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ディル十七歳ー1



 昔から、聞きたかった言葉はひとつだったように思う。

 小さな彼女の、小さな唇から『好きだ』ともっと早くに聞けていたら。


 自分から言い出す気が無かった訳では無い。

 抱いていた感情に名前があると知っていたら、伝えていたかも知れない。

 もしくは彼女が、自分から想いを伝えてそれで満足そうにしていなかったら。


 それがもし、戦場で互い顔を合わせた後ででも。

 まだ、彼女の一人称が『私』だった頃でも。


 もっと早くに聞けていたら。

 言えていたら。




「ぅあ」

「………」


 それはディルが十七歳で春を迎えた時の話だ。

 雪も少ないながらアルセンの長い冬が終わり、若草と花で色付く季節だ。特に王城の周辺は手入れもされていて見事で、桃や黄、白といった様々な花が咲いては揺れている。

 気が向かないいつもの日課。食事の為に人が溢れる食堂へと向かって、軽食を適当に手に取っていた時。

 色の濃い銀色の髪をひとつに束ねた、少女と言っても通じるであろう幼い見た目をした女と出くわした。髪の間から見える、半端に長い耳は記憶にあった。


「……あ、……ひさ、……お久し、振りです。その節はどうも」


 自由に持って行っていい食事の並ぶ、厨房に繋がる台に並んで順番を待っている。

 その順番が隣り合っただけだ。なのに、その女は木製の盆を手に視線を四方に逸らしている。


「……ふん」


 今は停戦となった、帝国との戦場で一度だけ顔を合わせた女だった。あの時は馴れ馴れしい態度でディルの傷の治療まで無理矢理行った女の筈だ。

 急に弁えたような態度を見せる理由が分からない。聞こうとは思わなかったが、女は勝手に喋り出す。


「わ、私。貴方が騎士の位を頂いてるって知らなかったから。だいぶ失礼な事してしまったな、って、後悔してます。……ごめんなさい、差し出がましい真似しました」

「別に、気にしていない」

「そ、そうですか? それなら……安心しました。……って、待って!!」


 人の話に付き合う気が無かったディルは、話が一区切りした筈の彼女を無視して整然と並んでいる食事用テーブルへと向かう。なのに何故か彼女も、手早く食事を選んでディルの背中を追いかけて来た。

 適当に、空いている中央付近のテーブルを選んだ。すると彼女も、ディルが腰掛けるのと対角線上になる椅子を選んで座った。

 彼女の盆には、生野菜の盛り合わせとパン二切れ、バター一欠けしか載っていない。水さえ持って来るのを忘れたほどに急いでいた様子だ。


「……一緒に座って良いですか。他の場所、空いてなさそうで」

「好きにしろ」


 人と関わりを持たないディルだが、食事の相席はそう珍しい事では無い。昔はディルに興味を持って話しかける者も居たが、今となってはそんな存在は皆無と言ってよかった。

 だから、いつもディルは無言で食事をするだけ。盆に乗せた、薄いサンドイッチと紅茶が今日の昼食だ。


「……え……っと。ディル、様?」

「……」

「それで足ります? 『月』所属の騎士って、外回りでかなり忙しいって聞いてますが」


 女の質問には答えなかった。この銀髪のエルフ混ざりには名前を教えた覚えはない。

 それでも名前を知られているということは、あれからディルの事を調べでもしたのかもしれない。

 女は自分の食事に手を付け始めた。慣れた手つきでバターをパンに塗っている。


「……食事量を気にされる謂れは無い」

「単純な質問ですよ。私なんか前より食事量増えちゃって、なのに食べてるか心配されてるんです。食堂いいですよね、無料で利用できるなんて太っ腹」

「………」


 女はパンに持ってきた野菜を乗せた。隅まで置いた野菜を更にパンで挟んで、即席のサンドイッチの出来上がりだ。

 ディルの持ってきたものより厚い。しかし、それで食事量が増えたと言われても耳を疑いそうになる。勿論、食の細いディルの言える事では無い。

 ひとくち齧りついた女は、咀嚼の間だけその煩い口を閉じている。


「……私、貴方にもし城で会えたら、御礼したいなってずっと思ってたんですよ。まさか、それが今日だなんて思わなくて、何も御礼の品なんて用意出来てないけど」

「礼などされる覚えが無い」

「御礼は、した側じゃなくてされた側の心持ちですから。私は、貴方とあの場所で会えてよかったって思った。……それで、……もう一回、会えたらなって、ずっと、思ってて」

「あっれぇー?」


 その時、女の言葉を阻害するかのようなわざとらしい大声が聞こえた。

 盆を手に食事を運ぶ、士官の男の姿が彼女の背後斜めに位置付いている。

 にやにやと下品な笑みを浮かべた男は、彼女とディルを交互に見た。不躾な視線でディルに不快感が募るが、男は気付かない。


「お前、『花』の新入りじゃん。生意気に他隊の騎士様と同席かよ」

「……これはこれは、先輩。お疲れ様です。午後からもよろしくお願いします」

「午後から? おいおい、追い払う気かよ。お前、先輩とは同席出来ないって? 向こう行こうぜ」


 男は、女よりも少し年上のように見える。とはいえど、女の正確な年齢を知らない。

 困った表情を浮かべた女は、しつこい『先輩』とやらの誘いを固辞している。


「私が向こう行っても、他の先輩たちの興を削ぐだけなんで。私の事、何やら陰で言ってるの知ってますよ」

「へえ? それで断るんだ? 城仕えの礼儀ってのも知らないんだなぁお前。流石孤児」


 孤児。

 その単語に、ディルの眉が寄った。明らかに馬鹿にする為に言われた出自は、ディルにも通じる。

 彼女を通して自分さえ馬鹿にされた気分になって、ディルがそれまで傾けていた紅茶のカップから唇を離す。

 けれど肝心の言われた側は、平然とした顔で『先輩』とやらから視線を外した。


「まあ孤児ですから、礼儀とか行き届いてないかも知れませんね。私そういうの疎いから、それこそ先輩方不快にしちゃいます」

「ははっ。後輩の面倒見るのも先輩の仕事の内だからなぁ! ちゃんとメシ食ってるのか? ん?」


 それから、ディルの目の前で行われた事は、一瞬目を疑うような光景を作り上げた。

 先輩だと居丈高に振舞っていた男が、自分の持っている盆から飲み物の入ったカップを手に取った。


 そしてそれを、女の頭の上で傾ける。


「…………」

「優しい先輩からお前に分けてやるよ。その貧相な胸も頭も、栄養取らないと成長しないぞぉ?」


 周囲の席に座っている者達も、二人を見ていた。

 ディルは何もしない。出来ない。他隊の上下関係に口を出せる立場を持っていない。

 女は無言だった。頭から注がれる飲み物は炭のような色をしていて、それが珈琲だと色でも香りでも分かる。目を閉じているのは怒りを押し隠す為か、それともただ単に珈琲が目に入らないようにする為か。


「……」


 ディルは、周囲の様子を窺っていた。

 女を助けようとする者は居ない。それどころか、嘲笑を以て視線を投げる者まで居た。

 この醜い上下関係が騎士の髄ならば、この国はきっと長くないと判断しただろう。

 けれどその時、ディルの耳に誰かの囁きが聞こえた。まるで憐れむような声色が、鼓膜を撫でるように届く。


「……あいつ……やっちゃったな」


 『あいつ』というのが、その時のディルには分からなかった。

 けれど、彼女の頭を流れる珈琲が尽きる頃、その意味が分かる。


「……先輩流石にこれはお戯れが過ぎますよ……?」


 女は、笑顔だった。笑顔で、顔にまで降り掛かった珈琲を拭いながら男に振り返る。


「……っあああああああああああこのクソ野郎ぶっ殺してやろうかぁああああああああああああ!!」


 笑顔は、一瞬で豹変した。

 地の底から響くような咆哮も同時に聞こえて、周囲が戦慄する。

 そして乗っていた皿や食品などに目もくれず、彼女は自分の木製の盆を引っ掴んだ。

 無駄な動きなど無い。引っ繰り返る全てを無視して、彼女は盆を縦にして男に振り上げる。


「は、ごっ!?」


 男の下顎を抉るような動きで、盆が顔にめり込んだ。盆は辿った空間を戻るかのように、二撃目が男の横っ面に入った。

 ディルの目の前で、先輩として目も当てられない振舞いをしていた男がよろける。

 その瞬間を見逃さず、女は素早く立ち上がって男の股間を蹴り上げるように膝で一撃を喰らわせた。


「っ……!! ……!! ……!」

「私がやんわり断ってりゃ調子に乗りやがって。私より一年程度先輩だからって何だってんだ? ああ? 女がどうのこうの言うんならテメェを女にしてやるから有難く思え!!」


 その言葉に、周囲の男達が一斉に顔を逸らした。

 先程まで女を馬鹿にする旨の陰口を叩いていた者は股間を隠しつつ顔を青く染めている。

 同時に理解した。『やっちゃった』のは男の方だ。流れるような見事な反撃を喰らって床で悶絶している男は、暫く立てないだろう。


「っこ、こら!! お前ら何やってる!!」


 そうなって漸く、『花』隊の騎士と思わしき男が走って来た。取り押さえる、とまでは行かないが女は騎士からの圧に動きを止めた。


「……別に。先輩と後輩の楽しいじゃれ合いですよ。ですよねぇ、皆さん」


 女は、兎を食い殺さんとする肉食獣のような瞳を周囲に向けた。誰も何も言わず、ただ頷くしかしない。

 騎士も顛末を知っている筈なのに、この状況をどう処理したものか悩んでいた。

 ――そこへ来たのは、また別の人物だ。


「……んもう。騒がしいって思ったら、なぁにコレ。何があったの」


 耳に響く、野太く低い音。

 言葉選びが独特で、見た目すら特徴的な大男が大股でディルの座る席に近付いてきた。


「あらヤダ。また貴女なの? ……なに、その格好」

「――あ」

「……嫌ね、珈琲臭いじゃないの。これで少し我慢してなさい」


 そう言って、大男は女に白い手巾(ハンカチ)を渡す。色とりどりの刺繡で縁取られた布を受け取ると、彼女はそれで髪や顔を拭わずに握り締める。


「早くお風呂に入らせてあげたいところだけど、ちょっと顔貸して貰おうかしら? ――おい、連れて行け」

「はっ!」


 周囲に座っている者のうち、『花』所属の者が号令に食事を中断して席を立つ。

 床に転がる男と、その床に転がる原因を作った女はそのまま食堂から外に連れて行かれた。最後に、ディルにすまなそうな、悲しそうな視線を向けて。

 野太い声の男は、そのままディルのいる卓に座る。テーブルの上に引っ繰り返った皿や彼女特製のサンドイッチは、筋肉で張り詰めた男の腕が隅に追いやった。


「……えーっと。ダーリャの所の騎士だっけ。話、少しだけ聞かせてもらえる? その前に、アタシの事分かるかしらぁ?」

「………」


 男の名前はネリッタ。ネリッタ・デルディス、という名前なのは城に仕えて比較的早く覚える。

 ネリッタは独創的な男だ。赤紫色の髪を短く切り揃え、ごつごつとした顔には男だというのに色鮮やかな化粧を施している。口調もまるで女のようだが、野太く低い声は性別を裏切らない。まるで熊かと思う程に男として恵まれた体躯を持ち、良い意味でも悪い意味でも有名な男だった。

 彼は、騎士団『花鳥風月』の中の『花』の騎士隊長の地位に就いている。


「ネリッタ隊長。騎士隊『花』の隊長にして、ダーリャの同期であろ」

「そうそう! ……って、ダーリャの事呼び捨てぇ? ……あ、アイツ確か引き取った男を騎士にしてたっけ。じゃあ、アンタがディルって奴?」

「そうだ」

「はー。聞いてた通り変な男ねぇ。……まぁいいわ。さっき連れてかれた女の子の話なんだけどさ」


 それから始まるのは、簡易的な事情聴取だった。

 ディルも食事を再開しながら見た光景を話す。先輩と言っていた男が、彼女の頭から珈琲を掛けた話。即座に肉体言語で反撃した彼女の話。

 その間もネリッタは相槌を打ちながら話を聞いている。最後まで話したディルに、ネリッタは大袈裟な程大きい溜息を吐いた。


「……あー。本当にまたなのねぇ。ごめんなさいねディル、不快なものを見せちゃった」

「『また』? 初めてでは無いのか」

「そうなのよ。……あの子、そこそこ美人でしょ。目を付けられちゃってるのよねぇ。似たような問題起きるの、これで五度目かしら」

「……其れ程まで、『花』隊は士官の教育が行き届いていないのかえ」

「あらヤダぁ。これでもこっちも頭悩ませてんのよ? あの子、そこそこ優秀だけど性別のせいで頭悪い奴等から絡まれるのよぉ。それでも暴力でやり返しちゃいけないわ。ちゃんとやられたら上長経由でアタシに相談してっていつも言ってるのに、……」


 そこまで言って、ネリッタの言葉が止まった。


「……でも、食堂で珈琲なんか掛けられるまで酷いだなんて思ってなかったのは本当ねぇ。アンタが見ててくれて助かったわ。ありがと、ディル」

「我は、見ていただけだ」

「今度からあの子が何かされてると助けてもらえるなら嬉しいけど。……って、他隊のアンタに頼むのも馬鹿な話ねぇ」


 ネリッタは立ち上がった。表情からは憂いが取れない。


「でもねぇ、ディル。あの子、性別とか関係無しに良い子なのよ。少しだけ気に掛けてくれないかしら。アタシん所も馬鹿な真似する奴は見つけ次第お仕置きしてるんだけど、全部に目が行き届かないの。『月』から見た『花』ってのもアタシが見るより違って見えるんでしょうし、本当に少しだけでいいから気にしてみてくれない?」

「……確約は出来ぬ。此方とて暇ではない」

「んもう、分かってるわよ! そんじゃ宜しくね!!」


 まるで話を聞いていない。

 ネリッタは見かけによらず、疾風のように食堂を出て行った。

 残されたディルは、周囲から遠巻きに見られているような気さえしている。先程まで騒動の渦中にいたのだから仕方ないが。


「……ふん」


 手早く食事を済ませ、ディルもまたその場を後にする。汚れたテーブルを片付ける気になれなかったのは、それが連れて行かれた彼女の反抗の証拠だと考えたから。

 馬鹿な個人はいるが、その馬鹿が所属している隊の責任者まで馬鹿ではないらしい。姿に難はあれど、話が通じる隊長らしかった。


 別に、言われたから気になった訳では無い。 

 跳ねっ返りなあの女が、この先男達の下らないやっかみに巻き込まれるのは勿体ないと、確かに思った。

 けれど今のディルにはそれさえもどうでも良くて、少し経てば思い出そうとしない限り忘れるような些事だった。


「……」


 その時、ふと思い出す。

 彼女の名前を聞き忘れていたことに。


 人の名前など、必要でなければどうでも良かった筈なのに。


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