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「其れで、何処へ向かっている?」
ディルはカリオンの背中に付いていくしか許されない状況で、気になる事を聞いてみた。
謁見の間に向かう道からは既に逸れている。
進めば進むほど、一介の騎士では寄り付けない場所に来ている気がした。そう、国王の崩御前に行くことの出来た王家居住区画のような。
「……王妃殿下は、君との謁見を謁見の間以外で御所望だよ」
「ほう? 上級騎士の目を躱す事が出来るのなら、此方としても有難い限りだ。人の目に晒されるのは、見せ物のようで不快だ」
「元『月』隊長の言葉とは思えないね。……上級騎士は居なくても、もっと面倒臭い人がいるから気を付けた方がいいよ」
それは忠告なのか、ただの軽口なのか。今のカリオンでは判別が付き難い。
ディルにとっては公はともかく私情では深く接したことが無い男で、その根は戦闘、ひいては勝利への渇望が有る事を知っている。ディルがそれにしか自分の価値を見出せなかったという理由で戦闘狂と呼ばれていた裏で、カリオンはその素顔を巧妙に隠していた。
ディルと比べれば何倍も器用な男だったように思うが――その器用さで自分を取り繕えなくなったのは、きっと『あの時』から。
『花』の隊長と副隊長が居なくなった、あの日から。
「その『面倒臭い』中には自分をも含んでいるのであろうな?」
ディルの一言で、カリオンは黙る。
けれど足は止めない。
「……」
「自らを棚に置き、全て他の者の責とする態度は好まぬ。我が忠誠を向けるのは此の国であるが故に、其の『面倒臭い』輩に絡まれた所で何とも思わん。其の節介は不要だ」
「……ディルは。……君は、どうして、そこまで殿下に忠誠を誓えるんだい? 君はこの前まで、城から追放処分を受けていた身だろう? 君がそこまで忠誠を捧げるのは、他に理由があるからじゃないのか?」
「他に? ……異な事を言うな。我には皆目見当がつかぬが、何か挙げられるならば言ってみると良い」
「………」
始まったのは、腹の探り合いだ。
カリオンは、ディルが彼の妻の生に勘付いていると思っている。
ディルは、カリオンが妻の生について何か知っている素振りで言ってくるなら――誰を差し置いても、一番に処分しておくべき相手だと決定づけるつもりだった。
カリオンは悩んで、けれどその心情さえ隠し通して、軽く笑って口を開いた。
「挙げられる話なら幾つかあるだろうけどね? 正直言って、私は君をまだ疑ってるし……殿下だってそうだけど。君が権力をもう一度手にしたいって男でもないのは分かってるし、今更殿下の味方って顔をしても……ねぇ」
「……。カリオン、貴様は、其れほどまでに我が背信者である事を望むのかえ?」
「……君が、そうでない事を望むよ。私だって、もう必要以上に争いたくない」
途中に居た警邏の騎士も、見張りの騎士も、その全てがカリオンと共に歩くと道を開ける。
向かうのは、先日ヴァリンの部屋に入った時と途中まで同じだ。階段を上った先で、違う方角を歩む。
この先に王妃がいるかと思うと、自然と気が引き締まる。
「君に生きていて貰わないと、……地獄で『あの人』に向ける顔が無い」
進むカリオンは、目的地である部屋の扉の前でやっと立ち止まる。
扉に打音を響かせて、返って来る「入りなさい」の声はディルも聞き覚えがあるものだ。
広く開けた扉の向こうに足を踏み入れるカリオンに続くと、部屋の中には四人の人物が見える。
王妃ミリアルテア。
その妹、オルキデ。
騎士隊『風』隊長エンダ。
あと一人、ディルが名前を知らない黒髪の男がいた。年齢はディル達よりも遥かに若いであろう、少年から漸く脱却したであろう年の頃の青年だ。
四人は椅子に腰かける王妃を中央にし、他は少し離れて三方向に立っている。
カリオンが王妃に近寄って「連れて参りました」と言うとその隣に控えた。
「……良く来たな。此処までの距離は、こう頻繁な呼び出しだと骨だろう」
「そうお考えならば、回数を控えていただきたいものだな。我とて全ての時間が手隙だという訳でも無い」
「釣れない事を言うものだ。……今日は少し、此れ迄と趣向を変えたいと思うてな」
オルキデは、俯いて自分の腕を抱いている。決してディルを見ようともせず、床を睨みつけていた。
エンダもカリオンとディルを交互に見ては、落ち着かないように視線を彷徨わせている。
名も知らぬ男に、ディルが小さなテーブルへと誘導された。向かい合うように椅子があって、それに腰掛けた所で男が口を開く。
「……お久し振りです、マスター・ディル」
黒髪の男は、長い前髪を正面で分けて垂らしている。頭には帯のような布を巻いて乗せているが、一番目を引くのは頭でなく顔である。
その顔には左側に、とても大きな緑色の模様がある。刺青のように刻まれた、菊を思わせる変色した肌。男はディルの視線がそれに向いているのを見ると、目を少し伏せてその事について言及した。
「……この顔が気になりますか」
「此のような特徴のある人物と顔を合わせた記憶が無いと思ってな」
「ああ。……仕方ありませんよ。お会いしたのは一度だけ、帝国との戦場でなので。あの時の貴方は、酷く憔悴していらした」
戦場、と言われて一番に反応したのはディルの眉だった。ぴくり、と一度吊り上がるがそれで終わる。
黒髪の男は、服の中から分厚い札の束を取り出した。一枚一枚の厚さもそれなりにありそうなそれらを手にすると、まるで魔法でも掛かっているかのような手慣れた手つきでそれを切り始める。
よく混ぜ合わされたその札の山を全て裏に返し、テーブルの中央に置いた。
「自己紹介が遅れました。僕は、宮廷占術師をさせていただいていますロベリアと申します。……混血のプロフェス・ヒュムネとして、今は王妃殿下のお側で仕えています」
「……噂には聞いている。宮廷占術師と言えば聞こえはいいが、確約の無いものを好む趣味は我に無い」
「ええ。いつもでしたら『当たるも当たらぬも自分次第』と僕も言いますからね。……それが、普通の占いなら」
ロベリアはテーブルの上の札に手を置いて、それを横に滑らせる。均等に広がる札が高さを減らし、全ての札が広げられたところでロベリアがディルを見る。
「ディル様。生憎僕のプロフェス・ヒュムネとしての能力は『普通の占術』じゃないんです。この能力しか無いから、僕自身は他の皆さんのように戦闘が得意ではないんですけれどね」
「……と、言うと?」
「人の、思考が。少しだけ覗けます」
ディルを見据える、髪の色と同じ漆黒の瞳が数度瞬いた。
その瞳の奥に、一瞬だけ深淵を覗いたような気がしたディルが、彼の言葉で表現できないような薄ら寒さを感じる。首の裏を撫で上げられたような、気分の悪くなる違和感が襲った。
普通であったなら、正気を疑うような言葉だ。しかしそれがプロフェス・ヒュムネとしての能力だと言うのなら、疑念は薄らいでしまう。
「……覗くと言っても、少し儀式のようなものが必要になるので。そんなに警戒しないでください」
「ふん。……実演が無ければ疑うのも仕方あるまい。何を以て覗くと言うのかも分からぬ」
「それは、これから証明しますよ。……エンダさん、例の物を」
エンダに指示を出すと、彼は嫌そうな顔をしながらも部屋の隅にある小間物入れから筆記具と墨のような黒い瓶を持って来た。長い枝に蔦が巻いている意匠のそれは筆先も木製だ。
墨が入っていると思われた黒い瓶は、蓋を開けると中身は真紅だった。花をそのまま液体にしたかのような鮮やかな色。
「最初に。ディル様、貴方のお気の向くままに、テーブルの上から一枚取ってください」
「……ふん」
言われるままに、ディルは広げられた札の一枚を手にした。一番右側のものを手にして自分の元まで指先で引き寄せる。
表に返すと、そこにはディルにとって良く分からない記号だけが書いてある。三本の矢のようなものに、小さな楕円がひとつ。自分で見ても説明のしようがないので、そのままロベリアの方に差し出した。
「……。これは、珍しいカードを引かれましたね?」
「知らん。希少性を語られても理解出来ぬ」
「これは朽ちた三つ葉と種を元にして描かれているものです。意味は、『実らぬ願い』。今抱いている望みは叶わない、という占いの結果ですね」
「………」
なるべく、態度を表に出さないように努めた。
抱いている望みなど、思い当たる節はひとつしかなくて。それが叶わないと言われた瞬間に激昂しないのは難しかったが。
妻を奪還できないと占いに言われて、苛立ちを隠すように額に手を当てる。
「占いは占いだ。我が望みは妻にのみ向いている。我が死した後にあの者に労われる望みを、否定されては此方も寄る辺が無くなる」
「………」
「自分次第、なのであろう。では、叶わなくならぬよう努めるのみだ」
妻のために王妃に付き剣を振るう、と公言しているディルだから、その言葉は全員の耳にすんなりと届いた。
札をテーブルに置いたロベリアは、先程の筆記具の先を真紅の液体に付けた。充分に浸された筆先を引き上げ、カードの真上に位置付ける。
「ディル様。お手を拝借できますか」
筆記具を持つ方とは逆の手を下から差し出しながら、ロベリアがディルの手を要求する。
人に触れるのを得意としないディルはその要求に迷ったが、指先だけ触れる形でその手に乗せた。
「今から、僕が言う言葉には復唱をお願いします。それが質問でしたら、回答を下さい」
ディルが眉間に皺を寄せる。
触れるだけで終わらず、幾つかの指示すら出されるのは普段のディルでも嫌がる事だ。
「……答える義務はあるのか。我は肌の接触も、回りくどい話も好まぬ」
「義務はないです。けれど、貴方だって僕の能力が確かなものか、気になると仰った」
「……手短にしろ」
ディルの不満も、ロベリアの前では些末なものだった。この茶番が早く終わる事を願う以外、ディルには許されていない。
どうせ、王妃が言い出したことだろう。ならば最初から拒否権は無かった。
「……では、ひとつめ。ディル様、今回この場に呼ばれた理由を御存知ですか?」
「……質問か。知らぬ。我は殿下の命に従い、カリオンの指示通りに此の場まで参じたのみ」
「そうですか。……理由までは知らない、と」
「理由までは知らん」
その質問から進む二人のやり取りに、誰も口を挟むことは無かった。
他の面々は黙ったまま、二人の口に上る言葉を聞いていた。ある者は興味深げに、またある者は心配そうに。
質問は、王妃がディルを知る頃から始まった。『月』の騎士隊に入った時だ。それより前の話にならなかった事にだけ、ディルは安堵を覚えた。
質問の間に、ロベリアは筆記具でカードの表面に線を描いていく。なんの変哲もない横線に、時折傷を刻むように斜めの短い線が引かれる。
長い時間では無かった。けれど、決して短くも無い。カードの上の線は、質問が終わるまで延び続けた。