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【第二部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド夜想曲―  作者: 不二丸茅乃
Op.8 僅かな一欠片

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 ディルとヴァリンが酒場に戻った。

 一階では辛気臭い空気が漂っていて、アルカネットとアクエリアが皆の帰りを待っていた。

 酒場の隅の席にはダーリャもいて、話は聞いているのか黙りこくったまま視線だけをディルに向けている。


「……ミョゾティスとジャスミンは、戻ったか?」

「まだ戻っていませんよ。……本当、どれほど心配かければいいんでしょうねあの二人は」


 状況確認をしようとしても、今はそれ以上に必要な情報が無い。

 客席の間を抜け、自室に戻ろうとするディル。その姿を、ダーリャが見咎めた。


「……血の、臭いがします」

「……」


 ダーリャの目の前にあるのは、水の入った器だった。

 それを握り締めて、怒りを逃がすように、ダーリャが俯いた。


「何故、言ってくれなかったのです。今の王家の状況を。貴方が、罪人の処刑の為と王城に向かった事を、私は先程知った」

「言って、貴様に何が出来るのだ。この城下から離れる事も出来ず、此の酒場の食料をのうのうと喰らって過ごす老い耄れが、我と我が酒場に何かしらの恩恵を齎したか? 耄碌するのならば我の知り得ぬ何処かでするといい。貴様の感傷に付き合う気は無い」

「――私は。貴方が手に掛ける罪人は、城下に住まう者だと聞きました。微罪とも」

「微罪かどうかは、我が主が決める。一線を退いた貴様が決める事では無い」


 ディルが聞かせた拒絶の言葉に、ダーリャは黙ったまま立ち上がる。

 ゆっくりと近づく足音を、ディルは動かず聞いていた。


「私は、貴方を引き取った事を、後悔していません」

「……」

「育て方には、後悔していますが……!!」


 たった一瞬。

 振り被ったダーリャの拳が、ディルの左頬を捉えた。殴打音がその場に響き、ディルの体がよろめく。

 ディルがそれで倒れるような体をしていないだけなのか、ダーリャの腕力が鈍ったのか。

 殴られて赤くなった頬を庇おうともせず、後見人だった男を見遣る。

 他の面々は、口も出せず、その光景を見守るだけ。


「……後悔される程、我の幼少期に貴様との関わりは少ないが?」

「それを後悔しているんですよ。私のこれまでを、全て否定された気分です。貴方が、まさか、命令とあれば民を殺めるようになるとは思いませんでした」

「民で無く、他国の女王で有れば殺しても良いとでも? ……自省せず他人を責めるなど、とんだ身勝手だ」


 ディルが口許を手の甲で拭うと、僅かに血がついていた。

 初めてダーリャに殴られた。今までも殴られるに値する失態を見せていた気もするのに。

 昔が懐かしくてディルが頬を緩めると、それさえも気に入らないかのようにダーリャが激昂する。


「……もう、良い。私の思いは、貴方に届かない。努力を怠ったのは私ですし、貴方には受け皿がなかっただけの話。もう二十年前には戻れないんです、私が、諦めればいいだけの話」

「………」

「貴方を、息子だと思っていた事も今は恥じます。貴方を人に近付けようと、私が貴方に抱いた幻想が、全て無駄な話だったと理解出来るまでこれだけの時間が無駄になった」

「能書きは其の程度にしておけ」

「貴方の奥方が……貴方を置いて逝ったのも、当然の話かも知れませんな? 己の見る目の無さに、今なら彼女と地獄で笑い合えるかも知れません」


 ダーリャが振り絞った中傷を、ディルは見開いた氷の視線で返す。

 昔、戦場で敵と対峙した時と同じ瞳だ。次は自分が斬られる番かとさえ思わせる瞳に、それ以上言葉を重ねる事を諦めさせられる。


「我が妻への誹謗は遠慮願えるか。我は何と言われようが痛くも無い。ただ、妻を貶める事だけは許さん」

「……そうですか。いえ、短い間でしたがお世話になりましたな」


 踵を返すのはダーリャが先。もう、誰も引き留めはしない。

 階段を上る音が途絶えた後に、アルカネットが恐る恐るディルに問い掛けた。


「……本当の事、言わなくて良いのか。年寄りでも元騎士なんだろ。お前の育ての親ってやつだし、力になって貰った方が」

「あのような耄碌爺に借りる力など無い。……余生を穏やかに過ごす事が望みだった筈だが、自ら火の中に飛び込んで来ようとはな」

「お前……本当素直じゃないよなぁ。殴られた所、大丈夫か」

「ん」


 義弟の心配には、殴られた位置を見せるだけで終わる。

 最初から話も聞かず追い払うつもりだったのだ。ダーリャはきっと、すぐにでも荷を纏めて次の宿泊先を探すだろう。

 ディルの冷たさにも理由があると知ったのは、アルカネットだって最近の話だ。妻と離れてしまったディルと久々に会う、理由も知らないダーリャでは気付けないまま終わると誰もが予想していた。それが正しいと結論が出たまでだ。


「……はー。ダーリャでも拳に訴える事があるんだな。珍しいもの見た」

「ん? ……ヴァリン、部屋行くのか」

「まあな。正確には俺のじゃなくてミシェサーのだけど。あいつ、部屋に居るんだろ」


 ヴァリンは他人事のようにそう言って、階段を上がる。

 ディルも部屋に戻って、残るのは再びアルカネットとアクエリアだけになった。


「……血の臭い、だって。アクエリア、気付いたか?」


 ダーリャがディルへと発した言葉が気になって、アルカネットが訊ねた。

 訊ねられた側は目を瞬かせ、鼻を鳴らして周囲の臭いを嗅ぐ。僅かに感じ取れる気もするが、気のせいと言ってしまえはそれまでだ。


「俺にはあんまり感じませんね? ……いや、慣れてしまっただけかも知れませんが」

「怖い事言うなよ」

「慣れるでしょう。俺も貴方も、綺麗な手じゃないですよ。冒険者か何か知りませんが、俺達くらい地に汚れる仕事が多いって訳でもないでしょう。騎士を辞めて浄化されてしまった鼻なら、ディルさんに染み付いた血の臭いくらい感じ取ってしまうのかも知れませんね。殺して捨てるだけの俺達より、冒険者の方がキツい仕事もあるでしょうしね。血の臭いで危険を察知するくらい訳ないのでしょう」

「……ってことは、あいつ、本当に殺して来たのか」

「………」


 アクエリアは何も答えず、またアルカネットも答えを欲した訳じゃない。

 無言の二人の間に流れる空気は、まだ暫くそのままだ。




「……って、訳だ。次、俺が城に行く時はリトを助け出したいと思っている」

「へぇー」


 場所は変わって、ミシェサーが使っている部屋。

 相変わらずこの女は床に腰を下ろしていて、ヴァリンは窓際で外の景色を見ている。


「それ、皆の前で言わずに私にだけ言うって事は……『そういうこと』だって思っていいんですかー?」

「……」


 自分の桃色の髪を弄りながら、屈託ない笑顔をヴァリンに向けた。

 ヴァリンはミシェサーを見ようとしない。無言の空気を重く感じているのはヴァリンだけだった。


「もしかして副隊長、気にしてらっしゃいますー? 別にいいんですよ、私はこちら側に付いた時から、いつかはこうなるって思ってましたし」

「……お前、俺に不満は無いのか」

「不満ー? 言って良いんですかぁ? いつ抱いてくれます? ソルビット様を抱いた男性は死んでる人以外ほぼ全員制覇しましたけど、国内では副隊長だけまだなんですよー」

「本当お前下衆」


 本気とも冗談ともつかないような事を笑顔で言い切るミシェサー。

 一言で切り捨てられた言葉はそのままミシェサーの不満になり、頬を膨らませる。


「……不満、って言うなら。『あれ』、本当に苦しいから……出来たら、もう金輪際しなくていいってなるなら良いんですけど―」

「それは悪いと思っているよ。でも、『あれ』が出来るのは女騎士の中でもお前くらいなものだ」

「はいはーい」

「薬は? 持って来てるのか」

「……」


 床で膝を抱えたミシェサーは、笑顔でヴァリンに視線を送った。

 

「いつ、抱いてくれます?」

「……」


 蠱惑的、とも少し違う幼ささえ感じる笑顔だった。

 一度だけ息を飲むように言葉を詰まらせるヴァリン。この女も、美貌と肢体で国を支えているのだ。


「……生きて帰って来れたら、考えておいてやるよ」

「わぁい。私頑張ろう! 約束ですよ」

「……ああ」


 体を繋げるにしろ、互いに情がある訳でもない。

 二人とも、既に亡い人のカタチを確かめるように生きている。その延長線上の提案だ。

 一度は無邪気に笑っていたミシェサーも、次第に笑みを潜めて改めてヴァリンに顔を向け直した。


「『あれ』が必要として、いつになりますー?」

「……少なくとも、急ぎじゃないだろうな。喉、慣らすのに時間が要るんだっけか」

「ええ。……下準備も要りますし、出来たら早めに教えていただけると嬉しいですねー」

「……頼む」


 死ね、と。

 そう言っているようなものだった。


 ミシェサーは『風』の中でも、特別だった。

 専用の器具により薬を声帯に直接塗布する事で、声をある程度自在に変えることが出来る。

 男騎士でそれが出来るものは数少なく、女騎士の中ではミシェサーは唯一だった。

 それも、第二王女と同じ声を出せる者はこれまで居ない。


 王女の身代わりになれ、と。

 見つかれば死罪は免れない。

 けれど、ミシェサーはそれを受け入れた。


 ミシェサーが生き残れる時は、きっと。


「でも、私のことも早く助けに来てくださいね?」

「……努力するさ」


 この国が、終わる時だ。


 曖昧な返事で誤魔化したヴァリンを、ミシェサーは許した。

 受け入れて、許して、それでも自分をヴァリンが助けに来る時は来ないと予感している。

 自ら滅びに向かって歩む国に未練は無いが、自分の生にまで未練が無いかと聞かれればそうではない。

 でも、ミシェサーにとってはヴァリンが、自分の道を示してくれた恩人の一人だった。愛は無くとも、命を賭ける理由なんてそれで充分。


 抱え込んだ足にしな垂れたミシェサーは、鼻歌を歌い始めた。それを会話の終わりにする。

 ヴァリンは、もう話を切ろうとしているのに気付いて窓から離れた。ミシェサーに触れる事もせず、そのまま扉を開く。


「俺がもし生きていたら、お前を主役にした演劇の脚本を書くよ」

「やだぁ、止めてください。大衆受けしなさそー」

「それでも書くよ。……だから、その脚本を、お前に一番に見て欲しい」

「……ありがとうございます。覚えておきますね」


 ひらり、とミシェサーが手を振って、それを最後に扉は閉められた。


 その後に浮かべたミシェサーの悲しそうな笑顔を、ヴァリンは知らない。



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