ディル二十歳
国内情勢が、戦争が停戦となってから穏やかに回復に向かっていたある日の事。
その日は、ディルが二十歳になってから迎えた初夏の話だった。
「ディル、少し時間を……宜しいですかな?」
普段通りに城下孤児院の視察や手伝い等の雑務を終わらせたディルが、城内廊下で呼び止められる。
時間は退勤間際の夕方だ。早朝から割り振られた仕事をこなせば、残って別の仕事を言い渡されることなどディルには無かった。
「……何だ」
「少し話があるのですよ。既に、今日の業務は終わっているのでしょう?」
金髪を後ろに撫でつけ、口許には髪と同じ色の髭を蓄えている壮年の神父。
呼び止めたその人物こそ、ディルが所属している王国騎士団『月』隊の隊長ダーリャだった。
孤児となった自分を引き取った後見人でもあるから、ダーリャの誘いには否と言えない。
用が済めばすぐ隊舎の自室に戻ろうと心に決めて、話に応じた。
ダーリャが人を呼び出す時は、いつも決まって隊長執務室に招く。
中に用意されている来客用のソファに腰を落ち着けたディルは、相手が隊長にも関わらず不遜に足を組んだ。
いつもの事なので、ダーリャも苦笑するだけで紅茶をカップに注いでテーブルまで運び自分も腰掛ける。紅茶は日に数度交換される、部屋備え付けのものの一つだ。気温が高くなっている今、用意されている紅茶は冷たい。
「……?」
ディルは、その時に普段と違う室内の様子に気付いた。
ダーリャが自ら紅茶を注ぐなど有り得ない。隊長職に就いている者は、極端な話紅茶を注ぐためだけに人員を用意する事も出来る。
基本的には副隊長がその役を担うこともあるのだが、今日はその副隊長の姿が見えなかった。
「……紅茶係が居ないようだが?」
「紅茶係など、不名誉な呼び方は止めなさいと言ったでしょう。……尤も、もう彼は紅茶係も出来そうにありませんが」
出された紅茶に口を付けるディルは、紅茶の味どころか香りも分からない。判別できないという訳でなく、興味がないという意味合いで。
人員整理でもしたか、と内心で思う程度には、ディルは現在の副隊長を気に入っていなかった。口だけ達者、戦場では裏方に引き籠っているだけの臆病者だからだ。
「先の戦争で、彼が傷を負ったのはご存知でしたかな」
「……ああ。攻撃の届かない後方で悠長に構えていたら急襲された話であろ? 戦場である以上安全な場所は無いというのに」
「手厳しいばかりでは、人は付いてきませんよ。ディル」
人の甘い所を煮詰めて人型に押し出したようなダーリャに言われても困る。
現副隊長は、ダーリャに取り入ってその座を手にしたような人物だ。強くも無く事務処理能力も低い癖に、口に上らせる言葉だけは綺麗。人を見る目が無い現隊長が選んだ人物だからさもありなん、という所だ。
ディルを引き取り後見人になったように。
「彼は、最近その傷が思わしくない様子でしてな。今はその怪我を理由に静養しているのですが、治る見込みは低いと言われています。かと言って、今直ぐ副隊長の任を解くにしても後任が決まっていません」
「……後任など、挙手制にすれば掃いて捨てる程出て来よう」
「挙手してくれる以外の者が、副隊長に相応しい場合もありますから」
そんなものか、と半ば納得しかけてディルが紅茶のカップを下ろす。
これから人事がどうなろうとどうでも良かった。ディルは『月』隊の仕組みから押し出された特別枠だ。それを贔屓と呼ぶ者は先の戦争の時のディルを知らない者で、知っている者は見て見ぬ振りをしてやり過ごす。
――『花』の彼女でもあるまいし、ディルが何かを言われたところでやり返したりしないというのに。
「次に私を支えてくれる副隊長は、前任よりも口数が少なくて滞りなく仕事が出来る人物が良いですね。出来れば人間関係も円滑になるよう努力してくれると有難い。それで、私より若いと長く勤めてくれそうです」
「ふん。精々希望に沿った後任が汝の思い通りに働く事を神に祈っておこう。聞き届けられるかも知らぬがな」
「……」
特に別の感情もなく、ただ淡々と言い切っただけだ。
それなのにダーリャは、無言でディルを見る。
視線は普段見せる穏やかなものでなく、どこかディルを値踏みするような。
意味ありげな視線に気付かない振りをして、再びカップを手に取る。中の紅茶は既に半分無い。
「ディル」
ダーリャの口がこれ以上、聞きたくない事を話さないうちに隊舎に戻りたかった。
もう、叶いそうにない。
「私が考える候補の中には貴方も居るのですよ?」
「……」
聞きたくないのは面倒臭い、自分の器ではない、他に適任が居る、そのどれもだ。
他隊の副隊長と自分を照らし合わせてみても、ディルに出来ない事の方が遥かに多い。これ以上、何かしらの役職を負わされることは御免被る。
けれど、ダーリャはそんなディルの心情を知らない振りで話を続ける。
「……候補は五人います。皆少々実力不足ですが、経験が足りないからです。副隊長になれば嫌でも経験は付いてくる。それぞれ難はあれど小隊長以上の役職を持っています、人を率いる能力はこれから重点的に育てればいい」
「……小隊長、以上……か」
「隊員がたったひとりとはいえ、その点は貴方も他の者と遜色は無い。それにもし、貴方が私の副隊長になった場合は私が貴方の足りない部分を補います。本来、隊長と副隊長というのはそういった関係性の筈です」
「我に誰かが付き従うとは考えにくいが」
「……その点、私はどうやら人に甘いらしい。貴方は恐れられる立場です、そちらの方が隊が引き締まるとは考えられませんか。そもそも『月』が担う神職としての役割は、親しみより畏怖が強い方が良い面もあるでしょう」
「下らぬ」
ディルが放った一言は、ダーリャの口を閉ざさせた。
誰かを従えるなど、ディルには荷が重い。勝手に付いてくる者は気の済むようにさせているが、反発する者さえ従えろ、なんてディルのやりたい事では無い。
ただディル自身、何をやりたいかなんて考えも一切無いが。
「候補が他に居るのなら、其の者を副隊長に据えるが良い。畏怖で誰かを従えさせようなどと考えない事だ、其の考えは遠くない内に破綻しよう」
「……はぁ……。貴方も私の悩みの種ですね。私は、貴方を心配しているのですよ? いつか私は隊長の座を退く時、私以外の誰かに大人しく使われると思えないので」
「先の話など分かるまい。我も、汝が隊長で無くなる時には騎士の位など返上する」
「貴方が騎士以外に働き口があるのなら私もこんな心配はしてませんよ」
ダーリャの小言はいつものことで、話の向きが変わってからディルが眉間に皺を寄せた。
「貴方は料理も出来ないし、他の家事も一通り壊滅的でしょう。それなのに給金も無いとなったら私は貴方を置いて何処にも行けません。貴方を伴侶として迎えてくれる誰かが現れてくれるのを待つにも私には時間が足りなさすぎる」
「我は結婚などしない。願望が無い」
「また貴方はそんな事を。出来ればお相手は女性が良いですけれど貴方のこの先を考えたら性別なんてどちらでもいいです。とにかく、貴方がどうにかこの先も生きていける方法を考えたらですね」
また始まった。
ダーリャが人に甘いのは周知の事実だが、ディルが相手になると更に酷くなる。
引き取った孤児がそんなに哀れだったのか、好き好んで世話を焼きたがり、果ては私生活まで口を出す。
まだ続く小言を聞き流しつつ、ディルがカップを置いた。もう中身は空だ。小言に切り返す言葉を、ディルはあまり知らない。
「我の世話を焼くくらいならば汝が伴侶を見つけて子を儲けた方が生産的ではないかえ」
「私は結婚出来ませんよ。愛した相手をこの手で殺してしまいましたから」
聞きたくない小言を返した、筈だった。
なのにその言葉は、ディルの言葉を封じた。
ダーリャは優雅にカップを傾け、微笑を湛えたままで続きを語る。
「その点で言うと、私に生産性などこれっぽっちもありませんな。はっはっは」
「………」
胸の底の悲しみを押し殺すために明るい振りをしているのだと、その時のディルには分からない。
何故笑っているのか分からなくて、奇妙に思えた。
「だから私は貴方に望んでしまうのですよ。私が叶えられなかった『幸せ』を、貴方には叶えて貰いたい。恋い慕う相手と結ばれてほしい。だから貴方には、そんな相手が見つかるまで他者との交流を断ってほしくない。貴方が他者の交流を保つためには、この騎士団は最適だと思っているのです」
最適、だなんて。
国の威信に影響がある、騎士団『月』隊の副隊長にディルを据える理由としては浅かった。
その席に、どれだけの者が憧れているかダーリャだって知っている筈だ。
私情で副隊長を決めようなど、絶対に間違っていると言える。
「……ただ一人の未来を汝が思うままにするために、隊の方針に押し付けるのかえ」
「戦果だけで言うのなら、貴方以上の適任が居ないのも本当ですよ」
確かにディルも戦果なら、同じ隊に所属する近い年齢の誰よりも高い自負はある。
ただ戦果だけで副隊長の任が務まる訳も無い。
――もし、副隊長に相応しい者が居るとしたなら。
逆境にも屈せずに、悪を悪と言い切って、人を纏めて徒党を組んで、責任は自らにあると言い切ったあの女のような。
「……?」
「どうしました、ディル」
「……いや」
ふと脳裏に浮かんだのが『花』に所属する知り合いの姿で、ディルが思わず瞬いた。こんな時に想像出来るのがあの女とは、知り合いの数の少なさに自分で呆れるばかり。
彼女を副隊長の理想の姿として挙げたところで、彼女と同じ真似がディルに出来る訳も無い。自分とは正反対な性格を思い出して、いよいよ本当に自分は副隊長に不適格だと痛感する。
「……少し疲れておいでのようですね。この話はまた今度にしましょうか」
「ふん」
「そういえば、ディル」
終わった話を蒸し返されそうな気がして、席を立ったディルは不機嫌な表情を隠さずに振り向いた。
「貴方、結婚する気は無いと言い切ってましたが……好い仲になりそうな人もいないのですか?」
「……は?」
「少し打診を受けてましてね。お見合いしませんか。二十歳になったことですし、縁談のひとつくらいあっても良いと思いまして」
「しない。時間の無駄だ」
一言で素気無く断ったディルは、それ以上話が続かないうちに隊長執務室を後にする。
ダーリャがディルに持ち掛けた見合いの話はそれが最初で最後だった。
「……彼女でしたら、もしかすると貴方も……と思いましたが、話を聞いて貰わない事にはどうしようもありませんね」
苦笑いするダーリャは、こっそり胸元に仕込んでいた四つ折りの紙――釣り書きにもならない略歴一覧――を服の上から軽く二回叩く。
ダーリャがディルの潔白を嘆いた時に、同期が「あぁらぁ、こっちに良い子いるわよ。明日には身の上とか書き出して渡せると思うけど」と押し付けて来たものだ。
それがその『良い子』の許可があって渡されたものかは不明だが。
「……五番街酒場『J'A DORE』店主の養女……、『花』隊所属、二十三歳……。彼女が巻き起こした破天荒な事件の数々。ディルとは、少し毛色が違う問題児ですが……まぁ、男女の仲なんてものは知り合わないと始まりませんし」
この時のダーリャは、二人が既に知り合ってるなどと露ほども思っていなかった。
そして、ディルがその紙片に書かれている名前までを既に覚えているなどと。
「……惜しいですねぇ。ディルと仲良くしていただけそうだと思っただけに」
その紙片は、片付けられたまま二度と日の目を見る事は無かった。
無くても、二人の関係は――。