205
ディルにとっての休息は、途中で目覚める途切れ途切れの睡眠と胃に流し込む食料で事足りる。
それでは体がもたないと誰もが言うが、それで慣れてしまった体だから仕方ない。
来るべき日に備えて、体力は付けておいた方が良いとも言われる。
けれどその時も、どうにも眠る気になれなくて体は無意識に本棚へと向かう。
「……」
初代店主が買い求め、妻も使った本棚だ。けれど妻は本を頻繁に買ったり読んだりする性格ではなかった。
そこに並ぶのは、今やディルの本ばかりだ。いつぞやに馴染みの店主に文句を言われながら買った本も、あれから手付かずで収められている。
気の向くまま、本の一冊を手に取った。表題は本を選ぶのに関係なくて、手に取ってから題を見る始末。
本でも読んでいれば眠気は来るだろう。そう考えたディルの思考は、ある意味正しかった。
「……」
私室のソファの座面に体を横たえ、最初の数頁は読んだ気がする。
けれどその先はいくらか頁を捲った気がするのに覚えていない。気付けば顔に本を伏せ、微睡みに身を任せていた。眠っていたのも僅かな時間だろうが、既に太陽は正午の位置まで上りつつあるらしい。
眠る瞬間のことなど覚えていない。けれど起きたディルは、違和感を覚えて身を起こした。
揺れている気がする。地震の感覚を、体が忘れていないのだ。
朝日が差し込む窓幕を見ても揺れていない。
部屋の中の何も、音を立てていない。
だから気のせいだろうと、そう思ってもう一度体を横たえた。
その時だった。
鐘が鳴る音が、ディルの耳に届く。
それは時間を知らせる為の物ではなく、窓さえも細かく振動するような重く大きい音。
誰が聞いても緊張感を齎すような、腹の奥に響く不吉な音だ。
「……、ああ」
漏れた声は読書を続けていた故の疲労か、それとも嘆息か自分にも分からない。
ディルがその音を耳にするのは初めてだ。今鳴っている鐘が何処に有るかは知っているし、それを鳴らす役目は『月』隊長、もしくは副隊長である事も知っている。鼓膜を揺らす音に、ディルは本を読む手を止めて窓の外を見た。
窓の外で鳥が飛んでいる。鴉だろうか、黒い羽根を持つ鳥だ。
まだ雪の降る季節でもない。だから、見送る者達は肌を刺すような寒さに耐える事はないだろう。
かつては、自分の『仕事』の領域だった鐘の音。暫く止まないその音を聞きながら、黙祷を捧げるために目を閉じた。
王城から重く深い鐘の音が聞こえる時は、王家の誰かが死んだ時。
それらが知識にある元『月』隊長のディルは、暫くの間、閉じた瞳を開ける事はしなかった。
「……この音は……?」
酒場『J'A DORE』の面々は、起きて来た者は朝食の準備をしていた。
朝の空色さえも揺らすような、響き渡る低い鐘の音。ジャスミンが憩いの朝食時間の為に酒場の卓を拭いている時に聞こえた音に、怯えたように眉を下げた。
「……何でしょうかね。俺も初めて聞きますよ」
「アクエリアさんも初めてなんですか?」
飲み物を用意していたアクエリアも、初めて聞く不快な音にジャスミンと顔を見合わせる。音は遠く、何処から聞こえて来ているのかも分からない。
ミュゼは厨房から、天火で焼いた大きなグラタンを持って出て来ていた。手には火傷防止の料理用手袋を着け、焼き加減にご満悦だ。
「見て見て二人とも。ここ最近で一番の焼き加減」
「ミュゼ、貴女はこの音聞こえないんですか」
「聞こえてるけど? あーね、って思っただけ。この音はずっと変わらないんだなって不思議な感じもする」
ただの食卓と化した酒場の客用のテーブルに、鍋敷きを引いてグラタン皿を置く。取り分ければ皆で食べられる量で、足りない時は予備として材料を別に厨房に用意してある。
ミュゼの表情は、全てを知っているかのようなものだ。それが不気味で、ジャスミンが不安げな顔を隠さない。
「……この音はね、アルセン王家の誰かが死んだ時に鳴らす鐘の音だよ。……誰の為の鐘かは……言わなくても分かるよね?」
「王家の……? 国王への弔いの鐘ですか。成程、だからこんな朝っぱらから不愉快な音を聞かせている訳なんですね」
「『空高く響け、天高く届け』ってね。冬に入る前で良かったんじゃない? 寒くなると、国民だって弔いどころじゃないだろうしね」
グラタンを分けながらふんふんと鼻歌を歌う、その旋律は讃美歌だ。同時に、ジャスミンとアクエリアに疑問が湧いた。
「……ミュゼ、何故知ってるんです」
「あ」
しまった、とミュゼが皿を手元に寄せながら失言に気付いた。自分の詰めの甘さに呆れ、視線は明後日の方を向く。
答えに窮していた時に、都合よく階段から誰かが下りて来る音が聞こえた。同時に、声も。
眠気を隠さない欠伸をしながら、ヴァリンが一階に姿を見せる。
「この鐘が最後に鳴ったのは、先代王妃の崩御の時だ。二十年くらい前になるかな、滅茶苦茶昔の話って訳じゃない」
「先代王妃……って、ヴァリンさんの」
「俺もまだ子供だったが、この音だけは覚えてるよ。忘れられるものか、死の概念さえ無かった俺から、この鐘の音が母を奪っていったと思ってな。次また鐘が鳴ったら家族が誰か居なくなるって思って、死を理解するまでいつ鐘が鳴るかも分からず怯えていたよ。因果は逆だってのにな」
「ヴァリンの子供の頃……」
横暴で横柄な王子騎士の幼い時分、と言ってもその場にいる者には想像がつかない。
汚れを知らない純真無垢な時代があるのは当然の話なのに、ヴァリンは例外のように感じてしまってミュゼとジャスミンが同時に首を捻る。
「……お前ら、俺で失礼な想像してないか?」
「していませんしていません」
「してないしてない」
「……この鐘が弔いの鐘だと言うのは分かりました。ミュゼ、貴女は聞き覚えがあったのですか?」
「……うん、……まぁ」
勝手に納得してもらえるならそれに越したことは無い。ミュゼは与えられた逃げ道に曖昧に返事をして、それで話は終わった。
ジャスミンのグラタンを手早く分けると盆に乗せて彼女に渡す。アクエリアが運んできた自警団員はまだ目を覚まさず、付いていてやりたいと言ったジャスミンの意見を尊重した形だ。
礼を言って部屋に下がるジャスミンに手を振るミュゼ。その後、ヴァリンとアクエリアの分を分けようとした時。
「……まぁ、鐘の音が聞こえるのも、城下に居ればこそだろうけどな」
「………」
「この国に戸籍無いお前が、そんな昔にどうやって聞いたんだって話になるんだが……」
ミュゼの手が、ヴァリンの言葉に動きを止める。
追及されたくない話を蒸し返されて、瞬きの回数が増えた。混ざり子の証である半端に長い耳が、僅かに震えるように動く。
「ミュゼ、お前さ。この酒場に身を寄せてからも、不思議なことばっかりなんだよな。戸籍ないのは別に良いけど、この城下に入り込んだ時期を調べようとしたけど、履歴にお前の名前無かったよ」
「……その時は、違う名前使ってたからかなぁ……?」
「嘘つけ。そしたら今でもその偽名使うだろ。潜入した先でまた違う名前使うとか、国に目を付けられたら面倒臭い事お前がするとも思えんしな。それに、最初お前が居た場所は貧乏くさい孤児院だ。……お前、ディルの嫁の件であいつと接触しようとしてたらしいけど、何の為にだ?」
「……」
少しの間、ミュゼと関わって、ヴァリンだってこの女の性格は少しだけだが分かってきた。
合理的で冷静だが、情に流されやすくて時々心配になる程純情で、豪胆でありながら繊細な一面を持っている、一言で言い表せられない女だ。
だから、ヴァリンは懸念事項のひとつとしてミュゼの存在を挙げた。
「俺達がこれから成そうとしている事を目の前に、お前の存在は不安材料なんだよ。お前は確かに信用できる女かも知れんが、お前の事を俺は殆ど知らん。こっちの色ボケに聞こうにも長所とか惚れた部分しか言わんしな」
「色ボケだなんて失礼な」
「ちょっと黙ってろ。……ここまで一緒に来たんだ。俺達の間に、もう隠し事は要らんだろ。俺なんて隠しときたかった昔話も知られてる。お前だけ秘密主義なのは、公平じゃないって思ってな」
「……」
グラタンが二人分、皿に移される。
自信作に付いた焦げ目は、食欲をそそる香りを漂わせる。育ての親が教えてくれた料理を、その育ての親に食べさせようとしている自分の存在が自分で不思議だった。
秘密なんて、無いなら無い方がいい。
包み隠さず言えたなら、一番最初にアクエリアをぶん殴りながら自分の素性を叫んでいただろう。
出来ない理由は、『自分が消えるから』。
「……私だってね。言おう言おうって思って、実際言おうとして、それでも言えない理由があってね。それに、出来るなら先にフュンフ様やマスターに伝えてるよ。二人にも、事情があって言えない事を了承して貰ってるし」
「それはあいつらの話だろ。俺はそれで納得してないからな」
「……」
ヴァリンの言いたい事が分かるからこそ、ミュゼは突っぱねられない。
正体不明の味方だなんて、そんな胡散臭いものを信じられる訳が無い。
大切な何かを差し出して信用を勝ち取る方法があっても、ミュゼにとっての『一番』は差し出されてくれるか弱い存在で居てくれもしない。
切羽詰まってる今だからこそ、ヴァリンもこんな風に聞いて来たんだろうなと思うと申し訳なくも感じている。不安材料が、自爆する爆弾を抱えて立っているなんて悪い冗談だ。
「……言わなきゃ、駄目なの。ヴァリン、それで何かが起こったら、責任取ってくれる?」
「……責任、ってのはな。取れる立場の者しか取れるって言わなきゃ駄目だ。でも、お前には誰かに責任取らせようとするより、お前が言わないままで起きる事象に責任取れるのか。最期の最期にお前を信じられなくなる俺を許せるか」
「ヴァリンさん、それは――」
間に入ろうとしたアクエリアに、ヴァリンの藍色を湛える瞳が向いた。
言葉にするでもなく、割って入られる苛立ちが滲んでいる。
「……お前は良いよ。自分の女の事だもんな、信じない方がどうかしてる。でも、俺とミュゼの間に信頼はあるって言えるのか。お前が知っているよりももっと、俺はミュゼを知らないんだぞ」
アクエリアがちらりと見遣った婚約者の表情は曇っている。
自分を騙ってでもこの場を乗り切ろうとする意思が見えない。もしアクエリアが同じ立場であるなら平気で出任せを言い放っていただろうに、それさえ出来ない正直な性格が邪魔をしていた。
言うのか、言わないのか。
愛する人の窮地だというのに、アクエリアにはそれ以上ヴァリンを諫める事も出来ない。
だって、自分も知りたい。
ミュゼが何を思って、考えて、この酒場に残ると即答したのか知らないから。
「……話したら納得するの。本当に全部本当だって信じて受け入れるの? 頭狂った馬鹿な女って言って信じないって事ない?」
「アクエリアがそんな気が触れた女に惚れるんならな。言わんと、信じられるものも信じられない」
ヴァリンの言葉は真っ直ぐで。
いつもの皮肉屋気取った言い方でいてくれたら、突っぱねるのも楽だった。
ミュゼは躊躇う。何を話して良いのか分からない。何と答えれば、自分が消えずに済むのか分からない。
それでも、いつまでも秘めているのが、不誠実に思えて。
「……私は、ね。……アイツの」
『アイツ』。
この言い方だけで誰の事を指しているか、ヴァリンもきっと分かってくれる。
自分の心を削る思いで、寧ろ自分が消える思いで、続きを語ろうとした。
消えるとしても、誰のせいにも出来ない。これまで何も話せずにいた、自分のせいだ。
「……アイツの、し――」
「我が妻の親戚だ」
『子孫』。言いかけた言葉を邪魔した声がある。
話を聞きつけて来たのか、それとも偶然なのか。
ディルは自室から酒場客室に現れて、アクエリアとヴァリンの両方を見ている。