匂わせたことも無い」
「言わぬだろうな。其方との仲は険悪だったのだろう? ……それでなくとも、オルキデが想いを寄せる相手が、自らのせいで死んだというのに」
「……?」
「未だ気付いて無かったのか」
驚いたような、予想通りのような、そのどちらともつかない吐息が王妃から漏れた。
「オルキデは――あの子は、其方の先代のギルドマスター……エイスに惚れていたんだよ」
「……」
「そしてマゼンタは、エイスを殺した」
ディルの歩みが、その時止まる。
「殺すに至った理由は幾つもある。王家に対する造反とも言える行為、五十年前に処刑を免じてやったにも関わらずあの者はこのアルセンに背いた」
「……背いた、とは。さぞ大層な理由なのであろうな」
声に出せたのはそれだけで、ディルは自分の喉が震えないように、必要以上に低くならないように努めるので精一杯だった。
エイスの死が齎した悲しみに濡れた妻を思い出す。悲しみの中に居ても滅多に涙を見せなかったあの女が、声を殺しきれずに泣き喚いた。ディルの鼓膜を揺らした声は、あの一回きりしか聞いたことが無い。
そのディルにとっての一回を、このプロフェス・ヒュムネの女共が引き起こしたという。
王妃の部屋に入った時の、オルキデの挙動不審な様子を思い出した。あれは、酒場を出て行った気まずさからではなく、酒場を離れた今更良心が咎めたというのか。ディルがもしかしたら、エイスの死の真相に気付いたとでも思って。
「今は、仔細は省くがな。あの男のせいで、先の帝国との戦争が再開したのだ。……ふふっ、もう七年になる昔の話に怒るな。エイスが死んだお陰で、其方はあの者に求婚する大義名分を手に入れただろう」
「……省かれた仔細に、我は興味を引かれている。殺されるまでの何を仕出かしたのだ?」
「あの者が国外に逃がしたギルドの者が、帝国を焚きつけた……。今、言えるのはこの程度だ。気になるのなら全てが終わった後にゆっくり話してやろう。新たな国となるアルセンの地を眺めながら、茶でも飲みつつな」
ミュゼが姉妹の日記を前にして、伝えようとした話があったのを思い出す。その話は、突然の来訪者に中断されたままだった。
あの日記に、ミュゼは何を見たのか。それは重なった様々な出来事で聞けないまま今日まで来た。
邪魔が入って出来た見落としが、今更ディルに驚愕と怒りを齎す。無意識に手を添えた剣の柄を握り締め、怒りを和らげる。引き抜かない理性は今も働いてくれている。
「しかしエイスは、――……」
「……どうした?」
歩き出さないまま何かを言いかけるディルに、王妃が振り返って視線を寄越してきた。
ディルは自分が口にしようとした言葉を飲み込んで、唇を一度引き結んだ。
「……、いや」
――エイスは、本当に死んだのか?
そう国王が言っていた事を告げようとしたが、出来なかった。
その問いをディルに投げかけた国王は、もう死んでしまった。
誰にも告げない事を誓わされた言葉だ。それは、国王が死した今でも有効なのか。
国王はエイスの死の真相を知らない様子だった。王妃の一存で決められた処分かが分からなくて、口にする内容を改めて再び口を開いた。
「陛下はエイスの死の事を、知っていたのかえ」
「……、さてな。勘付いていたなら匂わせもしようが、陛下は地位に見合わず人の機微に疎かったからな。ヴァリンの事を棚に上げながら、己も愚かである事に気付かなかった男だ。それ故に、我がファルビィティスが裏切られた事実に今でも吐き気がしている」
ディルは、王妃の言葉に今度こそ口を閉じた。
王妃とディルは似たような存在だ。過去を見続けて、縛られて、他の道を模索しようともしない。
ディルは離れてしまった妻を想って。
王妃はとうの昔に滅んだ国を想って。
似た二人であるのに、道を同じくする事はないのだと痛感する。王妃の存在はこんなにも、ディルに不愉快という感覚を与え続ける。
「けれど、我等は同じ道は歩まぬよ。今度は、今度こそは上手くやる。そして我等はこの国を喰らい、誰からも害されぬ国を作るのだ」
それきり沈黙が漂う二人に、足音だけが付いて回る。
廊下を進み、階段を下り、今が何階かも分からない段差を深く、地に下りていく。
部屋を出て城内と思えないような時間が過ぎた後に、二人はとある場所に辿り着く。
石造りの壁と天井、聳える鉄扉のその奥。
王妃がディルを連れて来たがった場所。
ファルビィティスの為に作られた、通称『零番街』へと。