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「何だってんだ、ディル。そんなに急ぎの用なのか」
「……骨の整復はさっき終わりました。容態が急変しないよう、早めに戻って見てあげていたいのですが……」
呼べば、酒場に残る面々はすぐに客席に下りて来た。アクエリアとミシェサーの姿が見えないが、それぞれに報告や情報収集をして回っているのだろう。
ヴァリンとミュゼが居るだけで充分話が回る。そう踏んで、ディルが立ったままの面々に報告を始めた。
「アルカネットが遭遇した『化け物』。恐らくは、プロフェス・ヒュムネである」
既にアクエリアから話を聞いていたのか、三人の表情は変わらない。
「ジャスミン、話が終わり次第厨房へ。アルカネットが休んでいる、目視では負傷は軽微だと思うが確認を」
「はい」
「アールヴァリン。汝等はミシェサーが戻り次第、我の話を伝えよ」
「……はいはい。ま、別に予想はついてた話だが」
「二番街は確認できた殆どが崩落していた」
「……は?」
「其処から、化け物が出現したと思われる。崩落は二番街のみだ、何かしらの小細工が成されていたのであろう」
それまで余裕だったヴァリンの表情が強張った。引き攣る口許は、笑みを作ろうとしても出来ない。
「……あいつら……! 父上が崩御されたからって好き勝手やりやがって!! ぶっ殺してやろうか!」
「あの一帯が崩落となると、一朝一夕で計画していた話ではなくなろうな。地を掘り進められるのは……少なくとも、ヒューマンであれば時間が掛かろう。プロフェス・ヒュムネが地を掘る能力を備えているというのは初耳であるが」
「……奴等、能力はそれぞれだからな……。俺だって、この城下に居るあいつらの能力までは把握してないぞ」
「倒して来た化け物は一体。別の個体が居るかも知れぬ、確認は必要であろう。空いている手はあるか」
「んじゃ、私が言こうか。アクエリア連れてけば新手がいても大丈夫でしょ。日のある時間ならいつでもいい?」
「ああ」
情報のやり取りで、理解の早い者ばかりなのは助かる。
一応の情報共有が終わると、ジャスミンは即座に厨房に入って行く。暫くして、弱々しいアルカネットの呻き声も聞こえて来た。
ミュゼも引き留められないと分かると、ジャスミンの背を追うように同じ方向へと向かう。
ヴァリンは残っている。一階に来るのを渋っていた割には、腕を組んで考え事をする余裕はあるようだ。
「……なぁ、ディル」
「何だ」
「アルカネット、この先耐えられそうか?」
「……」
問い掛けに直ぐに返事をしなかったのは、ディルにとっても懸念事項だったからだ。
体力はある。あんな化け物相手にディル到着まで防衛しきったのは、彼の持ち得る戦闘能力の賜物だ。
しかし防御だけ特化していても傷を負ってしまったとなると、そう遠くない未来に脱落するのが目に見えていた。
「……俺が、逃亡先の目星付けて私書送ったシェーンメイクの話だがな。あいつら……亡命の代償に、何求めて来たと思う?」
「さて。あの国の者共の思考は分からぬ」
「お前も知ってる男だよ。シェーンメイクの蝙蝠野郎」
「……ああ」
ヴァリンに言われて、ふと思い出した顔があった。今の今まで、すっかり忘れていた男だ。
シェーンメイクに所属している、鮮血を思わせる髪を持つ、ディルよりも巨躯で、ヴァリンよりも残虐な男。何故か妻はそんな男と意気投合し、積極的な交流は無いにしろ互いにとって最適な条件で外交は続いていた筈だ。ディルが城を離れた今、それも今は不明だが。
妻は、彼をなんと呼んでいたか。残虐と恐れられた男を愛称で呼んでいた記憶の中の妻の声では、名前までは思い出す事が出来ない。
「国としては、拒否だった。でもあの蝙蝠野郎は、条件付けて手が回せる範囲ならって書いてきやがった」
「その条件が、我に思い当たる節は無い。金か?」
「金だったら、良かったのにな。……あいつは身柄の安全と引き換えに、受け入れる奴等の未来を寄越せと言って来た」
未来を――。
その提案に、応と言えないヴァリンの気持ちは分かってしまう。
「あいつ、銭ゲバ野郎の癖になんて提案寄越すんだって思ったよ。素直に金せびってきた方がまだ頷けた。俺の返答で、あいつらのこれからが握られるって考えたら……どうしても、それでいいって返事が出来ないんだ」
「……未来、とは。どの程度を捧げねばならぬのだろうな。具体性も無い」
「分からん。でも、それ聞くための返事を書いてる時間も無い。もう俺は、この国には、否か応の返事出すくらいの時間しか残ってないってのに」
「……分かっていて、そう書きつけたのやも知れぬな」
二択を迫られて、出せる返事は片道だ。
応の返事を出すくらいなら、アクエリアを使って逃がす全員を無理矢理城下門の外とへ送り出せばいい。そうして逃がした面々に、どんな未来が待っているのか約束できない。
シェーンメイクに逃がしても、悪いようにはされないだろう。すぐさま命を奪うことも、きっと。
でもそれがヴァリンの油断だとしたら。だって、最後の交流から随分時が流れてしまった。
アルセン王国の穏やかだった騎士団長はもう居ない。それと同じことがあの国でも起こっていないとも限らない。
「……であれば、あの者達をこの国で死なせぬようにすることもそう悪くない選択肢になるのか」
「………こんな選択肢、俺が選ぶなんて……したくなかったよ。お前だったらどっち選ぶ」
「知れた事。我は自分以外の未来を独断で譲れる立場に無い。故に彼奴からの提案には否と断じる他無い」
「お前、本当単純明快で分かりやすくていいな。俺がこんだけ迷ってる理由ちゃんと分かってるか?」
今のヴァリンの煩悶は、自分の決断次第で仲間の身が如何様にもなる事。
そして何よりヴァリンは――その未来を、見届けて守ってやれる確信が無い。
「分かっている心算だが?」
「お前の『心算』って信用できないんだが……」
「状況に因ろう。汝の悩みは、あの者達の『未来を預ける』ではなく『預けた未来を見守り後々に口出す事が不可能やも知れぬ』事にあるのではないか?」
「………。お前、本当に……分かんない奴」
ディルは明言を避けた。ヴァリンも、ディルが言葉を濁した事に薄々気付いている。
そんな風に暈すのは、鈍いと陰口を叩かれた彼に似合わない。
「……俺の事はいいから。お前も夜通し起きてるんだろ。飯食ったら少し寝ろよ」
「ふん」
「俺も……ミシェサーが戻ってくるまで、少し寝るから。今日も明日も明後日も、国同士の戦争は終わったってのに……どうしてこうも、諍いは消えないんだろうな……」
ヴァリンは王子だ。王位継承権を放棄していても、他国に逃げる選択肢は最初から無かった。この地で生まれ、この地に骨を埋める。その時には、憎い種族の首魁一味を道連れに出来れば上出来だ、と。
『ヴァリンが死ぬ覚悟をしている』という事を、厨房に居る面々に聞かれたらまたひと騒動起きそうだ。だから、故意に曖昧に暈す。
階段に向かって歩き出すヴァリンの背中を横目で見たディルは、その決意に口出ししない。でも、少しだけ、ほんの僅かな希望でも、ヴァリンが絶望だけに染まっていなければいいと願って質問を投げる。
「ヴァリン」
「……何だ?」
「汝は、全てが終わった世界で、何をして過ごそうと考えている?」
「……俺がか? そうだな」
ヴァリンは足を止めない。
「俺な、今まであんまり人に言った事無いんだが……。本が好きでな。読むのも好きだが、書くのも」
「……汝が? 意外だな」
「平和な時は、劇場に足を運んで色々な舞台を見たよ。演劇も演奏も朗読も。俺も、そういう仕事が出来たらいいなって幻想を抱いた事もある。俺の柵が全部無くなって、俺が金も地位もない男になって。……そうなったら、剣よりも筆で生計を立てるのも面白そうだなって思ってる」
「本か。其れとも脚本か」
「どっちもいいな。俺の書いた話が、誰かの心に響いてくれたら。もしそれが後世に語り継がれたら、俺がソルを愛していた事実も歴史に残ってくれるかも知れない。……でも」
階段を上る音とともに聞こえる声は、小さい。
「そんな世界を妄想する時、そうして生計立てる俺の隣にはいっつもソルがいるんだ。もう叶わないって知ってるのにな」
今でも捨て去り切れない未練を吐き出すヴァリンの姿は、上階に消えて見えなくなった。
未練の量を比べれば、ディルだってそう負けてはいない。
だからと争ったって不毛なだけだし、地獄を並べた所で勝っても負けても虚無感が心を殺しに来る。
二人の間で交わされる、既に傍に居ない相手への感情を語る行為はいつまで続くだろう。
「……」
分かっている。
きっと、死ぬまで続く。
ヴァリンが居なくなってから、深皿を二つ手にしたミュゼが厨房から出て来る。ディルの食事の用意をしていたらしい。その頃には弱々しかったアルカネットの呻きも聞こえなくなっていた。
「お待たせ―。マスター、寝るより先に食べな。体力回復しないぞ。食べてる間に風呂沸かすから」
「……汝も、ただ待機していただけでもあるまいに、何から何まで世話を焼くのだな」
「私よりマスターの方が疲れてんじゃん? 出来る体力のある奴が出来る事をする。非常時の鉄則だろ」
がん、と音を立ててディルのいつもの指定席の前に皿を置いたミュゼ。献立はスープパスタと燻製肉の入ったサラダだ。
さあ喰えとばかりに仁王立ちしている雄々しいミュゼは、ディルの食事が終わるまでその場を動きそうも無かった。その性格を僅かに、かつての右腕のフュンフと重ねて見てしまう。あの男も、ディルの健康を守る為と言ってあらゆる手段を仕掛けて来たものだ。
「……我の事を、気にする必要は無い」
「何度も言わせるなら張っ倒すよ。今なら箒での一対一も簡単に負けそうにない」
「試してみるか?」
「そんなに張っ倒されたいの?」
今のミュゼは、アクエリアが居ない事もあり退いてくれそうにない。
渋々ディルが指定席に座ると、金髪の混ざり子は水まで持って来てくれた。無言で食器に手を掛け、口へと運ぶ。
「どう、美味しい? 手を抜いてる訳じゃないけど、今日のは……少し、自信ない。疲れてると駄目だね」
「……いや」
ディルは、妻が居なくなってから今も味覚が不明瞭になっている。
それでも、自分の為に血族が用意してくれた料理に否は言わない。帰りを待って食事を作ってくれる、その心こそが嬉しいものだから。
「美味い」
味が分からなくても、ディルを案じる心さえあれば。
感想を伝えられたミュゼは、一瞬味についての感想かと思うも、そうでないと分かっているので笑みを浮かべた。その言葉は彼にとっての感謝と同意義だった。
ミュゼの笑顔に、妻の笑顔を重ねたディルは目を細める。
地獄の束の間の短い安らぎの時間は、ディルの心に沁みた。