それから
それからの彼女の変化に、ディルだけが追い付けなかった。
『花』副隊長の隊長就任となった時、喜んだのは『花』の騎士だけではない。
それぞれの隊に懇意にしている者が居て、彼女の出世に多数の者が喜びの声を上げた。
副隊長となった者は、『花』隊から選ばれる事はなかった。意外、どころかこれこそ前代未聞と言ってもいいほどの大抜擢だ。『風』隊から引き抜かれたソルビットという女は、それまでの隊でも幹部候補として目を掛けられていたのに。
新生『花』隊は、それまで以上の騒がしさを伴った。しかし統率が取れていなかった訳では無い。寧ろその逆で、ネリッタが整えた環境は彼女が隊長になってからも効力を発揮する。
どれだけ騒がしくても、隊長への敬意と忠義を備えた隊だ。先頭に立つ鈍い銀色の髪を靡かせた隊長の姿は、とても美しくて。
何故か、ディルだけを避けるようになった。
「……」
その日の会議が終わった直後も、ディルの視線から逃げるように『花』隊長はそそくさと執務へ行ってしまった。
残った隊長格は皆苦笑いを浮かべて、それぞれが重い腰を上げる。
会議中以外では、遠目から彼女を見るだけになってしまった日々。
戦争も無く、毎日の執務で消費されていく時間。
安穏とした日々も悪くは無い。剣を握るだけでなく、書物を手に子供の相手をするのも嫌いというほどではなかった。
胸に感じる痛みが強くなる以外は。
「……うちのたいちょは本当にもう……。あ、お疲れーっす」
「……。ああ」
気安い声の調子でディルに声を掛けたのは、件の『花』副隊長ソルビットだった。癖のある茶の髪と鳶色の瞳、豊満な肢体を持ち長い脚を露出している女。見た目と振る舞いを武器にして、今まで自国他国問わず幾人もの重役を手玉に取って来た。
それぞれ『風』の者が会議室を出た。新しく『風』副隊長に就任したアールヴァリンと、隊長に就任したエンダ。
『鳥』の副隊長ベルベグも苦笑を浮かべつつ会議室を出て行く。カリオンはまだ残っている。
「分かりやすいというか何というか。隊長の執務は問題なくとも、私生活の方が問題だね」
「カリオン様。あまり余計な話を隊長に聞かせてくださいますな」
「おっと」
カリオンが呟いた言葉に釘を刺すように、『月』副隊長のフュンフが棘のある言葉で止めさせる。気付いた側は一層苦笑を深めて、副隊長の後を追うように会議室を後にした。
残ったのは『月』隊長と副隊長、そして『花』副隊長のみ。
「そうやってフュンフ様がディル様を過保護にするから、あたしのたいちょーが悶々としてるんでしょ。あの面倒臭い乙女をヨチヨチ慰めて仕事するこっちの身もなって欲しいものっすね」
「知らん。悔しければそちらの隊長に慎みと淑やかさを覚えさせるのだな、でないと我が隊長の隣に並ぶに相応しくない。自分の身に付けた作法を教授するだけだ、貴殿には難しい話では無いと思うが?」
「兄……フュンフ様はそれだから。大体さ、フュンフ様の理想高すぎるって話よ。そんなんだから結婚できないんでしょうよ」
「汝等」
ここまで言われて気付かないディルもディルだが、当の本人は二人の回りくどい話口調に眉を顰める。
「隊長格には既に周知なのであろ。此処には我しかもう居らぬ、普段通りの口調で構わぬのではないか」
「……」
「……えー」
二人は、腹違いの兄妹だ。
互いにそれを知ったのは、ここ十年程度の話になるらしいが。
「じゃあお言葉に甘えて。兄貴もいい加減ディル様離れしろって。自分だけじゃなくてディル様まで独身のままでいさせたいの? 兄貴が離れたらディル様の嫁候補とか掃くほど出てくるだろうに。まー勿論、一番最初の立候補者とか誰にでも分かると思うんですけどねぇー」
「だから問題なのだソル。私の心労を今以上に増やす気か? 隊長は漸く隊長としての振る舞いを覚えて来たところなのだ、今が大事な――」
「はーい! 出ましたー過保護!! うちのたいちょーより任期長い癖に何甘っちょろいこと言ってんの!? ディル様だっていい年なんだから少し自由にさせてやったくらいでどうにかなるような人じゃ」
やいのやいのと繰り返す兄妹を放置して、ディルも会議室を出て行く。
二人の間で繰り返される言い争いは決して険悪になる事は無いが、ディルには内容が不可解すぎて聞いていられない。フュンフの監視の目が和らぐというのならディルも賛成だが、あの堅物朴念仁が妹の言葉くらいで考えを改める事は無い。
廊下に出ると、春の日差しが窓から入って来ていた。
ディルはもうすぐ、またひとつ年を取る。
『花』隊長と知り合ってから、季節が何度も過ぎた。幾つも年を取った。
年を経ても変わらない彼女の笑顔を見ることが少なくなったのはここ最近だ。
最近の彼女はいつも、ディルを見るなり目を逸らす。
ディルの満足いく隊長になるまで――と、彼女の中での誓約のようなものだろう。
けれどそれで心乱されるのはディルの方で。
彼女を隊長に推した事には後悔が無い。
なのに、彼女がディルをあからさまに避ける姿を見ると、話が変わって来る。
別段、何か避けられるようなことを彼女にした覚えはない。
以前フュンフに相談した時は「一時的なものでしょう、気にされなくて大丈夫です」と言われたまま数か月が経つ。
「……」
だからと、彼女に何を望めばいいのかも分からない。
避けないで欲しいとでも言えばいいのか。言ってどうにかなるものなのか。
会議中以外で彼女の顔を正面から見る事も難しいのに、言ってどうにかなるのなら最初から避けられていないのではないか。
――そもそも。
避けられていても執務には滞りは無い。なのに何故これほどまでに胸が痛むのか、理由さえ分からなかった。
「……、………」
『花』の符号と違わぬ大輪の笑み。
ディルの怪我を治療し、服まで縫ってくれた細い指。
たったひとりで隊長の死した戦場に残った小さな体。
方法は良くなかったかも知れないが、自隊の矜持を守ろうとした意地。
その全てを、ディルが守れるなら守りたいと思った。けれど、今となっては近付く事も難しい。
彼女を『月』に引き入れたいと考えていたのが見透かされて避けられているのかと、ディルの胸に痛みが過る。
廊下を歩む足さえも、重い。
「……あーあ、兄貴がギャアギャア言ってる間にディル様行っちゃったよ」
「お前、自分を棚に上げてよくも言えたものだな?」
フュンフとソルビットの兄妹は、閉まって二人きりになった会議室を見渡しながら好き勝手に相手を評した。
言い争いは三分と続かなかったが、それでもディルを退室させるには充分で。
「たいちょーもたいちょーで、兄貴の事なんか気にせずとっとと告白すればいいのにねぇ」
「ふん。長い間片恋だけ続けていた『花』隊長にそのような事出来る訳が無い」
「でも、たいちょーが告白したら絶対ディル様快諾するよね。見た? 会議中のディル様の視線。資料見る時以外はずっとたいちょー見てたよ。あれでたいちょーも気付かないんだから凄い」
「……………。……」
フュンフは既に、ディルから無自覚の恋愛相談を受けていた。その時に「ソルビットには話すな」と念を押されているので何と答えたものか沈黙が流れる。
兄からの返事が無いのを確信の上塗りと捉え、ソルビットが軽く体を伸ばした。
「あたしのあの人を傷付けさせるんなら、兄貴だって絶対に許さないからね」
「……勝手に傷つく分には私の預かり知る所ではない。大体、色恋が何だと言うのだ。そのようなもので揺らぐような性根なら一度折れてしまえば良い」
「あ、それ今でさえ色々複雑な状況のあたしに言うんだ?」
「……」
丸く開き異母兄へと無邪気に問い掛ける鳶色の瞳。
問い掛けられた側も失言だったと口を噤んだ。ソルビットを取り巻く環境は、生まれる前から今まで非常に複雑だ。様々な問題が山のように積み上がり、時折フュンフもその問題の雪崩に巻き込まれる。
それを『花』隊長は――多分、秘密主義のソルビットが知らせていないから知らない筈で。
「お前も、殿下の事はどうするつもりだ」
「へぇ? 気になるの? 異母妹が次期王妃になるかどうか気になっちゃう? ん?」
「馬鹿を言うな」
「ふーん。まぁ、ならないけどね」
分かりやすい恋心を抱いているのは『花』隊長だけではなかった。
このアルセン王国の嫡男であるアールヴァリンも、近くで見れば非常に分かりやすくソルビットに恋をしている。既に愛へと昇華している片恋を、この兄妹は見て見ぬ振りを続けている。
愛と欲に振り回され続けたソルビットは、幼い恋心に手を出す事を恐れていた。
「あたしじゃ駄目なんだよ、殿下はさ。そりゃあたし、こんなに美人だから気持ちは分かるよ? でも……殿下だって、自分と同じくらいの歳のお姫様と関わったら……きっと、そっちの方が良いってなるよ。あたしじゃ不釣り合いってーかさ……年上のお姉さんに憧れる年頃は、きっと終わりが来るから」
受け入れて同じ夢を見て、終わりを突き付けられる時は一方的。それは、妾にもなれなかった彼女の母親が歩んだ末路と同じだろう。
恋愛に本気にならず、関係を持つ時は後腐れなく。それがソルビットが選んだ居心地の良さだ。アールヴァリンという随分年下の例外が発生するまで、ソルビットはそうして生きて来た。
「ま、殿下の結婚は早めに決まるでしょ。次期国王なんだからね、あたしの指南が活かせるうちにお世継ぎも早めにお願いしたいところだよ」
「お前はそれでいいのか」
「だって、ヴァリンは――」
愛称を口にしたソルビットが、慌てて口を噤む。他に誰も聞いていないであろうに、彼から許された気安い口調を改めた。
他に誰の耳が無くとも、自分が聞いている。彼に心を許し始めた自分を、もうひとりの冷静な自分が監視している。
飾り立てた自分に、彼には相応しくないとみすぼらしい自分が囁く。
汚れた売女の血は崇高な神の血を穢すだけだと。
「アールヴァリン殿下は、王子様だから。あたしみたいな孤児の血が王家に混じるなんて駄目だよ」
そうして話す二人は、アールヴァリンが着席していた椅子に筆記具の忘れ物がある事に気付かない。
そしてそれを取りに戻ったアールヴァリンが、二人の会話を盗み聞いていた事も。
唇を噛みしめた王子殿下はそのまま会議室を素通りする。まるで何事も無かったかのように振舞うが、普通以上に繊細に生まれ付いた彼の心を削って行ったのは他に誰も知らない。
新しくその地位に就いた隊長格達は、一歩引いた仲をまだ暫くは続けていく。
関係が大きく変わるのは、もう少し先。
そして、今迄以上に多大な被害を出した戦争が再開されるのも。
緩やかに破滅の道を進むこの国は、今ならまだ引き返せたかも知れない。




