ディル二十二歳―5
『彼女』が孤児になったのは、まだ彼女が少女と呼ばれる年の頃だったという。
ディルと似た境遇で戦災孤児となった彼女を引き取ったのは、城下で酒場を営んでいたダークエルフのエイス。何故それで仕官することになったのかは、その時ダーリャはディルに伝えなかった。
裏の顔を持つ酒場は騎士と同等、いやそれ以上の権力を持っている。
必要があれば書状ひとつで騎士を動かせ、エイスの指示には逆らえない。ただ、その存在を知られてはいけないので酒場の正体を知っている者は騎士勲章を持っている者だけだという。
一見すると人畜無害を装う酒場だが、これまで手を掛けて来た者は五百を超える。
それはエイスひとりだけの功績ではないというが。
「他のメンバーはもう寝ちゃってるから、御挨拶は控えさせてもらうよ。もうちょっと早い時間に来てくれたら顔見せも出来ると思うから、また後日だね」
また来いと言うエイスはやはり笑顔のままだ。人当たりの良さそうなこの顔が騎士よりも立場の上だと聞いても、ディルにはどこかピンと来ないものがある。
「……それで、私に聞かせたい話って何? 明日の営業に響かないくらいの話がいいな。あ、煙草吸っていい?」
「どうぞどうぞ」
エイスは一応の断りを入れるが、ネリッタの返事と同時くらいに紙巻の煙草に火をつけてしまった。
紫煙の舞う空気の中で、目を細めたエイスが煙を吐き出す。
「……はー。道楽でやってる店だけどね、疲れは溜まるんだ。私が煙草吸ってるのも、あの子には秘密にしておいてね」
「……あの、それでぇ、エイスさん。今回アタシらの用件ですけどぉ」
「はいはい」
「『月』に異動……させたい、って言われたんです。……この二人に」
ネリッタが用件を口にすると、エイスの煙草を持つ手が止まる。唇に触れさせた所で動かなくなった煙草が、灰の面積を広げていた。
「……ん?」
エイスが笑みを消した。
「あの子を? 異動?」
「はい」
「『花』から? どうして」
「……今、第二王女のお側付きの役職は、彼女に似つかわしくないからです」
返答したのはダーリャだ。
「似つかわしくない? どうして。元はといえ、あの子は孤児だ。それが王女の付き人になれるなら、あの子にとっては大出世だよ。女従の仕事でもない、騎士としての腕を買われている。私はそれを誇らしく思ってるけど――何、君達は違うの?」
「……いえ。彼女は王女とも良好な関係を築いていると聞いています。しかし、本来は『付き人』などという役職は存在しない。……必要な時に、『鳥』の者が側に控える事はありましたが、専任の者は今までいませんでした」
「そうだね。私が記憶している中でも、そんな役職は無いね。でも、それであの子が認められているならそれでいいじゃない」
「違う」
言葉を遮ったのはディルだった。
言葉を選びながらダーリャが話している所に割って入って、ネリッタが頭を抱えている。
「認められている訳では無い。第二王女付きの職務は閑職だ」
「……閑職?」
「付き人の職務が毎日必要とは思えない。あの者は今、王女の遊び相手と日中の様子見しか仕事が無い。其の上女従の仕事はそちらが行い、業務内容は非戦闘員以下だ。飼い殺されていると言ってもいい」
「……ふぅん」
「あの者は其れで終わるものでは無い。同じ目的を持つ人員を纏め上げる能力、味方が居らずとも立場が上の者に臆せず物を言える胆力、自らが恐ろしい目に遭いながらも他の者を気遣える気力。有効に生かさずに飼い殺されたまま潰えるには惜しい」
「………。あのさ、ディル君」
笑顔ではないエイスは、カウンターに両手を置いてディルへと顔を近付けた。指に挟んだ煙草が灰を落とす。
まっすぐにディルを見つめるエイスと、臆せず見返すディル。
隊長二人はその隣で、不穏な空気に慄いていた。
「どうしてそこまで、あの子の事を気に掛けてくれるんだい?」
「……」
「もしかして――付き合ってる?」
「は」
真剣な話が始まると思ったら――。
ディルは呆れたような声を漏らし、ネリッタは勢いよくカウンターに倒れ込み、ダーリャは天を仰いだ。
「あの子はちょっと粗雑だけど料理は私仕込みでそこそこ美味しいよ。子供好きだし根は優しいからいい奥さんになるよ。少し騙されやすくてお馬鹿な面もあるし時々ものすごくお節介だけどそれも慣れたら可愛いと思うんだけど、どう?」
「結婚願望は無い。今は職務に忙しい、間に合っている。話を逸らさないで貰おう」
「…………なぁんだ」
ディルの拒否とも取れる言葉に、目に見えて消沈したエイス。乱雑に手でカウンターに乗った灰を払うと、溜息を吐いて灰皿に煙草を押し付ける。
でもディルは、彼女について先程言われた言葉の半分は知っている。そしてそれを悪くないと、確かに感じていた。
「……聞きそびれたけどさぁ。私はネリッタ君を信頼してるからあの子を預けたんだよ? 別に私にお伺いを立てることなく話進めてくれても良かったんだけど」
「アタシ? アタシは……答えは最初から決まってますからぁ。でも保護者として、エイスさんも先に聞いておきたかったでしょぉ? あとからなんやかんや言われても困るしぃ」
「そっかー。私としては別にどっちでも良いって思うけど……あの子の気持ち次第な所もあるし。あの子が幸せになれるなら、異動になろうが閑職に就こうが騎士辞めようが何でもいいんだけどねぇ」
言い切ったエイスの言葉はいっそ清々しいもので、二本目の煙草に火をつけて燻ぶらせる仕草を男三人が黙って見ていた。
ダーリャもネリッタも、今は酒が進む雰囲気では無くて酒器自体を手にしない。ディルの茶さえ注がれたままの量だ。
「でもネリッタ君。君の答えが決まってるんなら聞かせて貰えない? 私が信じて君の所に送り出したあの子を、君はどう評価しているの?」
「アタシですか? 嫌だぁ、異動なんてさせませんよぉ」
ころころ笑いながら出した答えに、ディルは目を瞠る。
「あの子を飼い殺す事になっても?」
「……その点については、前以てお話させてもらった通りですわぁ。アタシは短絡的に異動させたからって、あの子が使われてくれるようになるなんて一切思ってませんわよぉ。やーっとここまで来たんですもの、今他隊に放流とか勿体無さ過ぎて死んでもイヤですわぁ」
「……異動させる心算も無いのに、我を此処まで連れて来たのか」
「心外ねぇ。アタシ達を言い負かせるくらいの根性があるなら異動させてもいいわよぉ」
ここに来て、ネリッタの笑みが唇に浮かぶ。茶化すような口調もそのままに、ダーリャさえも巻き込んで話は続いた。
「最初王女の付き人に異動させるって案を出したのは、確かにあの子を疎んじていた馬鹿者達よ。あの子が好き勝手やってると自分達の立場が危ないって思ったんでしょうねぇ。丁度王女付きの人員に空きが出来たから陛下通じて捻じ込んで、でも本当は一年の期限付きなの」
「期限? あの者は、いつ解かれるか分からぬ任と言っていたが」
「そこで腐るならあの子はそれまでって訳よ。わざわざ閑職って触れ回る馬鹿どもを放置してるのもそれが理由。見てなさい、今のあの子を閑職閑職馬鹿にしてる奴、あと三か月で居なくなるわ」
ネリッタは酒器を指でなぞった。外側についていた水滴を指に掬い取り、カウンターの木目に円を描く。
簡易的な国の地図だ。
「これまであの子と、あの子が纏め上げた連中……まぁ女の子が多いんだけど。女子特有の情報網もあって、それなりに隊内で抑止力になってたのよね。それがあの子がいなくなって、増長する輩が出て来てるのよ。最近目に余るからそいつらとそいつらの取り巻き、今度の異動で大部分を城下外に出すわ。丁度堅物が行き過ぎて融通が利かない類のはみ出し者達のいる砦に空きが出来たって聞いたから、無理言ってそこに押し込むつもりよ。これまで我が物顔でいられた奴等が規則と規律に縛られる苦悶にのたうち回るさまを見られないのはちょっと残念だけど」
「……」
「城下がココ。砦はこっち。近場に街も集落も無い。行ったら簡単に戻って来られない。二週間に一度輸送隊は行くけど、基本的には自給自足。性格矯正するには気の長い話よね、でも一番安全で、誰の心にも蟠りは残らない」
「蟠り?」
「『あの子に逆らうと、立場が危うくなる』。懲罰房に放り込むのは簡単だけど、そんな話が出るとあの子は今以上に浮いてしまう。……今回の馬鹿どもの異動は、あくまでも自業自得でなければならない。そうして目障りな害虫を掃除した『花』で、あの子は今度こそ邪魔されずに綺麗に咲くの。隊の符号の通りの大輪の花よ。腐らずに一年耐えたあの子がこれから先、アタシに見せてくれるものはさぞ美しいでしょう」
その時、ネリッタとディルの視線が合った。
いつもは茶化してばかりのネリッタが目を剥いている。ディルに向かって敵意を隠さない刃物のような視線。
「俺が此処まで苦心した大事なあの子を、取って行かれちゃ困るんだよ。あの子は『月』には絶対渡さない。それでも『花』からあの子を取るなら、俺を納得させられるだけの理由を持って来い」
「……」
素の表情で凄むネリッタは本気だった。本性を丸出しにして茶化す気も起きない程、彼女に対して本気だった。
彼女の何がネリッタをそうさせるのか、ディルには分からない。けれど、包み隠さないネリッタの本心に触れたのは幸いだった。
今のままディルが静観していても、事態はきっと好転する。
「あの者を、飼い殺す心算は無いと?」
「……飼い殺す訳が無ぇだろ。あんな面白い子、持ち腐れるなんて勿体無ぇ。お前ら『月』に行ったところで、保守的なダーリャが使いこなせる訳も無ぇだろうしな」
「あっはは」
煙草を咥えてぱちぱち手を叩くエイス。見せ物でも見ているような反応に、ネリッタとディルが同時に視線を向ける。
「妬けちゃうね、一応あの子は私が後見人なんだけど……。この上養子にしたいとか言わないでほしいな、ネリッタ君」
「いやぁん、出来るものなら最初からしておきたかったわぁ。……でも、アタシは過保護に育てちゃうからダーメ。エイスさんの所で育ったからあんなお転婆になれたんですよ」
「それ褒めてる?」
ネリッタがいつもの口調に戻ってから、やっとディルが茶に手を付けた。持ち上げた器から水滴が垂れる程冷えた中身を喉奥に流し込む。
もう、ディルの中で彼女を無理に異動させようという気も無かった。その旨を伝える為にも、未だ喉に冷えが残るうちにそう伝えておきたい。
粗暴な野薔薇のような彼女を大輪の薔薇と咲かせてくれるのは、ネリッタしかいないと信じて。
「……あの者が、『花』として咲くに相応しい場所があると言うのなら、我とて異動を無理強いしない」
「話が通じて助かるわぁ。じゃあ、この話はこの四人だけのものにして、オシマイ。エイスさん、お酒あと一杯お願いできます?」
「もう閉店時間だよ、ネリッタ君。……いいけど、今度あの子を連れて帰って来てほしいな? 最近あんまり寄ってくれなくてさ……」
話は終わり、と言われた酒場の空気は途端に和やかなものになる。エイスもネリッタも、それまで剥いていた牙を隠していた。
ディルは酒を飲まなかったが、ネリッタは更に一杯を要求して、それから帰路につく。
まだこの先も暫く他国を少し巻き込んだ悶着があるのだが――それはまた、別の話。