207
「け?」
「声が大きい」
アルカネットが一階に起きて来れるまで回復したのは、日の傾く夕暮れ頃になってからだった。
目覚ましになったのは鳥の囀りでもなく、アルカネットの部下を運び出そうとする男達の野太い声。
手の空いた自警団員が、彼の身柄を病院へと移すために集まった。そうして運ばれていった彼は、酒場よりも清潔な場所での治療に専念出来るだろう。
その話を聞いて、アルカネットの胸にはディルやジャスミン達への感謝で溢れていた。これがもし、以前のように酒場を嫌っていた自分だったらこんな未来は望めなかったろう。
アルカネットの受けた傷も、一番酷いのは打撲くらいで酒場内を少し動くくらいなら問題は無い。
だから安堵するままに現在の状況を聞いていたアルカネットの耳に、疑うしかない報告が届いた。
「……喧嘩ってどういうことだよ」
ミュゼと。
アクエリアが。
喧嘩して破局しそうだ。
気まずそうにその話を伝えて来たヴァリンの眉が下がっている。好き好んでこんな醜聞を伝えているような顔では無かった。
アルカネットの視線が、一階の隅にあるテーブルへと移動する。
灰皿に山と溜めた煙草の吸殻と、溢れかえる程並んだ酒瓶。それらを掻き分けるようにして突っ伏している、紫色の髪を持つひとりの男。
喫煙者であるアルカネットでも、煙の残り香に顔を顰める程だ。普段人前ではあまり煙草を吸わないアクエリアだが、今日は精神的にとことん落ち込んでいるようだった。
「ちょっと……あってな。『私の知らない所で幸せになれ』っていう向きの言葉言われたそうだ」
「……だからあんな調子なのか」
「このままじゃ俺が飲む酒まで空にされてしまう。どうにか、あいつが分かりやすく沈んでるどん底から這い上がらせたいんだが……どうしたらいいと思う」
「俺に聞くのか、それ」
ミュゼは少し素直ではない面をアクエリアに見せていた。でもそれはアクエリアに対する甘えみたいなもので、他の面々には実直で誠実な女だ。
アクエリアはその逆で、皮肉屋だった筈なのにミュゼの前だと素直になる。恋人同時になればそれに拍車をかけ、二人は邪魔者の入る余地も無い程の仲になった、筈だった。
その二人が別れそうだと聞き、実際アクエリアが自棄酒に因る酩酊状態であれば今の話を信じるしかない。
「そういうの、惚れさせて情報引き出させてたようなお前達みたいなのが得意じゃないのか。『風』の任務にそういうのあるって聞いたぞ、そういう惚れた腫れたでいざこざが起きた時の接触方法とか教えてやれよ」
「馬鹿、俺がそういう任務に就いてる訳ないだろ。まかり間違って王子の落胤なんてあったら大変な話になる。だから知らん」
「使えない奴」
「何だと」
アルカネットの軽口にムッとした顔をするヴァリンは、年齢相応の顔だった。それが面白くて笑った途端、脇腹が痛みを訴えた。完調といかない体が、今は恨めしい。
「……何笑ってんだよ」
「いや、お前最近柔らかくなったなって思ってな。これまでだったら甘く見るなって絶対キレてた」
「変わりもするさ、張る意地も無くなったし。……どうせ俺は使えないよ、もう国庫さえ碌に引っ張って来れない穀潰しになっただけだからな……」
「拗ねるな。嘘だよ、お前は出来る範囲で良くやってるさ」
「知ってる」
したり顔でそう返すヴァリンは飄々としていた。
友人なんて言葉を使うには今更過ぎるが、利害が一致していて馬鹿話も出来るとなればそう呼ぶのに差し支えは無い。
問題は、二人にとってそう呼んでも構わないと思っているもう一人が隅で沈没していることだった。アルカネットがそちらに視線を向けると、ヴァリンも同じ場所を見る。
「……喧嘩って言ったって、どっちが悪かったんだ」
「アクエリアだろうな。俺は知らん、俺は悪くない」
「その言い方……お前も噛んでるのか、その話」
「……ミュゼの過去が気になってな、追求しようとした。俺は途中で抜けたが、あいつはしつこく聞こうとしたらしい」
「聞く側が悪いな。訳あり女の昔話なんて、聞いたっていい事無い。ミュゼが言いたくなった時に聞けば良かったんだ、しつこく聞くもんじゃない」
「お前、あっさりしてるな? 気にならんのか」
「お前は気になったか?」
「……俺は。……ソル相手なら気にならなかった。でもミュゼ相手なら気になるな。未来永劫連れ合う相手じゃなくて、命賭ける仲間だと言うなら、信頼関係こそ大事じゃないのか。それに一回でも話を聞いていれば、もし何かしら必要そうな情報があれば分けてやれるだろ。お前にとっての妹の話と同じだ」
あー、とアルカネットが間延びした声を出す。
ヴァリンは長い間性質を知っている相手ならいざ知らず、新入りの性質は気になる男だ。短期間で信頼を深めようとするのなら、その人物の『痛い所』を知っていた方が良い。そうすれば、相手の『痛い』から守ってやれるから。
しかしミュゼにとっては過去を聞かれること自体が辛い事だとしたら。アルカネットはそう考えて、判定をアクエリアとヴァリンの有罪に向けた。
「ミュゼの心も労わってやるべきだったな、アクエリアの自業自得だ。俺達より長い時間生きてるような交渉役が、恋人への交渉失敗であんな状態とか目も当てられない。お前も噛んでるっていうのなら一緒に謝ってやれよ」
「俺もアクエリアも完全無視で、ミュゼはジャスミンと一緒にフュンフの所に回診に行ってるよ」
「回診? ……ああ」
フュンフが体調を崩した、という話は聞いている。実際彼の所にジャスミンと供回りが向かったのも見た。その後にミシェサーから熱烈な『お誘い』を受けたのだ。あの時のミシェサーの瞳は完全にアルカネットを捕食する気でいて、一も二も無く酒場を逃げ出した。
逃げたその先に自警団詰め所を選んだのは幸か不幸か。ディルとアクエリアを呼べた事で、最悪の可能性だけは潰す事が出来た、のだが。
「……」
守り切れなかった仲間が、死んだ。
殺し殺されには自分なりに慣れたつもりでいた。けれどそれが仲間と呼べる立場の同僚だったから、アルカネットが思い出して気分も沈む。
ヴァリンは、アルカネットの思考を全て分かっている訳では無いが、顔を見れば気落ちするような事を考えていることくらい分かる。
「なぁ、ミュゼの好物ってお前知ってるか?」
話を戻すように、まずは他愛ない話から。
アルカネットの表情は、まだ浮かないが。
「……知らんな。あんまり、そういう話をした事もない」
「そうか。俺も知らん。あそこで芋虫みたいに突っ伏してる奴が謝罪しようにも梨の礫じゃ、どうしようもないだろう? 何か気を引ける物があればいいと思うんだが」
「……花でも果物でもなんでも渡してみればいいんじゃないのか……。好物とか好みとか、それこそあの芋虫の方が知ってるだろ」
「その芋虫が知能まで這いつくばってるから聞いてるんだろ。小細工するにはミュゼが居ない今が一番だって言うのに」
「もう放っておけよ。俺もお前もなんだかんだ忙しくて芋虫の尻拭いしてらんないだろ」
「……俺を芋虫芋虫と……好き勝手言うんじゃないですよ……」
煙草と酒でがざがざに掠れ切った声が、二人の耳に届いた。
芋虫呼ばわりの男は、今も頭を上げられずにいる。
「俺に非があったかも知れないのは認めなくもないですが、貴方達に芋虫とか言われるのは我慢なりませんね……」
「その体勢で言われてもな。いい加減起きろ」
「話は聞いたが聞く限りじゃお前に非しかないんだけどな? どこまで不遜なんだお前」
「煩いですね、俺から見栄抜いたら何が残ると思ってるんです」
「もう黙ってろ芋虫」
「俺は芋虫じゃなくてダークエルフです」
うねうねテーブル上でゴネている姿を蔑む言葉があるとしたら、芋虫が丁度いい。
そしてそんな芋虫を気にかけているのはもう一人いた。部屋から出て来て、いつもの定位置に向かおうとしていたディルが男三人の姿を見つけてカウンターの側で足を止める。
「芋虫は卵から生まれると学んでいたが、ダークエルフは芋虫に変態できるのかえ?」
「お待ちなさい誰が変態ですか」
「お前実は馬鹿だな?」
ディルのすっとぼけた言葉にやっと顔を上げたアクエリアは、酒に強い筈なのに真っ赤な顔をしている。まだ酒気が抜けていないらしい。
天然馬鹿であるディルの発言にアルカネットが笑いを堪えて脇腹を押さえる。再び痛みがぶり返してきたようだ。
「全く、此の忙しない時期に飲み潰れる暇が有ると思っているのかえ。汝の役目はまだ終わっておらぬぞ、早く蹴りを付けて働け」
「……ディルさん、貴方は自分の嫁から心底馬鹿みたいに愛されてたからそう言えるんですよ……。俺みたいな、別れの言葉言われて必死で繋ぎ止めたい気持ちなんて理解出来る筈ないでしょ……」
「芋虫の気持ちなど我に理解出来ようも無い」
芋虫呼ばわり三人目。アクエリアは脱力して頭を下げるも、速度を誤って強かにテーブルに額を叩きつけた。
ヴァリンは無様に顔を顰め、アルカネットは笑いを堪え切れずに噴き出し、ディルはいつもの無表情。
「……他人の気持ちというものは、理解しがたい事象だ。自分の感情すらも正確に理解しなかった我からすると、戦場で最前線に飛び込み司令官を生け捕りにする程に難度が高い。首を刎ねれば直ぐに解決出来るものであるのにな」
「お前例えがいちいち物騒なんだよ」
「身体を繋ぎ止めるに一番簡単なのは、其の命を奪う事であろう?」
恋愛関係に於いては物騒この上ないディルの持論に、三人が一斉に視線を逸らす。真っ当な恋愛経験がほぼ無い男の意見を聞くのが間違っていた。
それでもディルの語りはまだ続く。それも、予想外の言葉を伴って。
「だが、芋虫――否、アクエリアが望むのはそうではあるまい。相手の『心』が欲しいなら、自分の心を詳らかにした上で再度誠心誠意謝罪をしてミョゾティスへ尽くすしか無いであろ。互いに未だ夫婦に成ると決めた時の想いが有るなら、折り合いを付ける事も可能な筈だ。その額を擦り付ける先を床にでもミョゾティスの靴先にでも変え、煙草の臭気残る其の口で謝り倒せ。一生を尻に敷かれても構わぬと覚悟が出来るなら、あの者を手放すべきではない」
表現は難解だが、言っている事は至極真っ当だった。
『謝れ』『包み隠さず自分の思いを話せ』『結婚したいと思う程愛しているなら別れるな』。
面白みこそ無いが、模範的な回答だ。ディルの口から常識的な答えが出たのが意外で、三人が三様の驚いた顔をする。
一番付き合いの長いヴァリンでも、その意外さに思考がついていかない。人形が命を持った生き物に近付いている気はしていたが、こと恋愛が縺れた話で真人間並みの発想が出来るとは思っていなかった。
「お前の口からそんな言葉が聞けるとは思わなかった」
「……」
褒めているのか貶しているのか微妙な評価をアルカネットから受けて、ディルが一度目を伏せる。
暫く黙って、次に口が開く時、聞こえるのは妻が愛した声色だった。
「我が万が一、妻に失態を見せる時が有ったなら。あの者が激怒する事態に成ったとしたら、我とて……そうするであろう」
「……」
「永劫、怒らせる事も謝罪する事も、最早無いのだと思っていた」
ディルの言葉に同調するように、ヴァリンが頷いた。
「俺も……そうだな、他の誰を怒らせても、ソルを怒らせた時ほど俺が焦る相手っていないんだろうなって思うよ。いいなぁ、アクエリア。俺もお前みたいに芋虫になりたい。それって怒らせる相手が生きて近くに居るって事だろ。今の俺なら見栄とか矜持とか全部投げ捨ててでも謝るよ。……俺には、もう出来ないけど」
皮肉でも嫌味でもなく、心からの羨望だった。
愛する人が傍に居る、それだけでもディルとヴァリンにとっては尊い世界だ。想う相手が傍に居なくて、その思い出で食い繋ぐように生きている二人だから。
意固地になっているアクエリアも、二人の悲しみは知っている。だから、自分が折れるべき所を考えていた。
「……謝るったって、許して貰えるかも分かりませんが」
「許されぬ時は別れる時であろ。許しを得るまで謝れ」
「八十年後に出直せって言われたんですよ……。結構本気で怒ってるんですよミュゼ……」
「その頃には俺もディルも、もしかしたらミュゼも土の中かもな。墓にでも求婚するつもりかお前」
「……」
ヴァリンの煽りは、渋々といった様子のアクエリアの決心を固めるものだった。
謝りたくない訳では無い。けれど、彼が彼として生きて来た長い時間は謝罪の仕方を忘れさせていた。口だけなら何とでも言えるけど、本心を伝えないときっと彼女は離れていくから。
のそのそと上体を起こすアクエリア。酒を煽りすぎて胡乱な瞳だが、それで潰れる程酒には弱くない。
「……いつ、ミュゼは戻るでしょうね」
「さてな。ジャスミンの回診の護衛だから、問題が起こらない限り早く戻って来るだろ。それまでに謝罪内容を考えとけよ」
ミュゼが居ながら不測の事態はないだろう――そう思っている男達の考えは、間違いではない。
けれどこの異常事態に、他の横槍が降り掛かると考えていなかったのは油断で。
酒場の扉が、大きく打音を響かせた。
中に居る全員がそちらを見て、アクエリアは側の窓から外の様子を窺う。しかし、扉を鳴らしたらしい人影はすぐに立ち去って行った。
「……何だ?」
悪戯か、と誰もが思った。
しかし扉まで様子を見に行ったディルは、扉の下から無理矢理差し込まれたであろう配布物のような紙片に気付いた。拾い上げて、内文を見る。
大きく見出しとして書かれているのは、国王崩御の報だ。
同時に、国王の棺に騎士が伴い、街を儀式としての葬列が十番街から四番街まで進んで引き返すという。葬儀自体は十番街で行うが、国王へ最期に街の姿を見せるのだと。
その時に、建物の外へ出ていた者は捕らえる、と。
「……ヴァリン、此れを見よ」
「何だそれ。……は? 葬列が来るって? ちょっと待てよ、二番街が消失したってのにか。俺聞いてないぞ」
「聞いていないのは当然であろうな。既に汝は、次期国王ではない」
葬列が街を進むのは、今から三時間後となっている。あまりに急な話だ。
紙片に捺された印は、間違いなく王家のものだった。見覚えのある文様に、ディルとヴァリンが同時に舌打ちする。
この情報は、ミュゼやジャスミンの元に届いているだろうか。十番街の王立施設で届いていない訳は無いだろうが、彼女達の身の安全が一番大事だ。
こんな緊急事態に、アクエリアは立つのも危険な程酒を煽っている。
「葬列は三時間後に街を巡る。其れまでにあの二人が戻れるとも限らん。此処には葬列が出ている最中に外に出ている者は捕らえると有る。外には決して出るな」
注意事項を述べている間、アクエリアが理解していない顔でディルを見る。
瞬く瞳が、話を半分も理解していそうにないほど胡乱だった。
「……ミュゼは……?」
理解出来ないのは、酒のせいだけでは無く突然の話に余計に頭が働かないからだ。
「戻りが何時になるか分からぬ。下手を打たぬと思うが、明日以降になるやもな」
アクエリアがその言葉を聞いた時、胸に過ったのは愛する人の戻りが分からない焦りか。
それとも、謝罪を後回しに出来る事から来る安堵か。
そのどちらも言うことなく、アクエリアは再びテーブルに額を下ろす。今度は、ヴァリンが揺すっても起き上がらなかった。