206
「親戚……って、ディル。そんな言い訳通用すると思ってんのか」
面倒臭い奴が来た。ヴァリンの瞳は、そう語っていた。
大人しく妻だけ見ていればいいものを、ディルはミュゼに肩入れしすぎている。それが恋愛感情でないことはヴァリンだって察しているが、だからこそ何故ここまで味方をするのかが分からなかった。
いい意味でも悪い意味でも、ミュゼはこの酒場に無くてはならない人物になりつつある。こんな短い期間で、誰も彼もが信頼を置くようになってしまった。
それは不本意ながら、ヴァリンでさえも同じ。
「言い訳では無い。我が妻の母方の縁者の戸籍は、此の国には無い。妻より二代遡った先から繋がるのがミョゾティスだ。戸籍が無くて当然であろう、妻の母は他国より嫁いで来た身の筈だ」
「……お前、それだけの話をずっと隠している意味ってあったと思うか? そんな薄い話を勿体ぶって聞かせないって理由は」
「有る。親戚である事を公表しないのは、ミョゾティスの父親に理由が有る。育ての親が居ると言っていたであろ? 此の者にアルセンでの戸籍が存在せぬように、父親は、此の国の者ではない。そしてそれを汝に告げるのは、些か不都合がある」
「……他国の要人の子って言いたい訳か?」
「勿論、ミョゾティスとアクエリアの婚姻に其の事実が不都合になるならば、我にも多少考えが有る。妻が戻って来次第、年齢は近いであろうが我等の養子として組み込んでも構わん」
「――は!?」
「そうだ。其の反応。其れこそが、ミュゼが厭わしく思っていたものであろうな」
ぽんぽんと出任せを言うのはディルの方が得意だった。昔仕えた王家を相手取り、耳障りの良い言葉を吐く覚悟はここでまで発揮される。
一瞬だけ目配せをして来たディルの意思を読み取って、ミュゼもその場で悲痛な顔をして見せた。最初から嘘の例を示されれば、その通りに話を合わせようと頭が働く。
「……うん。色々と……今は、聞かれるの、嫌かな。マスターが……私を、養子にしてくれるって……そしたら、この国でも色々と手順踏まないといけないだろうけど、アクエリアと問題なく結婚できるかなって……前から、相談していてね」
嘘を、吐かないといけない。
最愛の人にも、自分を信頼しようとしてくれる人にも。
そんな自分が不甲斐なくて、それでもミュゼの為に偽りを並べるディルの想いも無駄にはしたくなかった。
「っ……でも、カッコ悪いじゃないか……。私は……アクエリアに、この国から逃げた方が良いって言ったんだよ……? それなのに、本当は……離れたくないだなんて、一緒に居たいだなんて、言えないよ。だから、全部蹴りが付くまで、黙っててって……マスターにも言ってたんだ」
「……ミュゼ」
「……こんな話、今、したくなかったよ。ごめん、先に皆で食べてて」
こんな嘘を吐くしかない状況に、涙が溢れそうになる。
吐きたくない嘘を吐いて、その前に吐かせたくない嘘をディルに吐かせた。
涙を無理矢理言わされたせいにして、ミュゼは涙を拭って自室に向かう。こんな嘘でしか誤魔化せない、自分の状況に腹が立つ。
「……待ちなさい、ミュゼ!」
婚約者の涙を見ては、アクエリアもそのままじっとしていられない。放っておいて、と同意義の言葉を無視して、階段を駆け上がって行った。
二人の後ろ姿を見送ったディルとヴァリン。ヴァリンは、扉が閉まる音が聞こえると同時溜息を吐いて。
「……お前、結構嘘が上手くなったよな」
何もかもお見通しだ、とでも言いたいように呟いた。
「嘘、とは?」
「お前、嫁帰って来たらこの国から逃げるつもりなんだろ。それなのに養子としてミュゼを組み込むって……無理がある話じゃないのか」
「無理はない。其の時は、アルセンの戸籍を参照できる国に逃げる」
「年齢、そんな離れてないだろ」
「遺産分与での養子であれば前例は有る。唯一の問題は妻に意見を聞いていない事だけだ。……己が身の救出を手伝った女ならば、否も言えないであろうが」
「俺は、何の為にお前がそこまでしてミュゼを庇っているのかも知りたいよ」
それら全てが嘘であると、ヴァリンは考えている。
実際そうだ。ディルの言葉はその場しのぎの嘘でしかない。ヴァリンが信じる筈がない。
アクエリアは――今現在、色恋で目が曇っているから、どうだろう。
「では、何か。汝は、『ミョゾティスが百年後の未来から来た我等の子孫で、我が妻が死ねばあの者が生まれぬ故我に協力している』とでも言えば納得したかえ?」
「………」
ヴァリンはディルの言葉に目を瞠り、瞬きを繰り返し。
「……お前、そんな冗談も言えるようになったのか……」
真顔でそう言うから、ディルの思考を裏切らない。
荒唐無稽な事実も、茶化して言えば冗談にしか聞こえない。そう思って述べたら案の定の反応をされた。
「冗談も詭弁も覚える。今までが言う必要が無かっただけだ」
「必要ならあったよ。お前、いっつも不愛想で冗談のひとつも言わなかったから」
「昔話をしている暇があるなら食事を摂れ。ミョゾティスが作ったのであろ、冷えるぞ」
卓上に放置されているグラタンは、分けられたものは既に表面が固まってしまっている。アクエリアの分として分けられたそれにディルが手を伸ばし、一塊になったチーズを一口で頬張った。
ヴァリンもそれに倣い、苦笑を浮かべながら椅子に座って食事を開始する。固まったチーズは、匙で切り分けようとしても難しい。
「俺、話聞くの諦めた訳じゃない。……全部終わった後からでも、聞かせてもらうことにするからな」
「そうか」
「俺の善意は無償じゃないんでね。あいつから金をせびろうとは思わないけど、それ相応の対価は欲しいよな。……それも可能な限り、『なんだ、それでいいのか』って思われるくらいのものが良い。でも、ミュゼにとっての昔話ってのは、簡単に笑って話せる内容じゃないんだな」
「……」
ディルはそれ以上、何も言わなかった。
二人の食事は、暫くしてダーリャが起きて来て「おや、朝食ですかな?」とにこやかに話しかけられるまでそのまま続く。二人は逃げ帰るように自室に戻っていった。
「待ちなさい、ミュゼ!!」
自室に戻るミュゼの所へ押し入ったアクエリアは、血相を変えて部屋の中でミュゼの肩を掴んでいる。
ディルが話した内容が全て真実かは分からないが、アクエリアにとって一番重要だったのは話の内容じゃない。
普段からあまり涙を見せないミュゼが、言葉に詰まりながら泣いていた。
婚約者が涙に頬を濡らすところを黙って見ていられる男ではない。アクエリアは少なくとも身近な者には優しくて、それが愛する人となれば別格だ。
「……」
「ミュゼ。……謝りませんよ。俺は最低ですからね、貴女の話を俺も聞きたかった。出来たら、貴女の口から聞きたかった。俺の事を知っていて、好きだと言ってくれた同じ口から」
「……。うん。ごめんね」
背中を向けたままのミュゼが震えている。
「俺はまだ、貴女の話を聞くに値しなかったんですか。あんな話で終わりじゃないでしょう。あれだけじゃ、俺の事を知っていた理由に届かない。俺の生きて来た時間の大部分の情報は貴女の中にある。けれど、俺の中には、貴女の生きて来た時間の情報はこの半年程度と少ししか無いんですよ」
「……」
「我慢しましたよ。貴女が今まで誰と生きて来たかも知っていますが、育ての親の話だって俺は嫉妬しながら聞いていました。彼は貴女に普段はどう接していたのかとか、貴女はその育ての親を憎からず思っていたんだろうなとか。全部俺は今まで聞きたくても我慢して、いつか貴女が自分から俺に教えてくれる日が来るんだって、ずっと耐えて……」
「うん。……うん」
「……ちゃんと聞いていますか!?」
「……聞いてる、よ」
アクエリアの激昂は、ミュゼの恐れていたもののひとつ。
こうなってしまえば話さない訳にはいかないだろう。話して、フュンフやディルの時のように消えかければ納得するのか。それとも本当に消えてしまうまで、話さなければ止まらないのか。
消える事を目の前で証明してどうなる。
ミュゼが消えたら一番苦しむのは、アクエリアじゃないのか。
「……アクエリア。私はね……、言いたくても言えないのには理由があって、ね」
「さっきも聞きました。理由って何ですか。話す事で貴女の身に害が及ぶとでも?」
「及ぶ……って言っても、アクエリアはその目で確認するまで納得しないだろ? 本当の本当に、言いたくない。フュンフ様もマスターも、事情を察してもう話さなくていいって言ってくれたんだ」
「俺は、それでも聞きたい。貴女の身に害が及ぶなら、それが何であれ貴女を守りたいとも思う」
「っふふ。そっかぁ。うん、じゃあ良いよ。……お前はちゃんと私を守れるかなぁ?」
肩に置かれた手を振り払うようにして、振り返ったミュゼ。
その瞳には涙が浮かんでいる。
後頭部で揺れる一つ結びの髪が、窓から差し込む光を浴びて薄く透けるように輝いた。アクエリアの瞳には、窓から背を向けている筈のミュゼの頬の、流した涙の跡が光ったように見える。
「――私の本名はミョゾティス・E=エステル。年齢、多分二十六。性別、女。リーニュとシャスカを父母に持ち、小さい頃死別。以降はエクリィ・カドラーが育ての親になった」
朗々と自らの出生を語るミュゼの頬は、こんなに明るい色をしていただろうか。日の光のせいかと、アクエリアが誤認しかける。それが本当に日の光のせいであっても、一番気付かなければいけないことに気付くまで時間を要した。
「アルセン王国城下出身。中でも『穂積地区』って呼ばれた場所が一番馴染み深い。ずっとエクリィは、家族を失って寂しかった私に色々な話をしてくれた。エクリィが知ってる昔話に、私の両親から向こう三代前の話まで。エクリィは私の血筋を守ってた立場だったから」
「……ミュゼ? ……それ、何なんです……?」
「最初にお願いされた『アタシの子供達を守って』をずっと律義に百年も守り通してるんだよ。笑っちゃうよねぇ。でも私に厳しくしたのは今でも納得いってないよ。……話が逸れたね。ここからが本題だ」
「ミュゼ」
ミュゼの髪、どころの話ではない。
その髪も、頬も、首や足や手の指さえも。服に隠れていない肌の部分が、全てミュゼの向こうの景色を透けさせていた。
窓枠が、ミュゼの瞳のすぐ側に見える。衣服と靴の間から僅かに露出した踝より上の肌は、床の木目を透過させている。木目の線が徐々にはっきりと見えるようになっても、ミュゼの表情は変わらない。
窓から背を向けている以上、頬が光に照らされる訳がないのだ。そんな簡単な事にさえ気付けない程に、アクエリアはミュゼから話を聞き出す事に執心していた。
「ミュゼ、先に説明してください。貴女の体が、透けているのは、何故ですか?」
「私が知るかよ、んな事。ひとつだけ分かるのは、それをお前が選んだんだって事だけだよ。……話を続けようか。私の居た穂積地区は、城下の中でも治安は並み程度だったかな。でも毎日のように人が死んでて、次はお前の番かもなって脅されながら生きて来た。私は守られてばっかりだった」
「ミュゼ!」
「黙って聞いてろ!!」
声を荒げるミュゼは、捨て鉢になっている。八つ当たりと言ってもいい。
聞きたいと言ったのはアクエリアの癖に、予想を超えた理解しがたい現象が起こると顔色を変える。それで説明しろと言われても、聞きたい事はひとつに絞れと怒鳴り返したくなる。
お前のせいで。
お前がいるから。
お前を、愛したから。
だからこんな目に遭ってるんだ。
だけど本当は。
「私を育てたエクリィはずっと偽名を使ってる。本名は指名手配されてるんだ、それどころか姿形から小細工で変えてて、私が生まれる前からずっとそんな苦労ばっかりして来た男だ。私が生まれなかったら。エクリィが、そんなお願いを律義に聞き続けてなければ。きっと、もっと楽に生きられたんだろうなって思う」
ミュゼがいなければ。
ミュゼより前の代がいなければ。
エステル姓に関わることになる一番最初から、そもそもの始まりがなければ。
エクリィは。
アクエリアは。
何も知らずに幸せになれたのかも知れない。
「エクリィの本名は――」
ミュゼの言葉は、そこで止まる。
消えかけた指の先から、アクエリアの手が包んで。
強く引かれた先の胸の中に飛び込まされて、その勢いのまま床に膝から崩れて。
色の薄くなった唇を、唇で塞がれたから。
それまでの威勢も消え去って、放心しているミュゼの体がそれまでの透明度を失って、床の木目を透過させないようになるまで、アクエリアはずっとそのままだった。
「……そういう理由なら、俺は聞いたりしなかった」
弁解のような言葉で、事が終わる訳でもない。抱き締めるのに力を入れ直したアクエリアは、ミュゼの肩口に顔を埋める。
「貴女、話すと消えるんですか。俺に聞かれるからですか。俺が知りたい事が知れないのは、このせいなんですね」
「……最初、フュンフ様の前で消えかけた。マスターの前でも同じだった。何度本当の事を言えたらいいかって思ったか分からない。なのにアクエリアは、私の悩みも無視した」
「……すみません。もう、二度と聞きません。貴女を、妻になる人を失うのは、絶対に嫌です」
「………離して」
接触を拒否するミュゼの声は低く冷たい。怒りに触れたのだと悟っても、もう遅い。
それでも腕は離せなかった。一瞬でもミュゼを喪うかも知れないと思った恐怖が蘇って来て、逆に体が強張ってしまう。
「離せ、アクエリア」
「……もう少しだけ。駄目ですか」
「駄目だ」
温もりとは程遠いミュゼの声が否定を返し、力尽くで腕を解きにかかる。
床に付いていた膝を上げて立ち上がり、まだ体勢を変えないままのアクエリアの背中を押した。
「出て行って。もう私の部屋に入って来るな」
「ミュゼ……! すみませんでした! もうしませんから!!」
「当たり前だろ。二回目なんてあったら刺してやる。でも、もういいよ」
ぐいぐいと押されるがままに、しかし口では謝罪を繰り返すアクエリア。
ミュゼの瞳には、失意が涙となって浮かんでいる。
「二回目なんて無いくらいに関わらなかったらいいだけだから。私はアクエリアの事愛してるけど、お前はお前に隠し事をしない素直な相手を見つけるのが一番良い。大丈夫、お前ほど顔も良くて口も上手い男ならすぐに次が寄って来る」
「……ミュゼ!? それ、本気で言って……」
「『守る』って言っておきながら結局口付けで誤魔化して終わらせる男は私には要らん。せいぜい私の知らない所で今度こそ幸せになりな」
秘密ばかり抱え込んでいる自分では幸せにしてあげられないと、痛い程分かってしまった。
部屋の外にアクエリアを放り出すと同時、絶望に歪む彼の瞳と目が合った。
「八十年後に出直してこい」
扉を閉める間、その瞳から目を逸らさずにいられたのはアクエリアを本当に愛しているから。
最後の礼儀として、別れを自分から切り出してやれた。
扉は閉まる。
アクエリアはその扉に指を掛けようとして、何も言わずに手を引っ込めた。