209
王の葬列は酒場の前から過ぎ去ったが、ミュゼとジャスミンが戻って来る気配は無い。
練り歩く葬列は再び十番街に戻っていくからだ。こっそりと行動できればいいが、万が一何処かで騎士と鉢合わせてしまったら捕らえられる可能性が高い。
簡単に帰って来られないと分かっていて、アクエリアは他に誰もいない一階で毛布を被って二人の帰りを待ち続けた。
椅子にも座らず、床で膝を抱えて。
城下内の、徒歩で二時間前後の距離。アクエリアならもっと早く傍に行ける。なのに今は愛する人の身を案じながら、こうして待っているしか出来ない。
心の距離は、もっと離れているかもしれない。それが、アクエリアにはたまらなく心細かった。
深夜になり、日付が変わり、時間が過ぎていくのを黙ったまま見送った。
「……」
待っていても、彼女たちの話し声すら聞こえない。
朝日が昇るまで、ずっと、ずっと。アクエリアは待ち続けていた。
まだ帰って来ない。
突発的と言いたくなるように現れた葬列は、一晩で終わった事だけは幸いだったろう。
次の日の朝には、外にいた地震に因る避難者は外に居なくなっている。
騒ぐ性質の者はこちらに流れていなかったが、昨日よりも静けさを取り戻した五番街だった。しかし酒場の外はちょっとした騒動にまたどよめいた。
ディルが懸念していた状態になったのだ。食料が足りない、と。
城下の外へ繋がる門が閉じ、食料の供給が絶えて、店に陳列する食料も薪も足りないそうだ。もうじき冬が来るのに、備えが全くできない。
ヴァリンは起きて来て、鼻歌を歌いながら外に掛けていた一時閉店・王城関係者入店禁止の蝋板を取り込んだ。そして書きつけていた文字を半分ほど消し、再び書き込む。
『一時閉店
次回開店は食材調達の目途が立ち次第計画』
最後に『生きてたらまたお越しください』なんて書きつける辺り、人の神経を逆撫でするのが上手い。ヴァリンは経営とは程遠い場所に居たので客を客とも思ってない姿勢だが、ディルだって客を客として扱った事なんて無い。
それで許されていたのは、ディルもヴァリンも最愛の人を喪った無気力な存在だと常連から認識されているから。
けれど、何で今更文面を変えるんだ? と座って隣で見ていたアルカネットの頭に疑問が浮かぶのは無理のない話で。
「決まってるだろアリィちゃん、一応ここも酒場だからな。看板出してないから簡単に見つからんが、誰かがここの話を聞いたら食料を分けて貰えるって思って尋ねに来るかも知れん。女子供なら考えてもいいが、馬鹿な強盗が変な事を考えないとも言い切れんしな。先に断り文句書いとけば、実力行使に出たって誰も責めない」
つまりは、『食い物奪いに入って来たら殺す』という意思表示。丁寧に包みすぎて真意を読み取るのにだいぶ時間がかかりそうだ。
食料があると誤解されるのが嫌ならこんな蝋板も出さなきゃいいんじゃないのか、という疑問はアルカネットが自分で解決した。蝋板を出していないと、普段から贔屓にしてくれている常連客が開店中かと誤認する可能性がある。
店の内外の事を考えながら経営するなんて、アルカネットには出来そうにない。料理も殆どしたことがないし、この店の権利を自主的に義姉が持って行ったことを思い出して目を細める。
義姉がいなければ、きっと育ての親の死後に酒場の扱いで途方に暮れただろう。
「……客も部外者も締め出して出せる料理も無いとなれば、酒場の名が泣くな」
「ディルが店の権利持ってる自体で滂沱の涙だよ。酒飲めない店主とかいっそ悲劇だろ。んじゃ、この免罪符出して来る」
ヴァリンが蝋板を手に、再び外へと出る――出ようとした。
しかし鐘の鳴る扉を開いて一歩を出す前に、靴先が動くのを止めてしまった。
「何しに来た」
ヴァリンの声に気付いたアルカネットが扉の方角を見た。声に分かりやすいまでの敵意を感じられて身を強張らせるも、負傷した体が痛みを訴える。
ガン! と、大きく扉を殴りつけたのはヴァリンだった。同時に、鐘が低く大きな音をさせた。暫く鳴りやまない音を迷惑に思ってか、来客と思わしき声が外から聞こえる。
「あーもう、煩いですねぇ。いいですからそこ通して貰えません? どいつもこいつも使えないばかりに、ウチが来てやったんですよぉ。悔しかったらお義母様への反抗期なんて止めて戻ってきてくださいよ」
聞き間違える訳が無い、暁の声だった。
アルカネットとしても聞きたくない声が聞こえて露骨に表情を歪める。
この声の主が不快なのはいつものことだが、暫く来なかった人物なのに酒場に寄った理由を考えるだけで頭が痛くなってきた。
ヴァリンが大きく鳴らした戸と鐘の音に、一番先に客席のある広間まで出てきたのはディルだった。
美麗な顔の眉間に、深い皺が刻まれている。
「……アールヴァリン。構わぬ、通せ」
「嫌だ。……俺が、嫌だ。こんなの通して何の得になる」
「汝の我情を聞いてはおらん。其処な男は塵糞と同じ臭気を纏って居れど、何の用も無く此方へ来る者とは思わぬのでな」
ディルが王家や城に仕えている者を擁護するような言動をする理由も、酒場の面々には分かっている。ヴァリンは外に蝋板を取り付けながら明後日の方向を向いて「ああそうかよ」と述べるだけ。
一方、呆然と「ゴミクソ……」と愕然とした声で復唱したのは暁だった。いつも開いているのか閉じているのか分からない筈の瞼が、その奥の濁った緑を覗かせている。
「して、何用だ。其の命、差し出しに来たのかえ?」
話を切り出したディルに、暁が瞼を閉じて勿体つけて喋り出す。耳に残る粘着質な喋り方は、その場にいる暁以外の全員を不快にしていく一方だ。
暁の背で、扉が閉まった。
「いやですねぇ、ディル様ってば相変わらず笑えない冗談ばかり。ウチがここに来る時は、『仕事』の話以外に無いでしょう? ……そんなことも忘れてしまいましたかぁ、年を取るって嫌ですねぇ。ウチも十年しないうちにそうなってしまうんでしょうか……」
憐れむような言葉は、精神を逆撫でするための悪質なものだ。
ディルは表情を変えず、しかし苛立ちを表すかのように、手近な卓に平手を叩きつける。
打音は大きく、全員の鼓膜を揺らした。
「……加齢が嫌なら、貴様の老いを今此処で止める事も出来るのだが」
「おやぁ? っはは、良いですねぇ本当に止めてくれるなら。それで、どう止めるのかご自分で実践してくれたら考えない事も無いですよ? ……ディル様が居なきゃいけないのはこの酒場でなく、介護施設じゃないですかね? 本当、酒場の皆々様はこんな痴呆を相手にしなきゃいけないんですから毎日大変ですよねぇ。それもこれも、御手隙じゃないと出来ないでしょうけど!」
粘っこく、嫌味っぽく。
暁が並べ立てる言葉はディルだけを貶めるものではない。酒場の面々を暇人共と嘲笑っている暁に、アルカネットが険しい視線を投げる。
「暁。お前、毎回毎回嫌味ばっかり飽きないな。ディルも、ゴミ相手にするくらいなら寝とけばいいだろ」
「おやぁ?」
アルカネットの憎まれ口よりも、暁の方が一枚も二枚も上手だった。
「誰でしたっけ、あなた」
「――……」
「んん、そういえばとっても地味な人が酒場に居ましたっけぇ? 名前まで覚えてないですねぇ。なにぶんウチはとっても忙しいんでぇ、関わりの少ないオマケみたいな人を覚えておく余裕は無いんですよぉ」
「お前……殺されたいのか!!」
挑発に乗って激昂し立ち上がったアルカネットだが、立ち上がった所で痛めた脇腹が動くのは危険と伝えて来た。鈍痛が付近一帯に広がったところで、顔を顰めて身を屈めるのが精いっぱいだ。
アルカネットが手負いだと分かると調子に乗り出す暁。手振りまで加えて、ディルの義弟を追い払おうとする。
「殺したい側が殺される側に首取られたんじゃ笑い話にもならないでしょ。怪我人じゃウチには勝てませんよ、大人しくすっこんでなさい」
「暁」
無感情を決め込んだディルの声が、暁を呼んだ。
「我が義弟を愚弄するのなら、其の胴と別れを告げて首のみと成る覚悟は有るという認識で構わぬか」
「……、ふふ。あー、そういえばアルカネットさんって名前でしたっけ? 嫌ですよぉ、ディル様も笑えない冗談ばっかり」
笑えないのはディルを含めた三人だってそうなのだが、暁は何も気にすることなく話し始めた。
今、城では毒殺騒ぎがあっている話。
その騒ぎに関与したと思わしき女中を捕縛した話。
昨晩の葬列の話。
触れを出していたにも関わらず、葬列の行進中に外に出ていた者達を捕らえて連行した話。
それだけならば、三人は表情を変えずに聞けた。
「王妃様直々の御下命です。ディル様、先程挙げた罪人達を王妃様の目の前で処刑せよ、との事でした」
ヴァリンとアルカネットが、同時に驚愕の表情を浮かべた。
あまりに悪趣味で、勝手で、命を何とも思っていない命令だった。それをにこやかな笑みで告げた暁も、既に常軌を逸している。
アルカネットと違って、ヴァリンは人の命を何とも思っていない節がある。けれどそれは悪人に限った話であって、あんな一方的な触れを守らなかったからといって民を手に掛けようとする神経が信じられなかった。民あっての国だと、ヴァリンは小さい頃から骨の髄まで教育されている。
「――ふん」
ただ一人、ディルだけは表情を変えていない。
「今からか?」
「ええ、早いなら早い方が良いですねぇ。罪人達も今のままでは苦しいだけでしょうし、一思いに神の御許とやらに送って差し上げた方が慈悲深いと思うんですよねぇ」
「承知。支度が出来次第向かう故、殿下にはそう告げよ」
「ディル、お前本気か!?」
声を荒げたのはアルカネットだ。
けれど本気かどうか聞いたところで、アルカネットには返る答えに予想がついていた。
ディルにとっての行動理由は、民ではない。酒場自体でもない。ましてやアルカネットでも。
首だけ動かしてアルカネットを見たディルは、いつもと変わらない無表情。それが演技か本気かも分からなくなる程のいつもの顔だった。
「我は、殿下に永劫の忠誠を誓った。国賊を葬るのは我の使命だ。殿下の命を果たさずして、我が妻は地獄にて我を労いはせぬ」
ただ一人だけに向けられた思慕だけは、演技ではないことをアルカネットもヴァリンも知っている。
元から狂人のようなディルだ。更に狂ったように見せかける演技だけは上手かった。
ヴァリンも、アルカネットも、演技の理由が分かっているからそれ以上声を掛けない。二人が黙っている間に、ディルは自室へ向かって行ってしまった。
「……ふ。ふふふ。うふ、相変わらず面白いくらいウチの娘と並べてもおかしくないくらい人形じみてますねぇ。もしあの人がウチの目の前で死ぬような事があったなら、ウチの人形として改造して使ってやりたいくらいです」
暁の冗談に、あからさまに不快な顔をした二人の視線が向いた。
怖い怖い、と茶化すように暁が口にすると、笑い声すら隠さずに扉を開いて、外へと身を翻す。そうして消えていく後ろ姿を、ヴァリンが舌打ちで見送った。
「っくそ、ディルを一人で行かせるなんて出来るかよ……!」
「……」
ヴァリンの苦悩は、ディルを一人にするか、それとも手負いのアルカネットを酒場に残すかの狭間で揺れていた。
これが忠誠を疑う王妃の罠ではないと言い切れない。けれどヴァリンは、アルカネットを置いて責任者不在の酒場の状態を作り出すのも嫌だった。
それに、城にはもう顔を合わせたくない奴等がいる。
色々な所で融通の利く王子の立場も、緊急事態では何の意味も齎さない。せめて、ミュゼとジャスミンが戻って来てくれていたら。そう思わずにいられなかったが。
「……お前も、行けよ」
アルカネットの言葉が、ヴァリンを後押しする。
「俺なら、大丈夫だから。アクエリアもじきに体調戻るだろうし、ミュゼもジャスミンも、きっと無事に戻ってくる。俺達は、お前らの居ない間もこの拠点を守る。だからお前らは、俺達に出来ない事をやってくれ」
「……アリィちゃん」
「帰りたくない、なんて、ディルの目の前じゃ言えないだろ。……お前以上に、ディルが行きたくない筈だから」
本当は言わずとも、アルカネットなら酒場の留守番なんて簡単にやり切ってくれるだろうことは分かっていた。
伊達に、この酒場で長く暮らしている男ではない。
返答は決まり切っていた。ヴァリンは頷いて、微笑を浮かべる。
帰りたくないなんて、確かに言える訳が無い。
ディルが行くのに。
アルカネットが後押ししてくれるのに。
「……じゃあ、頼むかな。まかり間違っても、俺達の知らん所でまたくたばろうとするんじゃないぞ」
「またも何も、くたばって無ぇよ。そっちこそ、下手こくなよ」
「言われなくとも」
甘ちゃんの癖に、と、本心ではない憎まれ口を叩くのは止めておいた。
「俺達が戻るまで、お前も気を付けろよアルカネット」
久し振りに茶化さずに名を呼ぶ。
一度だけ大きく目を見開いたアルカネットは、その意味を信頼と取って頷いてみせた。