ディル二十二歳―2
たった一晩が長く感じられた。
朝日が昇れば、次の『月』副隊長が発表されてしまう。
既に決まった者の名が呼ばれるだけだというのに、ディルの睡魔は遠のいていた。
フュンフが副隊長になる事に、ディルには何の異論もない。
けれど『花』の彼女から言われた言葉が、繰り返し耳に蘇る。
――ディル様は絶対良い副隊長になるって信じてるけどなぁ。
彼女はディルの何を知っているのだろう。
これまでのディルの普段の姿を知る者で、そう思っている者は少ない筈だった。
無気力、言われた事しかこなさない、人との関わりを持ちたがらない。
煩わしい事すべてを拒否してきたディルだ。今でも副隊長の職は面倒事だとしか感じていない。
何事にも意欲的になるなんて出来なくて、求心力もあるとは言えない。彼女から言われた言葉すら、普段であれば戯けた事をと無視していただろうに。
普段であれば。
違う。
彼女から言われたからこそ、こうして耳に残っているのだ。
「時が流れるのは早いものです。こうして副隊長就任式を無事に迎えられる事へ、神に感謝を捧げます」
朝日が昇っても、ディルの元へ睡魔は訪れるのを忘れたようだ。
一睡も出来ないままに、副隊長就任式の時間が来た。就任式は指名の直後に、段取りを追って開始される。
『月』隊幹部が集まった専用の一室には総勢五十名の神官騎士が居た。いくら選ばれなかったとはいえ、ディルの参列も強制だ。皆、それぞれが列を組んで立ったまま隊長の言葉を待っている。
窓幕の色は重苦しい黒。まるで、ディルの心をそのまま表しているようだった。
「……」
ディルは無言のまま、次期副隊長として指名される筈のフュンフを横目で見た。
ディルより一回り以上年上の彼は、涼しい顔をして列席している。ダーリャの言葉に頭を垂れた時、背中に三つ編みで纏めた髪の後れ毛が前へと流れた。
今までは、ディルに恩義を感じていたフュンフが敬語を使ってきていた。
今日からは、その敬語も無くなるだろう。立場を考えれば無くさなければならないものだ。
副隊長が、特定の部下に敬語を使ってはいけない。隊内の風紀を守る不文律のようなものだった。
敬語が無くなろうとどうでもいい。フュンフが側に来なくなっても特段気にしない。
唯一ディルが気にするのは、『花』の彼女の口から聞いたあの言葉だけ。
――ディル様が副隊長候補に選ばれたって聞いて、私、凄く嬉しかったんです。
彼女には何も関係が無いであろう事象に、『嬉しい』と。
自分でさえ興味が無かったディル自身にそう言って、面と向かって伝えて来た。
他の者がそうして来たなら不愉快に感じたかも知れないが、彼女にはそうではない。
今まで感じた事の無い感覚が分からないことに、ディルの睡眠を遮った。
「――では、副隊長を指名する」
ダーリャの声は静謐な空間に溶け、窓幕さえもがその音を聞き届けたかのようだった。
他者の息を飲む音が聞こえる程に、静まり返る室内。
ディルはその瞬間を、重苦しい気分で待っていた。
ダーリャの手にあった『月』隊が儀式に使う錫杖が、音を立てて床を突く。
「……フュンフ・ツェーン。前へ」
「………。はっ」
どよめきはフュンフが選ばれた事を知らない者の口から漏れた。
最後の最後まで、ディルとフュンフのどちらかを副隊長にするかをダーリャは迷っていた。
情か、能力か。どちらを選ぶべきかは明らかなのに、悩み続ける程に。
フュンフが、ダーリャの前に出る。
足音が止んだ。
「私なりに、厳正な審査を行ったつもりです。候補として指名した五人は、誰もが副隊長として相応しい能力と功績を上げていました。その中でも、私は……フュンフ、貴方に副隊長として私の補佐をして欲しいと思いました」
「……」
「本日集まっていただいた皆さんは、異を唱える事も可能です。我こそは、と声を上げる事で再考の余地もある。私が選んだフュンフより、副隊長として自分が相応しいとお考えの方は名乗り出てください」
ダーリャの言葉に、誰も発言しない。
フュンフ以上の執務能力を持ち合わせている者など居ないのだ。本人の資質もあるが、貴族として生まれて来た彼には生まれ持った血統も、受けて来た教育も、誰も敵う筈がない。
ディルは同じ室内にいながら、二人の姿を遠い世界のように眺めていた。
「……宜しい。誰も声を上げないのなら、今からの発言は無用に願います」
暫くの時間をダーリャは待ったが、誰も声を上げなかった。
他の者の発言権が無くなる。同時、ダーリャはフュンフだけを視界に収める。
「フュンフ・ツェーン。副隊長の任を、受けてくださいますね?」
心から、は無理でも、口先だけではディルは副隊長就任を祝うつもりでいた。
これからディルを使える者のひとりとして、フュンフの存在がある。今までディルに自主的に付き従っていた男から受ける命令でも、理不尽なものでないなら二つ返事で請け負おうとも。
『花』の彼女が信じてくれた副隊長になれなくても、寄せてくれた信頼に値する者になる為に。
ダーリャの任命の言葉から、三秒が経過した。
フュンフの返答は。
「――お言葉ですが、今の私には少々荷が重いと存じます」
今度は、誰の口からもどよめきが上がった。
承諾の言葉を待っていたダーリャに至っては、見開いた目のせいで瞳が点のようになっている。
「確かに私は内政関連の執務に於いて、誰にも引けを取らぬほどの能力を有している自負があります。先代副隊長より引き継いだ執務は、私であれば滞りなく済ませられる。しかし、副隊長に求められる資質はそれだけで良いのでしょうか?」
「は。……と、言いますと……?」
「極端な話、執務など机上で済むものはそれなりの能力を有する数名に割り振れば問題なく終わるのです。ですが、私では……いえ、他の者でも持ちえない能力がある。並みの男でも恐怖で逃げ出したくなる戦場で、たった一人で武器を振るい勇敢に敵陣に向かって行く強さと、それによる戦果」
その場にいた誰もが、ディルへと顔を向けた。
向けられた側は、どうしてフュンフが今更になってそう言い出したのか理解出来ない顔をしている。
「ダーリャ様。私を副隊長に指名していただき、感謝申し上げます。しかし、私は私の命を救ってくださったディル様を差し置いて、副隊長になれません」
「……。まさか、最後の最後で貴方がこんな手段に出るなんて思いませんでした」
ダーリャが苦笑と共に漏らした言葉は、ディルだって言いたかった。
フュンフは見越していたのだ。前以て辞退の意思をディルに告げると、ディルはそれすら拒んでこの儀式に出席しなくなるかも知れないことを。
そして衆目がある今になって、就任辞退の意思を伝える。
同時に自分は誰が副隊長に相応しいと思っているかを、隠すことなく伝える事で。
「私は、次期副隊長にはディル様が相応しいと考えます。利益のみを求めず高潔で、誰の追随を許さぬ程に強く、ダーリャ様からの信頼も厚い」
ディルはもう、逃げられない。
「……謀ったな、フュンフ」
ぽつりと漏らしたディルの呟きは、静まり返る室内でフュンフの耳に届いた。
俯き気味に視線を寄越すフュンフは笑みを湛えている。
「本来副隊長が受け持つ書類仕事は私にお任せください。あれは誰に任せるよりも、私が捌いた方が効率がいい。そうなる為に、私はこの一年間努力した」
「……副隊長の資質には『努力』も相応しいと、我は思うが」
「ディル様からお褒め頂けるとは、光栄です。ですがディル様、これから貴方が副隊長として務める為には、貴方にも相応の努力はして頂きます」
「……」
昨日までのディルだったら、フュンフに倣って「辞退する」とでも言っていたかも知れない。
けれどダーリャもフュンフも、その言葉がディルの口から最初に出てこなかったのを聞いて確信した。
ディルは、任を受ける。
「……ああ、もう。仕方ありません。ディル、此方へ」
「……」
仕方ない、で呼び出されたディルの表情は不服そのものだが、足はダーリャの側へと向かう。
フュンフの隣に並ぶ形になり、膝を付く。
「予定は少し狂いましたが、私としてはどちらも副隊長に相応しいと思っています。二名指名できるものなら、二人ともしてしまいたい程に」
予定とはだいぶ崩れてしまった任命式で、少しでも場を和ませようとしたダーリャの冗談は誰の笑いを誘うことなく、室内を漂って消えた。
気まずいのは注目を浴びているディルとダーリャだ。横目で見たフュンフの表情は、大仕事をやり遂げた後のように満足げに微笑んでいた。
「……ディル。貴方は副隊長の任を、受けてくださいますか? ……一度フュンフに袖にされていますので、断らずにいただけたら有難いのですが」
悲壮混じる言葉に、どこかの列で噴き出す声が聞こえた。誰かが笑えたらしいダーリャの冗談の続きで、ディルが膝を付く。
「……。ディル、有難くその任を拝命する」
同時、その場に集まった全員がダーリャに向けて膝を付いた。全会一致での賛成だ。
ディルは、少人数でも反対が出るものだと思っていた。今までの不遜な態度に苛立っていた者だって居た筈だ。
けれどその場にいた者は、全員がディルの副隊長就任を賛成している。
昨日まで、なりたいとは露とも思っていなかった役職だ。
けれど今日は違う。
信頼に背くような事はしたくない。
「ええ。これからも、切れない付き合いになりますね……ディル」
「……ああ」
儀式も伝達も、それからは問題なく進んだ。
副隊長になったからといって、ディルの執務が劇的に増える訳では無い。フュンフが執務の大多数を掻っ攫い、ディルを飛ばして直接ダーリャに回す手筈になってしまった。
ダーリャは「良い部下に慕われたものですな」と苦笑するが、その実フュンフはダーリャの退任後に隊長となるディルの副隊長になろうとする魂胆が見え見えだ。
何事も、恙なく。
『月』隊はその符号の通りに、決まった満ち欠けを繰り返す空に浮かぶ月のようだ。
いつも変わらず落ち着き払って、大声で喚き乱れるなどあってはならない。
新しく副隊長に就任したディルは、その見目麗しさと相俟ってその符号が相応しい姿をしている。
これから先も、ディルの精神を乱す者など現れないのではないか。
だって、ディルは『月』でもあるが、本質はまるで『人形』のようだから。
ディルの居ない所で囁かれるその陰口は、これから先も暫く消える事はないけれど。