ディル二十二歳―1
新しい『月』副隊長を選ぶのに、隊長ダーリャは一年以上の時間を費やした。
先代副隊長は既に解任している。先んじて選抜した五人に、それぞれ先代副隊長が請け負っていた執務をそれぞれ割り振り、適性を見極める。
最初居た候補はひと月ごとに四人になり、三人になり、二人になる。
ダーリャなりの選抜基準で選び抜かれたのは、最終的にはディルで無かった。
「……」
そして先代副隊長の仕事の引継ぎの全てが一人に集約された日の夕暮れ、ディルは中庭に居た。
明日、『月』隊幹部の前で副隊長の発表があると決まっている。そこでダーリャが名前を呼ぶのはフュンフだ。
今はフュンフが副隊長の仕事をすべてこなしている。元から有能な人物だったので、執務を行う能力も血筋としても申し分ない。
次の副隊長が誰になろうが、それが自分でなければディルはどうでも良かった。
けれどディル以外の者は、そうではなかった。
「あっ」
中庭の長椅子に腰掛けていると、待ち人は少し遅れてやってきた。
待ち人とは言っても、ディルが呼び出された側だ。息を切らして走って来る彼女は、一纏めにした濃い銀色の髪も乱してディルの近くまで来た。
「すみません、待たせてしまったみたい」
「……いや」
「へへ。いやー、明日が『月』副隊長の公表日って聞いて、落ち着いていられなくって」
『花』隊所属の彼女の姿は騎士にのみ許された制服、その胸元に光るのは騎士勲章だった、先日叙勲した彼女は、騎士という立場だけで言うとディルと同等。
立場が同じであれば敬語など無くしてもいいのだが、彼女は今でもそのままだ。座らずに立ったまま話を続ける彼女の頬は、少し赤らんで緩んでいる。
「……凄いなぁ、ディル様」
「何がだ?」
「私、やっと必死の思いで騎士になれたって思ったのに……ディル様はもう、次期副隊長候補に選ばれた。騎士団上位八名のうちの一人ですよ、凄い事じゃないですか」
「……我は、人の上に立つに値しない」
「そんな事ない」
自虐に向けられる夕日に照らされた彼女の笑顔は、一瞬目を瞠る程に美しかった。
「私、今でも貴方に助けられたって思ってますから。でも私には目標にしたい人がいっぱいいるんですよ。ディル様に、ネリッタ隊長に、ルノーツ副隊長や、あとはうちの中隊長の皆とか。ああ、露骨に喧嘩吹っ掛けてくる奴とかは嫌ですけどね」
「……」
「……ほ、ほら。ディル様とか、自分が何か言われても我慢してるでしょ。私は直ぐにキレ散らかしていっつも大変な事になるから……我慢できるの、凄いなぁって思って」
「我慢ではない。我は我に向けられた嘲りにすら興味が無いだけだ」
美しい笑顔は、ディルの言葉で曇った。
何故だか、その瞬間に胸の奥に何かが触れて行ったような奇妙な嫌悪感を覚える。
言葉を詰まらせた彼女に、長椅子の隣を指で示した。彼女は少し狼狽えながらも、顔を更に赤く染めて腰を下ろす。
「言いたい者には好きに言わせておけばいい。相手にしなければ何れ飽きよう」
「……飽きます、かね。飽きてくれるんですかね。私、今でも言われ続けてますよ」
「数は減っておろう。汝が挙げた手柄に反比例するようにな。能の無い口だけの者は、黙らざるを得なくなる」
「……強いなぁ」
二人の間で交わされる話は、まだ続いている。
不思議だった。これまでディルは、誰かの実の無い話に付き合う気は無かった。フュンフでも、ダーリャでも、ある程度の話が済めば相手を無視してでも会話を終わらせている。こうして、他愛のない話しか無いと分かりきった呼び出しに付き合うなんて事も無い。
しかし相手がこの女限定では、こういった呼び出しに応じるのも初めてでは無かった。
「……明日、どっちが選ばれるんです?」
彼女の話が急に本題へと向かう。
彼女はディルを見ず、ディルは彼女の横顔を見ていた。
「秘匿事項だ。……他に漏らされても困る」
「漏らしませんよ。そんな不義理、私は嫌いです」
「……フュンフだ。あの者なら、不足なく副隊長として勤め上げよう」
「………そっか、フュンフかぁ。……アイツ私の事鬱陶しく思ってるみたいだからなぁ……」
フュンフには敬語を使わない、その言葉選びにディルの胸が再び疼く。
立場として、今はディルもフュンフも同じだ。なのに、彼女の中で何が違うのか。
「フュンフは汝の職務態度を、私情を交えず公正に評価している。何故そう思った?」
「え、だってそれは私が、……」
夕日に照らされていても分かる程赤い彼女の頬。
熱を持っているのかとさえ思わせる色と、潤んだ瞳。
ちらりと視線を向けた彼女と目が合った。
「……な、んでも……ないです」
何でもない、とは言えない顔だった。
「汝等の仲が如何に拗れようが知らぬが、職務に私情を交える事は褒められたものではない、のだろう。騎士団の士気に関わるような真似はせぬ事だな」
「……違いますぅー、勝手にあっちが私を嫌ってるだけですぅー……。ま、教育部屋に行ったような女が目障りなのは分かるから別に良いんですけど」
「……」
「こないだ、ついに二回目の教育部屋まであと二回になりました。流石に二回目ともなると騎士勲章も剥奪になるかもなーって思って、暫くは大人しくしてます」
教育部屋。
城内で問題行動を起こした者が数日間の期限付きで収容される懲罰房と別の物で、懲罰房に入れられるのが五回目となる者が収容される場所だ。
中で行われるのは教育とは名ばかりの、拷問のような行為ばかり。あまりの仕打ちに、収容された者は城仕えを辞めるとまで言われていたが――今ディルの側に居るこの女は、その拷問を受けても騎士として叙勲し、まだ城に居る。
しかし彼女の問題行動というのは、自ら起こそうとしているものばかりではない。
大抵が嫌がらせや非道な仕打ちに対する逆襲で、それが行き過ぎてしまったからといっても原因を作っているのは彼女ではない。
理不尽な仕打ちでも、彼女は耐えようとしている。それがどれだけ苦痛に塗れた道でも、彼女の心を折るには至らない。
「……今回、御呼出ししたのは……私、明日から配属がちょっと変わっちゃうからなんですよ」
「変わる――? 『花』で無くなるのか?」
「んん、『花』のままではいるんですけど……。暫くの間、第二王女のお側に仕えることになったんです。だから、暫くの間はこうして顔を合わせるのも難しいかなって思って」
第二王女。現王妃の娘、アールリト・R・アルセン。
末妹になる姫の側仕えが居なくなるという話は聞いていた。その後釜に、彼女が選ばれるなんて思っていなかった。
アールリト王女の立場は不安定なものだった。現王妃の娘ということで次期国王候補の一人であるが、最有力候補の異母兄アールヴァリンの立場がそれを許さない。大人の汚い権力争いに巻き込まれた姫の側仕えなど、閑職と言っても差し支えない。
選ばれる筈の無い無垢な次期国王候補と。
思い通りにならない跳ねっ返りの女騎士と。
邪魔者同士を排除するような人事に、ディルの理由の分からない不快感が更に増した。いっそ、そんなふざけた指示を出した者を消し去ってしまいたい。
「だから、もし。ディル様が、明日副隊長に任命されるって知ることが出来たなら……先に、お祝いをどうしても言いたかったんです。フュンフが副隊長になるってんなら、ディル様には無駄な時間を使わせてしまったけれど」
「……ふん。汝が気にする事では無い」
「でも、嬉しかったぁ……。ディル様が待っててくれて、こうしてお話出来て。待たせ過ぎたら帰られてるかも、そうじゃなくても、来てないかもって……不安だったんです」
彼女は立ち上がる。
他の者に対してだったら、いつでもディルの方が先に席を離れるのに。
けれど彼女は何かを思い立ったように、そのまま帰って行くなんてことはしなかった。
「……私、今回の異動が決まるまで……ディル様に言おうと思ってた事があったんですけど、止めときます」
「――?」
「言って駄目だったら明日から仕事出来そうに無いし。……代わりにひとつだけ」
それはまるで、今生の別れのような雰囲気で。
「私、貴方に救われた日から、貴方の背中をずっと見てました。追いつきたくて、……でも出来なかった。ディル様が副隊長候補に選ばれたって聞いて、私、凄く嬉しかったんです」
目を見開いたディルの視線の先に、花開いたような笑顔の彼女が居た。
頬が赤くて、笑みで伏せた瞼の奥の瞳は潤んでいて、小さな唇は、満足そうな弧を描いていて。
そのどれもが美しいと、ディルは本心から思った。
「……あーあ。ディル様は絶対良い副隊長になるって信じてるけどなぁ。ダーリャ様も、そのうち後悔したりして」
「………」
「それじゃ、私……もう行きますね。今日はお時間取っていただいて、ありがとうございました。また、そう遠くない内にお会い出来たら……私は、とっても、嬉しいです」
背を向けた彼女に、無意識のうちに手を伸ばしかけて自分で驚いた。
遠くなる背中に指を掛けて、自分が一体彼女に何をしたかったのかも分からない。
勤めるのは同じ城だ。もう会えなくなる訳では無い。その顔が見られる運のいい日もあるだろう――と、ディルは考えて、自分の事なのに理解が出来なかった。
彼女の顔を見られるのは『運のいい』事なのか、と。
何故そう考えたのか分からずに動けなくなる。
彼女の言葉が過去形になっていたことで、もう会えない気さえした。
彼女がディルに抱いた希望道理に、再び副隊長候補として選出されるまで、どのくらい掛かるか分からない。フュンフが隊長になった未来で、これまでの縁を頼りに副隊長に据えろと言うしか方法が無いかもしれない。ダーリャはこれから何年隊長でいるだろう。その間、彼女に会えないのかも知れない。
「……?」
どうでも良かった筈の副隊長の地位が、今更手放してはいけなかったもののように感じた。
彼女が抱いていた副隊長の姿にはなれないかも知れないけれど、ディルを慕う者は確かに居た。例え他隊の騎士でも、胸を張って日々を過ごす清廉な者からの言葉だ。
彼女の言葉は裏切ってはいけないもののような気がする。裏切られ嘲られている彼女が、それでも純粋な言葉を投げてくれているうちは。
「……」
ディルは頭を抱えるように、俯いて額に手を当てた。
今まで知らなかった何かしらの胸の不快感が、彼女の顔を思い出すと同時に湧き上がるのを強く感じたからだ。
その感情に名前があることを、ディルはまだ知らない。