ディル二十五歳―3
その悲しみは、誰にも等しく降り注ぐと知っている。
それまでのディルには、他人事として深く考えなかったことだ。
戦場での撤収も終わり、今回も停戦を申し入れられたアルセンは剣を収めて城下へと戻った。
得る物が少なかった戦争だ。勝手に吹っ掛けられた宣戦布告と、四隊長のうち一人を喪ったアルセンには損失の方が大きい。
事実的には辛勝だが、それで帝国から明け渡された土地を有効活用出来る訳も無い。再び帝国が要らぬ気を起こして攻め込んでくれば、その土地もまた戦禍に覆われるだろうから。
頭の痛い話が山程有る。黙したまま二度と目を開けない部下の死亡報告を、家族へと伝えに向かった『月』の者が精神をやられてそのまま休職した。失った命は、土地と違って二度と戻って来はしない。
『花』隊長、ネリッタ・デルディスの命も。
『月』の隊長には、騎士の葬儀を行う仕事もあった。神官騎士で構成されている『月』が代々受け継いで来た儀式だが、ディルには神官としての知識も少なく心構えも無い。けれど、その葬儀の手順だけはダーリャの副隊長になった時に覚えさせられている。
人を送る時の言葉には、心と祈りが込められていればいい、と。あとは元からある葬送の祭詞を読み上げれば、人々の想いと魂は天に届く、と。
騎士隊『月』を率いる者として、最上級の者にのみ用意されている白の祭司服に身を包んだディル。
英霊の為に用意された合同葬儀の祭壇は、城の広間に設置された。その側で儀式の始まりを待っている。
この場所でカリオンと一騎打ちをしたのがつい最近のように思える。あれから流れた月日の中で、騎士を辞した者も命を失った者も居る。その中に入らなかっただけ、ディルは運がいい。
儀式に使う錫杖と聖書を持てば、今だけはディルの言葉に王家も逆らえない。それだけ、残された者が死した者に向ける想いは強いと言える。本当にこの役目を自分が負っていいのか疑問が残るディルだけを置いて、時間は進んでいく。
「……」
祭壇へと、一歩一歩、ディルが近付く。
今回の儀式には、英霊の親族は参列を許された。その表情は一様に暗く、悲しみを湛えている。
参列者を見渡すディルが、視線の中にとある人物がいない事に気付いた。
「………?」
葬列に王家さえ参列している中、『花』副隊長が居ない。他の隊長格が集合する時間には居た気がするのに。
最早『花』を統べるのは彼女だけだ。なのに、英霊を見送る儀式に出ないという事は不敬でもある。彼女がそれを分からない訳が無い。出られない理由があるのか、それとも分かっていて出ないのか。
けれど今更時間を延ばすなど出来なかった。祭壇の正面に着いたディルは、床を叩いて錫杖を鳴らす。金と白銀、数種類の宝石からなる豪奢なものだ。
「……傾注」
儀式が始まった。ディルの声は大きいものではないが、その言葉一つでその場全員の視線が向く。元から余所を向いている者は少なかったから、それだけ出席者の心持ちが伺える。
このまま儀式を進めて、手早く終わらせる事もディルには可能だ。上辺だけの祈りなら、すぐに述べて儀式を進められる。けれどそれでは、心が込められているといえるのか。悲しみに『寄り添えない』のと、『寄り添わない』のとは違うのだ。
錫杖を掲げ、二度三度と鳴らす。しゃん、と鳴る度に参列者の中には目を閉じる者が増えた。錫杖の音色に祈りを重ねているのだ。
ディルは口を開く。
この場を訪れた者達に捧げる、自分なりの祈りの為に。
「……。此度の悲劇で失われた命には、此れ迄の生に数多くの喜びがあったろう。参列者の悲しみは、其の喜びに比例する。道半ばだった者も居る、だが、我等は此処に居る。我等が生きる世界を守ろうとした高潔な意志は、我等が死する時まで忘れる事は無い」
誰かが死んで悲しい、とか。
誰かが居なくて寂しい、とか。
そんな感情はディルとは無縁だ。今まで誰に何があっても、無感情で無関心を保っていられた。
今でもそれは変わらない筈なのに、今は少しだけ、なんとなく、その感情が理解出来る気がする。勿論、それは『理解した』とは程遠いのだけれど。
「祈りを。死した我等の同胞へ。願いを。此れからも生き続ける己等へ。揺るぎない安寧が続くように、此の平穏が壊れぬように。此の悲しみを、忘れぬように」
言葉に乗せたディルの想いは真実だ。
慰めでもない、悲愴でもない、死した騎士のこれまでとこれからを言葉として祈りに乗せる。
祈りが広場に満ちる。
その光景の中に、『花』副隊長の祈りは無かった。
「………」
この全てが天へと届いたとして。死した者への慰めになったとして。
そうと気付く者は、ディルを含めて誰もいない。
啜り泣く声が聞こえる中、『風』隊長のサジナイルが席を立ったのが見えた。
葬送の儀は滞りなく終わる。ディルの出番は無くなり、後は故人の縁者がそれぞれ見送るだけだ。
会場を早々に後にして祭司服から通常の神父服に着替えたディルは、城内で『花』副隊長とサジナイルの姿を探そうとする。
カリオンが、サジナイルを呼べと言った。
四隊長が三隊長になり欠員が出た今、次の『花』隊長を決めるのが急務となる。でなければ、頭を失った部隊は幾ら練度が高くとも道標が無ければ崩壊しかねない。
その時のカリオンの表情は浮かないものだった。これまでの騎士団の歴史の中でも、隊長格が戦場で死亡するなど殆ど無い事で。その都度会議の場が設けられ、これまでは副隊長が順当にその座についた、のだが。
今の彼女を、このまま隊長に据えていいものか。カリオンの中でも、それは懸念事項になっているのは確実で。
探すのはサジナイルだけで良かった。
けれど、彼女に失望したくなかった。
ネリッタを慕った彼女が、こんな所で己の役職を放棄するなどあってはいけない。
彼女の悲しみが深い事だけは分かる。ネリッタ程の面倒見が良い男を喪失し、あんな無残な遺体を見る羽目になった。彼女が彼女として動ける下地を用意したほどの協力者だ。これから先城内で、ネリッタほど彼女の支えになれる人物はきっと出て来ないだろう。
葬儀を中座した理由を、彼女に直接聞けたら。
……そこまで考えて、ディルの足が止まりかける。
「……」
ネリッタは、彼女に向けての感情が恋愛感情などでは無いと言い切っていた。
では、その逆はどうだったろう。
もし彼女が、ネリッタに対して自隊隊長以上の感情を抱いていたとしたら。
だから、合同葬儀に出たくなかったのだとしたら。
そう考えた途端、何故かディルの胸に突き刺さるような痛みが走った。
「………っ、?」
外傷は無い。
身を突くような痛みは一瞬で消えた。
これまでも時折、彼女の事を考えると感じた痛みだった。
何かの病のようにも感じる。けれど、今はそれどころではない。再び歩を進めるのに、然程時間は掛からなかった。
サジナイルを連れて行かなければ。
でも、彼女の口から今回の中座の理由を聞きたい。
サジナイルは彼女を隊長に据える事に賛成するだろうか。
もし、反対したら。
万が一、彼女が今回の責を問われるようなことになってくれれば。
今度こそ自分は、かつて望んだようにネリッタの役回りとなって彼女を側に置けるだろうか。
以前のように、凛と前を向いている彼女ではなくなっていても。
それでも、と望む心は、再びディルの中で膨らみ始めていた。
『花』副隊長とサジナイルは同時に見つかった。
男女が騒がしく言い争う声がした方向に歩いて行けば二人が悶着を起こしている場面に遭遇する。
二人は決して仲が悪い訳では無く、悪い方面で馬が合うようだった。……だから、床に伏した彼女を足蹴にしているサジナイルを見ても、さして驚きはしない。
言い争う声は二人を見つけた頃には止んでいて沈黙が漂う中、ディルも足音を消すために止まった。遠目から見る二人の間には、重い空気が漂っていた。
「……止めろよ」
その声は靴底に敷かれている側からでなくて、サジナイルの喉から出ていた。
震えるまではいかないが、芯を失ったような不安定な声。まるで彼自身も先程まで泣いていたかのようだ。
「あの日から、カリオンが死にそうな顔してんだ。ネリッタ居なくなって、苦しいのはお前だけじゃない」
苦しい心の内が声に露わになっている。やり場のない憤りが囁かれても、彼女の反発が変わる事は無い。目に見えそうな程の棘が、視線と言葉になって投げ掛けられる。
「……なに、カリオン『様』の為にアタシに我慢しろって? アイツが苦しんでんのはアイツの勝手だろ、アタシがアイツに恨み言でも言ってるか?」
「お前、どうしてそんなに可愛げ無ぇの。お前が追い打ちかけてんだよ」
「……はぁ? 追い打ちって何。アタシは何もしてない。ただ」
何もしていないから、問題なのだ。
カリオンだって憔悴している。自分の判断が人の命を奪った。御前試合で言われた言葉が、今になって現実のものになるなど誰も思っていなかっただろう。それで失われた命が隊長のひとりなのだから、カリオン一人の責とは言い辛いが。
彼女の声はそのまま言葉を紡いだ。
「ネリッタ隊長が、いないだけじゃないか」
その『だけ』が落とした暗い影は、国全体を包んでいる。
カリオンも、サジナイルも、彼女も、もしかしたら気付かないだけでディルにも。
底抜けに明るかったあの笑顔はもう亡いのだ。二度と戻って来ないから、彼女は陰に囚われたままだ。
二人の会話は平行線を辿っている。そろそろ空気を変える頃か、とディルが二人に近寄った。足音もさせないよう、ゆっくりと。
「……汝等、このような所で、床掃除かえ」
声は努めて優しくしたつもりだ。孤児院の子供達に話しかけるような、普段の声とは違う音に変える。しかしそれさえもサジナイルには違和感を覚えさせたようで、曇った表情がディルに向いた。
床に転がる雑巾はまだ動かない。手足を投げ出して、力無く倒れている。発したこの声だってディルのものだと気付いているだろうに、振り返りもしなかった。