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ダーリャは荷を纏めて、誰にも挨拶しないまま出て行った。
夜更けに一階へ集まった酒場の面々は、久し振りに全員が揃ったような心地になっている。このたった数日で色々な事が起きたのに、これから先も密度の濃い日々が続くのだろう。
ほぼ全員が同じ席に腰掛けているが、アクエリアとミュゼの二人だけは違った。
わざとミュゼは離れた場所に座ろうとしたのに、それを追いかけたアクエリアが椅子一つ分離れた場所に座っている。
「……城で起きた話は以上だ。既に件の妊婦はジャスミンの監視対象に入っている。ジャスミン、報告を」
「監視……。私、看護って聞いてたんですけど」
名指しされたジャスミンは席を立ち、報告の為にその場全員の顔を見渡す。
ダーリャがいなくなっただけでミシェサーは平然とした顔で残っていた。今日も椅子に座らずヴァリンの側の床に直接腰を下ろしている。
「……ええっと。妊婦さんのことですけど、今は寝て貰っています。自分の状況が理解出来ているようで動揺はしていますが、なるべく皆さんは動揺させないようにお願いします。まだ産み月ではないようですが、母体状況によっては早産になる可能性だってありますから」
「妊婦なぁ。ディルがそこまで気を回して助けたなんてな……」
「何かしらの真っ当な理由を付けられただけ、あの者は幸運だった。そうでもせねば殺す民が増えるだけだ。我は自国の民をも手に掛ける趣味は無い」
ディルが助けた理由はそれだけで、妊婦である女に別の情が湧いたとかいう訳では無い。
謁見の間で剣を振るった白銀の死神の出で立ちは成りを潜めていて、いつもの無気力寄りの姿のディル。
話が逸れた、とジャスミンが一度咳払いする事で、外野は口を閉ざしてくれた。
「……お名前は、クプラさんというそうです。三番街で旦那さんと暮らしていたそうですが、妊娠を告げて暫くの後に蒸発。地震から避難しようにも、頼る先が無くて野宿していた所を捕らえられた、と。話を聞けば聞くほど酷くて、どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだって……思ってしまいました」
「旦那は蒸発? ……結婚してたんじゃないのか。それで、なんで」
「多いぞ、結婚相手が孕んだら余所の女に逃げる奴」
アルカネットが抱いた小さな疑問に、平然と答えたのはヴァリンだった。独身が抱いている結婚観を歪めそうな言葉にアルカネットも言葉を失う。
「……旦那さん、って言いましたが。正式な手続きは……取っていないそうです。でも、一緒に暮らして、将来の話もしてたって」
「将来の『話』が実現する可能性って低いんだよな。……馬鹿正直に信じてる訳だ? でも、多分その男ももう戻って来ないだろ」
「え……。……どうして、そんな事、言いきれるんです」
「こんな国が荒れてるっていう状態で、妊婦捨てて逃げた男なら足手纏いになるような産み月近い女を助けになんか来ないって話だ」
僅かな希望を抱いていたジャスミンも、慈悲すら置き忘れたヴァリンの言葉に絶句する。報告も言うべきことも無くなった今、助けに来ないという宣告のような言葉に怒りさえ忘れて目を逸らした。
聞けば、確かにとも思う。そしてジャスミンですら、クプラと名を持つ女に特段の思い入れは無い。看護対象なのは分かっているが、今大事なのは酒場の面々とディルの本当の目的、それからジャスミンの側を離れた親友だった。もう感情は必要以上にクプラに割いてやる余裕がない。少なくとも、今は無理だ。
「……まー、そうだろうね。どいつもこいつも古女房より余所の女がいいってね。だから男ってやだやだ」
不愉快そうに毒づいたのは苛々が溜まっていたミュゼだった。しかし、ディルとヴァリンとアクエリアの三人から視線を向けられて言葉を失う。
厄介な程に一途な男共の異議のある視線だ。こういう時だけ嫌に息が合っている。
「べ、別にマスターとかヴァリンの事言った訳じゃないよ」
「ミュゼ、俺の方も見てください」
「知りません」
不機嫌なのは結構だが、こんな時にまでそれを露わにされても困る。
一先ず話が終わった面々に話し始めたのはディルだ。
「……此れからの我等の身の振りを、改めて練らねばならないと思っている」
ディルにとってはこちらが本題で、面々は改まったディルの言葉に視線を向けて姿勢を正す。
皆これから自分達は何をすればいいか、指示が欲しいと思っていた所だ。
「報告した通り、城の者共は民の血が流れる事すら厭わない。……或いは、そちらの方が都合が良いとでも思っているのかも知れぬ。この国をプロフェス・ヒュムネの安住の地にする心算ならば、他種族など邪魔なだけだ」
「……生きてるだけで危険って事ですか」
「此の酒場はそう成らぬよう、我が目を眩ましている。……だが、其れにも限度があろう」
七番街の者すら手に掛けるのであれば、それより街として位の低い五番街など、どう扱われるか分かったものではない。
酒場の者達には手を出すなと王妃達に陳情しても、聞き入れられる気がしなかった。ディルを好かない王妃は、笑顔で否と答えるかも知れない。
「……近いうち、酒場でも仲間割れが起きたという状況に持って行こうかと考えている」
「は……?」
「え、……」
動揺が広がった。
その反応はディルにだって予想が付いていた。今は従ってくれる者達に、本当はそんな指示を出したくない。
「ダーリャが出て行ったのは好都合だ。あの者が切っ掛けとなり、此の酒場でも不和が起きた事にする。成れば、王妃は汝等に不愉快な命令を出そうとはしないであろう。酒場も離れ、各々が融通の利く場所で待機。時が来れば指示を出し、妻奪還の為に参集せよ」
「で、でもディル。そうなると色々困らないか? 今は同じ場所に暮らしてるから、こうして細かに集まる事も出来るんであって」
「……」
ディルがこの指示を出す理由を、異論を出して来たアルカネットは気付いたかも知れない。
体を痛めたアルカネットが、近いうちに起きるこの国の変貌に耐えられるか分からない。王妃達がいつこの国を破壊するかは不明だが、それが明日でもおかしくないのだ。もう、国王はいない。
次期国王であるアールリトを、ヴァリンは助けると言った。それが間に合う内に、動かねばならない。そうなれば王家との対立も避けられない。
そうなった時に、アルカネットの体は耐えられるだろうか。
「情報伝達なら私達にお任せくださいよー。戦争と同じくらいには情報のやり取りが出来ますよ。集合も、恐らくはこれから時間が合わない人も出て来るでしょうねー。そうなった場合、私達が走り回る方が効率がいいんじゃないでしょうか。私達は元々そういう仕事をしているんですし、こういうの適材適所って言うんですよねぇー?」
アルカネットの不安には、ミシェサーが笑顔で意見を出した。意見と言えば聞こえはいいが、実際には反論だ。異を唱えさせない圧がある。
口籠る怪我人は、ミシェサーが続ける利点に何も口を挟めないでいた。
「んで、ディル様。誰を何処に割り振るおつもりですー? 酒場にディル様は残るとして、他に誰が?」
「……」
話を進めたがっているミシェサーの言葉に、ディルが暫く黙り込んだ。
先んじて幾つかの候補を考えてはいたが、ここまで早く話を進められるとは思っていなかった。
改めて見渡した顔触れの表情は強張っている。ヴァリン以外は。
「……残るのは、我、ヴァリン、ミシェサー、それから、ジャスミン」
「わ、私もですか?」
「汝はあの妊婦の看護がある。王妃からは子が生まれるまでという名目で命を助けたのだ、医者の汝がいなければ妊婦も不安がろう」
「……それは別に構いませんが、……残っていいと言われるなんて思いませんでした」
ジャスミンの表情は安堵に変わる。
けれど他の面々はそうもいかない。一番不満そうにしていたのはミュゼだった。
「……私は? まさかここまで来といて、私によそから始まりを待てって言うの、マスター?」
「始まりを待つのに酒場が最適という訳ではあるまい。……汝はフュンフの許へ向かうのが良かろうな、十番街と成れば距離も近い」
「はぁ? また私十番街まで行くの……?」
「じゃあ、俺もそっちですね」
「……は?」
ミュゼに出された指示に、アクエリアも立候補する。
ディルとの関係を考えれば、その場の者の半分はごねると思っていた。しかし彼はミュゼを選び、一緒に向かうと言う。一番呆気に取られているのは当のミュゼ。意外な言葉に、横目で再び冷たい言葉を連ねるしか出来ないが。
「御冗談を。フュンフ様と仲が悪いでしょうに、もうあの場所に付いてくる理由は無いんじゃないでしょうか」
「貴女が行くなら地獄でも行きますよ。何ならフュンフさんにこれまでの非礼を謝罪したっていい。それで貴女と一緒に居られるなら何度でも頭を下げます」
「っ……」
ミュゼも閉口して視線を逸らす。呆れと照れが混じっていた。
微笑ましい二人の姿だが、眺めている訳にも行かない。ディルは次にアルカネットへと視線を移した。
「アルカネット、汝は自警団詰め所へ。勝手知ったる場所であれば、汝は自由に立ち回れるであろ」
「……詰め所か……。場所は別に、いいけど。でも……俺は何をすればいい。まさか、俺を邪魔者扱いして他所にやる訳じゃないんだろ?」
「……」
アルカネットが一番気にしているだろう事だ。
それに関してディルは嘘は吐きたくない。だからと『足手纏いだ』と馬鹿正直に言う事も出来なかった。
だからアルカネットに関しては一番頭を抱えていた。幾つか、使えそうな言い訳も浮かんだ。
「汝は、……城下の動向を探れ。自警団内で報告される不穏な動きに気を配り、情報を此方へ流せ」
「情報……? どんな」
「此れだけ城下を好きに扱えば、民から不満が噴き上がろう。王妃が粛清を講じるより先に暴動など起きては其方に時間を使いかねない。散る民の命は少ない方が良い、その為には暴動を寸での所で堪えて於ける司令官も必要になる。司令官の器に誰が向いているかは我には分からぬが、もし其の時にダーリャが近場に残っていれば――」
それ以上は言わない。
あんな別れ方をしたダーリャが今更、アルカネットが頼んだからといって力を貸してくれるとも思わない。
だからそうと言いかけたのは、なるべくアルカネットを危険から遠ざけたい。それだけだ。
けれどアルカネットは何を思ったのか決意した様な表情になる。言葉通りに受け取って、大役を任されたかのような。
「……未だ、出て行かずとも良い。だが近い内に、酒場を離れられるよう荷は纏めておけ」
ディルは言いながら、皆に背を向ける。
そして棚に並ぶ酒を両手で抱えられるだけ抱えて、カウンターに並べ始めた。
「ディル、それは?」
「此の酒場も如何なるか分からぬ。ともなれば、酒は飲まずに終わるやも知れぬ。飲まれる為に作られた酒が、本分を果たせず忘れられるのは惜しい――とは、思わぬか?」
カウンターの下から出てきたのは、ディルを除いた人数分の酒器。
まだぎこちない、引き攣った微笑は今のディルの精一杯。
それでも、ディルの笑顔を初めて見る者には衝撃だった。
「今宵は、無礼講だ。何時終わると確約も出来ぬ任務を、汝等に言い渡した我からのささやかな労いである。金も不要だ、好きなだけ飲め」
衝撃の前には、振舞われる酒による無礼講など足元にも及ばない。
珍しいものを見た、とばかりにヴァリンも驚いた顔をしたが、一番に酒を取って行った。
他の者もおずおずと酒を取りに行く。そうして静かに行われる酒盛りは、賑やかさとは縁遠かったが笑顔があった。
これからどんな地獄が待ち受けているか分からない。
けれど、地獄へと間違いなく一歩を踏み出している面々には、楽しい記憶が確かに残った。