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「ヴァリン」
「ああ」
アールリトの部屋を出た後は、ヴァリンも兄としての顔から普段の表情に戻ってしまった。
階段の途中の格子にそのままにしていた鍵も回収して、苦々し気に階段の向こうを見た二人。
指の先に挟んだ鍵は、手巾を渡して空になった懐へ。
「聞こえてる」
部屋にいた時から聞こえていた。階段の下から聞こえていた話し声が大きくなっていることに。
下にいる者達が声を荒げる様子は無かった。けれど呻き声と何かを強打する音を最後に静かになる。
髪を掻き上げたヴァリンは、その声の元へと躊躇わず足を運ぶ。段差を下りる音が、階下の床を踏む音になる。
見張りをしていた筈の『風』騎士二人は床に蹲っていた。意識はあるのか、藻掻くように伸ばした指先が力を込めて床に立っている。
――そんな騎士を見下すように立っているのは、二人の男。
一人はヴァリンと同じ髪の色だ。背中が丸まって、前髪の間から見える挙動不審な瞳が忙しなく動いている。切り揃えられもせず、かといって手入れもされていない後ろ髪は痛んでいて見苦しい。
もう一人は、身飽きたと思っていた鳥の巣頭の騎士。黒髪は相変わらず毛先が四方に向いている。
「……本当にさぁ、お前ら。もう少し有意義な事に時間を使えよ」
ヴァリンの言葉に、濃紺の髪の男は自分の親指の爪を噛む。背格好は似ているが、その仕草が似ない。卑屈な態度が立ち姿に現れていた。
「っ……に、兄様が。リトの部屋に行ったって聞いて。僕、兄様が、リトに、変なことしないかって。リトの、叫び声が聞こえたら、ぼ、僕、リトを助けに行こうって」
「はぁ? お前、そんな気色悪い事ばかり考えてて疲れないのか。大事な妹に手を出そうなんて考えてるの、お前ぐらいなものだ。だから誰にも相手にされてないんだよ、馬鹿」
「……っ!? ぼ、僕に、馬鹿って言った!? 兄様如きが、僕にっ!?」
目を見開いて怒りを露わにするアールブロウ。上擦った声が漏れても、ヴァリンは意にも介さない。
散々な言われようでも、彼はこの国の第三王子だ。そしてヴァリンの弟。
兄から愚弄された怒りを抑えるべく、一歩前に出た黒髪の騎士がブロウへと制止の為に腕を横に伸ばす。意図に気付いたアールブロウは再び爪を噛んだ。
「……アールヴァリン殿下。お戯れの言葉も、程々に」
諫める声は黒髪の騎士――王国騎士団団長、カリオンの口から零れた。
口許にだけ笑みを浮かべているが、瞳は猛禽の類のような鋭さでヴァリンを見ている。その威圧感に負けていられず、ヴァリンも言葉を重ねた。
「お前もさぁ、いい加減にしろよ。お前みたいなのが説教とか笑わせんな、『風』の奴等にも手を上げるとか本当最悪だ」
「これは失礼。ですが、私達が階段を上がろうとすると止めて来たもので……。騎士としての命令は何が一番優先されるか、教育し直しが必要かと思った次第です」
恭しく一礼をして非礼を詫びるが、それが口先だけのものだと分かっている。
ヴァリンは騎士達に手を貸し、起き上がらせ、せめてとばかりに壁を背に座らせた。騎士団長の一撃を喰らってまでも立っていろという非情を言うつもりはない。
ディルは、その間に前に出る。ヴァリンと騎士達を庇うように。
「……越権行為ではないかえ? 邪魔をした者を床に沈めて於きながら、階段を上がらなかったのも疑問だな」
「アールヴァリン殿下への忠誠心を尊重して、待っていただけだよ。……ディル。君も今、王女の許へ行っていたね?」
「だからどうだと言うのだ? 身体検査でもするかえ、王女殿下の隠れる場所など我の体の何処にも無い。殿下を逃がす為に我等が奮闘しているとでも考えているのならば、とんだ思い違いだ」
「そんな事を心配してはいないよ。……何しろ君は、王妃殿下に忠誠を誓っているじゃないか」
肩を揺らして笑みを浮かべる騎士団長。笑っている間は閉じていた瞳が開くと、先程と変わらぬ視線をディルに送った。
「そうじゃないって時以外、私は君に触れる気も無いよ」
「……ふん」
そんな瞳で見られながら言われても、敵対心が隠しきれていない。念押しのような言葉を無視して、ディルは歩き出す。
これ以上付き合っていられない。話す事も無い。
「ヴァリン、戻るぞ。用は済んだのであろ」
「ああ」
二人は、もうアールブロウへもカリオンへも顔を向けなかった。
けれどカリオンだけは、二人の背を視線で追う。
「ねぇ、ディル」
ディルは答えない。
「二番街で、王妃が直属の配下にしているプロフェス・ヒュムネの死体が発見されたそうなんだけど。……ディル、何か知らないかい?」
「……」
「知らないなら良いんだ。でも城下の事は私達より君の方が詳しいだろうと思ってね」
二番街のプロフェス・ヒュムネといえば――確かに、ディルが倒したものだ。
問い掛けて来たカリオンが隠すつもりのない疑いを、ディルは正面から受け取るつもりは無い。
「城下の事も碌に把握出来ぬように成ったなら、団長の座など辞せば良いのではないかえ?」
振り返らず、足も止めず、ディルはそう言って場を去る。
残ったアールブロウとカリオンは、暫くその場を動かなかった。
「っ……少し、僕より早く生まれたからって偉そうに……! 僕より頭が悪い癖に、悪い癖にっ!! ディルだってそうだ、返り血に塗れても平気な顔して、あんな人形みたいなやつ、気味が悪い!」
アールブロウは憎々し気に爪を噛みながら、一番近くの壁を蹴り始める。見た目だけは大人になっても、内面はまだ幼稚だ。
そんな第三王子を冷めた瞳で見るカリオンは、爪噛みも壁蹴りも止めない。これは癖のようなもので、止めるだけ無駄だから。
大きな子供の守り役など、騎士団長の仕事ではない。なのにアールブロウの言葉に従ってこの場所まで来たのには、カリオンなりの理由がある。
――『兄様が、ディルと結託して国を裏切ろうとしているかも知れない。こんな時にリトの所に行くなんて、二人には王家を裏切って助けようとする以外に差し迫った理由が無いよ』
アールブロウは愚かだが、自分達に不利益を齎す者への嗅覚は鋭い。
だからと、カリオンには二人が裏切る利点が思い浮かばなかった。王家に使えていれば生活は安泰で、二人は自分より民を優先する性格ではない、と。そう思っている。
二人にとって、愛する者がいないこの世界では尚更に。
「暁から頼まれてなかったら、僕だってあいつのこと、ディルを足蹴にする為の材料にするのに……!」
「……『あいつ』?」
ディルとヴァリンの不審な点を考えていると、アールブロウが怒りに任せて口を滑らせた。
聞き咎められて藍色の瞳が見開かれる。そしてその瞳は、カリオンに向こうとしない。
「……ディルは、知らないんだ。知らない筈なんだ。だから、最後の手段なんだ。僕と暁だけが知ってる、ディルを絶対に裏切らせない為の、ディルを絶対に傅かせる為の」
「その為の何かがあるのですか、殿下?」
「言えないよ。言えない。言ったら皆、びっくりする。僕は嫌だ、暁から恨まれたくない」
「言えば恨まれるほどの何をしたんです、殿下。あのディルが傅くなんて、そんな事」
カリオンの手が、アールブロウの肩に伸びた。掴む手の力が強まって、対外的に浮かべようとした笑みに失敗して唇が震える。
ディルは王妃に傅いている。けれどその裏で何を考えているか分からない。あの人形めいた男は、民に特別掛ける情が無いのと同じくらい、今の王家にも興味が無い筈だったのに。
急に見せた忠誠心を疑っているカリオンは、ディルの本心が知りたかった。知っても、また昔のように彼の絶望に触れるだけかも知れないと思っていたけれど。
「……殿下に対してディルが傅く最終手段なんて、もう、『花』隊長が関わる話しか有り得ないでしょう……?」
「………」
「仰ってください。貴方は、暁は、何を隠しているのですか? ディルも知らない話なら、私も誰にも言いません」
「……。ぼ、くは、僕は。言えないよ。言いたくない。暁は僕の友人で、それを裏切るなんて」
「ディルは本当に知らない話ですか? もし既に知っていて、それで偽りの忠誠を見せているとしたら、そちらの方が問題ではありませんか? いつ掌を返されてもおかしくないとしたら、私は対策を練らないといけません」
「……」
不自然だったディルの忠誠も、それで理解出来る。
二人がどれだけ想い合っていたか、カリオンは良く知っていた。ずっと前から、『花』隊長がディルに向けていた恋心も。
そして、ディルが彼女に向けた愛情も。
アールブロウは迷った。迷って、唇を噛みしめて、カリオンの耳にしか届かないよう顔を近付ける。少しカリオンが屈めば、その耳に触れるまで口が近付いた。
「……いき、てる」
「――……」
「『花』隊長は。『まだ』、生きてるんだ。暁の所で」
耳を疑う事すら、カリオンには出来なかった。
ずっと前に絶たれたはずのディルにとっての希望が、人に気付かせぬ所でまだ生きている。
「……ああ」
もっと。
もっと早く、知れていたら。
「今更知るだなんて」
もっと早くに気付けていたら。
「……私は本当に、団長の座を退かねばならないかも知れませんね」
先の戦争で、色々なものを失って。それで霞んでしまった視界で見ていた世界は、カリオンが気付いた時には全てが手遅れになっている。
祖国の復興を夢見る王妃も。
得体の知れない忠誠を王妃に誓ったディルも。
民に手を掛けた自分も。
符号をひとつ無くした騎士団も。
『花』隊長を、どんな形かも分からないが囲っている暁も。
自分が団長でなければ、こんな事にはならなかったかも知れない。
ふらりとアールブロウから体を離したカリオンは、両の瞼を片手で抑えて溜息を吐いた。
普段と違う、疲労感を漂わせたカリオンの姿にアールブロウも視線を逸らす。
「……絶対、誰にも、言わないで欲しい。特に、ディルには」
「………ええ」
――言った所で。
「言いませんよ」
彼は、きっと知っている。
カリオンは何の確証もないのに、そう思った。ディルがその事を知っていて、偽の忠誠を示したのだとしたら、あらゆることに説明が付く。
ディルに対して彼女の生を切り札に使っていないのは、王妃さえそれを知らないからか。
自分の胸に手を当てたカリオンは、そこから来る苦しみに呻く。
後悔なんてあの日に止めた筈だった。