ディル二十二歳―3
「……あ。……ぁあ?」
「……」
ディルは暫くして、日が沈んだ時間に城内で業務をこなす『花』の彼女と再会した。一階の裏口、人があまり近寄らない場所だ。
暫く、というのもディルが副隊長に就任して二か月以上経っての事だ。同じ城に仕えているのに業務で行動する範囲に違いがあるから、これまで会えずにいたままだった。
会っていないのは二ヶ月だけだというのに、彼女の印象は大分変わったように見える。具体的に言うと、髪が少し短くなった。背中の半ばまで伸びていた髪が、肩を過ぎる辺りで切り揃えられている。これまでは結ばれていた髪の間から覗いていた半端に長い耳が、今日は銀糸に根元が隠れた。結ばれていない髪を見るのは初めてだ。
「ディ、ディル様」
「……」
「うわ、……お、お久し振りです。……副隊長に、就任なさったと聞きました。おめでとうございます」
「……ああ」
あの日のように頬を染めた彼女が一番に口にするのは、ディルへの祝いの言葉。
ディルは相槌だけでその言葉を受け入れた。二心無い言葉は不快感を感じさせることなく、耳に心地いい。
彼女は周辺を見渡して、急ぎの用事も無い事を改めて確認して、ディルの側に一歩寄る。
その一歩で詰められたはずの残りの距離が、何故か遠く感じる。
「……へへ。これでまた、ディル様の背中が遠くなっちゃった」
「――……」
「追い付けないなぁ。凄いなぁ、ディル様。副隊長になれるなんて、それだけの人なんだってのは分かってたけど……なんか、私なんかがこうして話してるのも畏れ多い気がして」
「……我は、今迄と何も変わらない。少しだけ年は重ねたが、汝と初めて顔を合わせた日のままだ」
「……分かってます。ですよね、ディル様は何も変わらない。……何も」
眉を下げて笑う彼女の声は、いつもの明るさを無くしていた。最初から、いつもの元気さも無かったように思う。
もう少し、単純に喜んでくれると考えていた。明るい声で、ディルに就任祝いを告げると思っていた。
なのに今の彼女は気落ちしているように見える。微笑みが暗い。
「私だけが」
その言葉の意味すら、ディルは分からない。
今までは気にも留めなかった他人の感情が、何故かこの女に関してだけは気になった。
「……汝だけが? 何だと言うのだ」
「何でもないです。……ああ、私もう行かないと。姫様と約束をしているので、遅れていく訳にはいきませんし……」
「待て」
去ろうとする彼女へ距離を詰め、身を翻す腕を掴んで引き留めた。
――触れた部分から直に感じた体温が、熱い。
「我は、言葉無くて他人の感情を推し量ることが出来ぬ。言いたい事があるのならば此の場で言え」
「……っ。そんな、の、ない、です」
「隠しおおせると考えているのか? 生憎、我は狭量ではないが冗長は好かん。言え」
振り向いた彼女との視線が重なり、初めて、その近距離で彼女の瞳の色を知った。
灰と茶を混ぜ込んだような、単色ではない複雑な色だ。今の彼女の心中も、きっと同じように感情が混ざっているのだろう。
揺らぐ瞳は、ディルを見据えたかと思えば僅かに逸らされた。
「私も、単純だから。……そんな事言われたら、誤解してしまいます」
「誤解? 何を」
「っ……だから、私は。……あなたを」
その灰茶の瞳が、自分を見ないことを許せなかった。
ディルの思考は彼女に独占されて、その顔を真正面から見たかった。
美しいと思う、彼女の顔を。
「……ディル様を、お慕いしています……。ずっと前から」
「……慕……?」
「だから、私は、……誤解なんてしたくない」
顔を赤く染めた彼女は、ディルを見ない。
慕ってるなんて、この上ない覚悟で言った事は普通の感性を持つ者ならば分かるものだ。
彼女にとっての『慕う』は、それ以上の特別な感情を孕んでいる。
それは世間一般で言う『恋』とか『愛』とか、異性として人に好意を抱く感情だったけれど。
「……そうか」
ディルは違った。
人の、どころか自分の感情にさえ疎かった。
「汝の誤解が何を指すのかは分からぬが、慕う程度の感情であれば其れまで拒否せずとも良いのではないか」
「……は?」
「我も、汝を厭いはせん。喧しいだけで然したる能力すら持たない有象無象と汝は違おう。隠す程の感情では無いと考えるが――」
目に見えて、彼女が不満そうな表情を浮かべる。眉が寄って眉間に皺が刻まれていた。
ぴくぴくと動く目尻は苛立ちを表しているが、ディルには心当たりが無い。
他の誰かがその光景を見ていたら驚くほどに鈍いディルの姿に、彼女さえも苛立っている。やや乱雑に手を振り解き、それまで握られていた腕の箇所を大事そうに引き寄せて擦る。
「……はいはい。そうですねー。貴方が隠す程じゃないってんならそうでしょうね。はー、悩んで損した」
「……? 理解出来ぬな」
「もーいいです。理解しないでくださいよ今更。私ひとり馬鹿みたい」
「……」
基本的に、彼女が馬鹿でなかったことなどディルの認識する所では無かったのだが――無いようで有るディルの第六感が戦場で感じる異変の時のように、それを口にするのは危険だと告げていた。
彼女は不機嫌だが声を荒げる事は無い。ディルを前にして見せる彼女の表情は、他の者達と違っている。
それに覚えている感情が『優越』だということを、ディルはまだ知らない。
「……いいんです、それで。理解しないで。この先も」
「何を、理解するなと?」
「それ言ったら意味ないじゃん!!」
顔を真っ赤にしてやっと声を荒げた彼女は、肩で息をしながら立場が上の者にする言葉遣いを後悔していた。
唇を引き結んで、目を逸らして。いつもみたいに馬鹿正直に悪態でも吐けばいいのに、ディルにはしない。
躊躇いが、逡巡が、彼女の齎す無言の時間が、何故か心地良い。他の者が無駄に持って行くディルの時間も、この心地良さがあれば厭いもしないだろうに。
「……失礼、しました。……でも、ディル様も、もう戻った方が良いですよ。フュンフに見つかったら、またお小言言われちゃいます」
無言の時間は、他の男の名を伴って終わった。
ディルの胸に過ったのは、知っている名前でありながら胸を針で指すような不快感。
今、他の誰かの名前を聞きたくなかった。
「フュンフに? 何故だ」
「前も言ったけど、ディル様に私が関わるのが嫌なんですって。……だから、もう」
「何故だ」
「え、だから」
二度目の何故は、語気を強めた。
「フュンフに言われたからと、我との関わりを無くすか? 我から逃げるか」
「逃げ、……ない、ですよ。でも、もうディル様も副隊長です。私みたいな奴に関わっても、得なんてないし」
「其れで? 我は立場と年齢以外何も変わっていない。我が誰と関わろうが不服を言われる謂れは無い。目先の損得で関わる相手を選ぶ性質だと認識されているなど不愉快だ、見くびるな」
「……ごめん、なさい」
フュンフも、誰も、関係ない。
彼女が彼女であるから。損得抜きに話しかけてくれたから。
だからディルは、彼女と過ごす時間が嫌いではない。確かにそう思っていた。
「……ディル様を御不快にさせるつもりは無い、……んです。でも、やだな。フュンフが言ってる事も、分かるし」
「あの者が汝に何を言っても、他の者にするように無視していれば良いであろ。我が聞くに堪えぬ発言ならば、我から咎める事も出来る」
「や、……その、それも、……やだな」
だからとディルが咎めると言うのはつまり、本人に想いを知られてしまうのと同意だった。
ディルが副隊長になったのに、未だに碌な仕事を任されない他隊の女が好意を以て近寄る。フュンフの嫌悪感はそこから来ている。
男女の仲などを信じないのがフュンフだが、何故フュンフがそう考えるようになったのかを二人とも知らない。知っていた所でディルは自分に無関係な話だと切って捨てただろう。
フュンフが口だけの仕事も出来ない者であれば、彼女だって反発した。それも出来ないのは、ディルが関わらない範囲の普段の彼女をフュンフも評価しているからで。
でもディル本人の口から気にしなくていいと言われるのは、気が楽になる。例え、その本人が彼女の胸に焦がれる苦しみを残しているのだとしても。
「……また、こうして話しても良いんですか。私が、ディル様に話しかけても、迷惑って思いませんか?」
「話の内容に因るが、概ね迷惑と思った事は無い」
概ね、の言葉に生温い笑みを浮かべて黙り込む彼女。これまでの中に『概ね』以外が含まれていることを感じ取ったらしく、笑みも微妙に引き攣っている。
彼女は既に自分の中にディルへの恋慕が生じている事に気が付いていて、これが離れる最後の機会だと分かっている。これで諦める言い訳も立たなくなれば、覚悟するしかない。
いつ終わるとも知れない、不毛な片恋を続ける事を。
「……迷惑じゃないなら、良かった」
想いを秘め続けることにすら忍耐力を持っていたのは彼女にとって幸か不幸か。
笑みを浮かべたまま首を振り、再びディルに視線を向けた時の彼女の瞳はもうわざと逸らされようとしなかった。
「でも、今日は本当に時間が無いから……。リト様だけじゃなくて、アールキリア姫にも呼ばれてるんです。行かなきゃってのは本当で、……すみませんが、これで」
「……ああ」
「また、近い内……って前も言いましたね。……今度は、私から……会いに行きます。こんな偶然じゃなくて、フュンフに嫌味言われても……だから、また、会ってくれますか?」
「………」
偶然ではない、と。
「ああ」
そう知ったら、彼女はどんな反応をしただろう。
「良かった」
ディルの方が『近い内』の言葉のままに過ぎた二ヶ月を耐えられなくなったのだと、安堵を浮かべる彼女は知らない。
彼女の姿が見えた気がして、誘われるように足が向いたのも。
髪を切った彼女の姿に衝撃を受けた事も。
一切のものに興味がないと評価を受けるディルだった。目の前の彼女ですらそう思っているのだろう。でも、本当は違う。
「じゃあ、ディル様」
彼女だけが、ディルの気を引ける。
それが感情というもので、名前があることも知らないけれど。
「また、今度。……ううん」
その感情は、『恋』という。
「また明日!」
「……ああ」
ひらりと手を振って離れていく彼女は、二度三度とディルを振り返る。
ディルは手を振ったりしなかったが、その背が曲がり角の向こうに消えるまで視線を離さなかった。
「………」
彼女がいなくなって、自分の掌を見るディル。彼女のように、あんなに自然と手を振れない。
広げた掌に僅かに汗が滲んでいて、それを夏だからという理由で乱雑に隊服で拭った。
彼女からの来訪予告にどうやって仕事を抜けるか、どうやってフュンフを黙らせるか。考える事は幾つかあって、明日の執務次第では全てフュンフに押し付けて抜け出す算段を立て始める。
――もし彼女がこの先も、閑職と呼ばれる第二王女仕えになったままなら。
算段の途中に、ディルの思考に別の考えが混ざる。
――彼女を『花』から引き抜いて、『月』所属にするのも悪くないかも知れない。
彼女が『月』の隊服を纏い、ディルの側で執務の補助に付く姿を一瞬だけ夢想した。
実物を知らない妄想の類が不得手なディルだが、脳内に現れた彼女の姿を悪くないと思う。
そうすれば、今よりも彼女との時間が増える。いちいち彼女を探したり、約束をしたりする必要さえ無い。
腐らせるには惜しい人物だ。だから、必要があれば引き抜こうと決めた。
自覚している考えはそれだけで、自分の中に他の感情があるなどと、この時のディルは気付きもしなかった。