202
上空を舞うように二番街へ向かう二人には遮蔽物も流れる川も、何の障害にもなり得ない。
野を飛ぶ鳥と同じ速さだ。時折民家の屋根に着地すれども速度を保ったまま、空気を裂いて空を飛ぶ。
男二人、目的の決まった空の旅。とはいえ、二人の瞳に穏やかさは無い。
五番街は一瞬で超えた。四番街も通り過ぎ、三番街に辿り着く頃に異変が顕著になる。
「……?」
三番街が、緑の浸食を受けていた。秋の寒い時期なのに、雑草のような植物がそこかしこに生えている。
建物の壁も屋根も、道でさえ、初春のように植物が姿を見せていた。
「……なんっ……」
アクエリアはそこで、言葉を飲んだ。飲んで、それまで飛翔していた動きさえ緩やかに止め、近場の地震でも辛うじて崩れていない建物の屋根に移る。高さは二階建ての民家で、地震の衝撃で骨組みが駄目になっているのか男二人の体重が乗った瞬間にぎしりと音を立てる。
三番街が見えてきて、この夜闇に姿を暈していたものが視界に飛び込んできた。
土煙が舞う、三番街の端。
その向こう一体、二番街であった場所から、緑の柱が姿を現していた。
「アクエリア」
「あれ、でしょうね」
この闇では視界が悪い。崩れた家々から出火してしまっている、それだけが光源だ。
緑の柱は、自らの意思を持っているように蠢いている。
石柱のようではなく、節々で動いているようにも見えない。
それは蔦のようだった。徐々に細まる柱の頂点に茂るのは、葉。腕のように分岐している職種のような蔦の先には、血痕が残っている。
しかし驚くことは他にもあった。蔦が姿を現したその足元は、二番街だった場所の筈だ。
その蔦を境とするかのように、向こう側の土地が、全て無くなっている。
「……ディルさん」
「何だ」
「二番街、無くなっているように見えますが」
「奇遇だな。我にもだ」
あの蔦を化け物として。二番街が、土地ごと崩落したかのように瓦礫の窪みと化していた。
現れている蔦は見える範囲で一本。その背は、三階建ての酒場『J'A DORE』と同じくらいかそれ以上だ。
その足元で、後退しながらも蔦に向かって果敢に挑む人影が見えた。
「アクエリア」
「ディルさん」
声を掛けたのは、およそ同時。
それが黒髪の主、アルカネットだと気付くのに時間は要らない。
彼は孤立無援状態で、自身の得物だけを頼りに蔦に向かっていた。
彼の体躯は、人より恵まれている筈だ。けれど化け物のような蔦を目の前にすると、ちっぽけな存在にしか見えない。
大剣を振り回して血を流す彼は、鬼気迫る表情で蔦と対峙していた。
「何故、逃げぬ」
「……」
「命を無駄にする必要はあるまい。逃げれば、体勢を立て直す事も出来る」
「ディルさん、あれ」
促されて、アクエリアの指が示す方を見たディル。
アルカネットよりも少し後方、地に横たわる男の姿が見えた。頭から血を流し、足もやられているようだ。一人では到底動けそうにない。
「……部下か」
「かも、知れませんね。担いで逃げるにしても、背中を狙われたらそれで終わる」
「見捨てて逃げる選択肢は」
「無いでしょうね。貴方にはあるんですか? あれが貴方と俺、もしくは貴方とアルカネットさんだとして、貴方は置いて逃げますか」
「……」
ディルの答えは、今までもこれからも。
いつだって、否だ。
「アクエリア。先程の魔力の応用で、我を弓矢のように射出出来るか」
「弓矢……? あれに飛び込むつもりですか」
「今の時点で我のみであれば、アルカネットを行かせる為に一人で向かったであろうな。しかし、今は汝が居る」
「……貴方って人は」
常人より理解されにくい癖に。
理解されようともしないで。
なのに、アクエリアに向ける信頼はとても強くて。
こんな男、理解されなくて当然で。でも、少しでも理解してしまったら、どこか放っておけない。
「貸しは高くつけておきますよ」
「結婚祝いに足してやろう」
風に、アクエリアの髪が靡く。
その口許に浮かべた笑みは、普段の皮肉っぽいものではなく。
目を見開いて愉悦に歪む、これから先何が見られるかという期待が滲んだ楽しんでいる顔だった。
「ああそうですか。覚悟しといてくださいね、革袋一つ程度じゃ納得しませんよ」
「がめつい事だ。覚えておこう」
「しっかり的を狙ってください。でないと、あの大きな墓穴の中に一直線です」
「弓矢の腕は、妻に勝てずとも負けた事は無い」
アクエリアは身を屈めて、指はディルの義足を服の上からなぞる。指はそのまま無防備な太腿を付かず離れずで辿り、最終的に行き着いたのはディルの剣。
「……何をしている?」
「少し。貴方、魔力の補充とかなかなか行かないでしょう? あんな化け物と戦うんです、少しでも有利だった方が、義弟に良い所を見せられるでしょ」
「……そうか」
注ぐ魔力は、合計でアクエリアの息が乱れる程度。眉が寄り、荒い息で歯を食いしばる。
魔宝石に注がれるのは、魔法が使えるだけの者による粗雑な低品質の魔力ではない。高位の魔術を操る、高位種を名乗る男の魔力。
「足場を見つけてください。そこから先程のように詠唱し跳躍すれば、貴方の意のままの速度を出せるでしょう」
「承知」
「俺は、少し休ませて貰いますよ。危なくなったら呼んでください」
自分のやるべきことは終わったとばかりに高みの見物を決め込んだアクエリア。
ディルは屋根の上を歩き出した。一歩、二歩。彼の歩みは止まらない。
そして、屋根のない場所にも、一歩。
「えっ」
ディルの体が傾ぐこともなく、足先からまるで吸われるかのように地に落ちていく。流石のアクエリアでも、その奇行には目を剥いて駆け寄ろうとした。
落ちて行こうとするディルの瞳はそれでも蔦の柱を捉えていた。落ち行く体と反して、毛先が天を乞うように上空へと向かう。
このまま落下しても、義足に魔力を込められたディルとしては怪我など一つとして負わないだろう。だからと――悠長に遊んでいる気は無い。
膝を曲げて靴裏を崩れかけの民家の壁に付ける。踵部分が摩擦で削れるような音を立てた。
「――」
滑り降りるのも可能だ。その程度なら魔力の消耗も必要無いだろう。
けれど今は、着地してから走って向かうだけの、その時間すら惜しい。
「『飛翔』」
体勢を整える。ぐっと膝を胸に引き寄せ、腿に力を込めて。
跳躍。地にするのと同じ体勢を、壁に面して。飛び上がるその瞬間、爆発的な力がディルの体を突き抜けた。
そして反動が、民家の方に。
「え、うわっ!」
鋼鉄の巨塊でもぶつけられたかの衝撃で、建物がディルの踵が蹴った部位から砕け散る。
足元が傾く感覚に驚いたアクエリアも驚いて飛び上がり、崩れ行く民家を上空から見送った。土煙と埃舞い散る中で憎々し気にディルを見遣るも、既に飛び去った後だ。
大喰らいの宝石に面白がって、ついつい魔力を注ぎ込んでしまったようだ。速度は五番街からここまで来た時よりも早く、彼が望んだままの引き絞られた弓矢のように飛んでいく。
「なんと、まぁ」
戦闘狂――という、彼が呼ばれていたらしい陰口そのままだ。見た事の無い化け物を相手にしても怖気づくなどしない。
恐怖という感情とは、この世の殆どの事象に於いて無縁なのだ。
そんな彼が恐れ、拒み、泣き叫んだのはたった一人を取り巻く光景。
たった一度きりの悪夢。
「………」
彼の悪夢は、未だ醒める事は無い。
悪夢から目覚めようと藻掻いて足掻くディルを、今回も無視するなんて出来なかった。
「……る、……ねっ……さ、ん。……に、げ……」
虫の息である男は、今も尚武器を振るうアルカネットに呻くように言った。
「馬鹿野郎、出来るかそんな事!!」
「……あな、たが……しん、で、しま……」
足は関節が曲がる向きを無視している。曲がらない筈の所が無残に直角を描いて、一人では動けそうも無かった。頭からも血を流しており、耳が半分抉れている。
見捨てたら、死ぬ。違えようも無い予感は、アルカネットに化け物へと対峙させる理由として充分だ。
地に伏している男は、アルカネットが自警団員として初めて配属された部下だった。
妹でも、孤児院の子供達でもなく、閉じられた世界以外で初めて守らなければならない存在。
振るう大剣は、図体が大きい癖に小回りの利く動きをする蔦には不利だった。それでも、背を向けるなんて出来ない。
「黙って耐えてろ! 無事に戻れたら、俺が気の済むまでこき使われて貰うからな!!」
無駄口を叩く余裕なんて無い。緑の柱から伸びた二本の細い蔦が、アルカネットの皮一枚を裂いていく。
蔦の癖に、掠めただけで肌を裂く殺傷力を持っている。巻き付かれたら最後、関節が増える事になる。そうして引き裂かれた仲間を、既に四人は目の当たりにした。
想像の外にあった地獄だ。何人も死んだが、この緑の柱は満足していない。けれどアルカネットと瀕死の部下を殺した所で満足するとも限らないのだ。
息は荒い。疲れ切っている。傷も負った。本当はもう動きたくない。
でも、部下を任された立場なら、張りたい見栄は幾つもある。
「……随分長い間こうしてる気がするが、こんだけ時間かかっても俺の首ひとつ獲れないんだ」
唇だけで浮かべる笑み。目元は、疲労で霞んでいた。
「俺の義兄貴は、その気になれば三分で俺を殺せた。あいつより弱い奴に、俺が殺される訳にはいかないんだよ!!」
どんな敵を相手にしても、笑っていられる胆力。
部下を背に庇って、守り抜こうとする意地。
負けるかも知れない状況でも引ける訳が無い。
アルカネットの義姉は、似た状況でもきっと戦った。
義姉と同じ男に引き取られて育った自分が、負ける訳に行かない。
武器を握る手に力が籠った。決意と同じ分だけ、消耗した筈の気力が保たれる。
トーマスを逃がす為に依頼した救助が来る、なんていう僅かな望みに賭けるしかアルカネットには残されていなかった。
――その賭けに勝ったと知ったのは、目の前で銀色の光が閃いてから。
「――あ」
その光は流星のようだった。一直線に緑の柱に向かった銀色が、その円柱型の胴に風穴を空けていく。
風切り音さえ後に残した流星は、自らの意思で向きを変えた。落ち窪んだ穴の底にある瓦礫を一度踏み締めた光は、柱よりも高く飛び上がる。見上げた先には、もうひとつの銀色が浮かんでいた。
夜の銀の月を背に、長剣を構えるディル。
「善く耐えた」
その声は小さかった。なのに、アルカネットの鼓膜に優しく届く。
「――『閃』」
その髪は、まるで神が生やす翼のように広がり。
その剣は、まるで神の怒りの雷のように閃き。
その一撃は――剣の刃が届く筈も無い、柱の根元まで。
縦に二つに斬られた柱は、左右にその身を分かたれながら穴の中に崩れ落ちて行った。