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厨房の裏口は、自身のせいで散らかった床を歩かないと先に進めない。
ミュゼは扉の鍵に手を掛ける前に、それが誰かを確認する。
「アルカネット? どうした、何があった」
普通であれば表の扉に向かって開けろと合図する彼だ。裏に回るなんて、普段は無い。
だから彼だろうという予想は立てつつ、念の為問い掛けた。
しかしミュゼの予想は裏切られる。
「開けて! 開けてください!! どなたかいらっしゃいませんか!!」
その声はアルカネットのものではなかった。彼よりも若い、少年のような男の声だ。
疑問に思って鍵に触れながらも、再びの問いかけ。
「誰だ」
「俺、トーマスです!! アルカネットさんと同じ、自警団の!!」
自警団と聞けば、疑問は更に深まる。
しかし何かあれば――例えば酒場に害を成そうとする不埒者だったりするなら――皆起きている状況で、対処できるだろうという考えの元に鍵を開く。
「待って、今開け――っ、うわ!?」
ミュゼの指が鍵を開いただけで、外から雪崩込むように一人の男が入ってきた。
それはアルカネットと比べると、背の小さな短髪の男だ。とはいえ身長自体はミュゼを上にしてそこまで変わらない。年齢はまだ十代だろう、焦りを浮かべた少年といった風貌の男は、声を荒げた。
「すいません、こんな時間にっ!! ディル様、ディル様はこちらにいらっしゃいますか!?」
中に押し入ろうとする少年を、片手だけで遮るミュゼ。焦っているのは分かるが、このまま通す訳にはいかない。
ミュゼに阻まれながらも尚、ディルの名を呼び喚く少年を迷惑に思ってか、ディルが姿を現した。
「如何した、ミョゾティス」
「いや、なんかこの子がマスター呼んでんだけど」
「ディル様!? ディル様ですか!?」
ディルの姿が見えた事で、漸く押し入ろうとする動きは止まった。面倒そうにディルは腕を組んで、厨房入り口に体を寄りかからせる。
相手は少年だ。だから彼が何者であるかを知っている者のように、跪いたりしない。ただ、その身振り手振りと、口にする言葉ばかりが大きくて。
「アルカネットさんが大変なんです!!」
「――」
大きな声で叫ばれた、名前の主の存在も、この酒場には大きくて。
アルカネットの名前に反応したのはディルだけではなく、アクエリアも客席から厨房へ入ってきた。
「ミュゼ、それ誰です。確認して空けましたか」
「あ……いや、アルカネットの所のトーマスって名乗ったけど。大丈夫かなって思って」
「アルカネットさんが……いえ、アルカネットさん以外も危険です! あの人が、ディル様を呼んできてくれって!!」
「アルカネットが?」
息も荒い少年は、助けを懇願する瞳でディルを見る。
「地震で、二番街に甚大な被害が出ました!! そこから、かい、怪物が!!」
「怪物……?」
「俺達、警邏中だったんですけど、地震が、それで、二番街が」
「落ち着け」
要領を得ないトーマスの言葉から感じられるのは、切羽詰まった状況ばかり。ディルはちらりと客室に残った面々に視線を向け、それからもう一度トーマスに向き直る。
「何故裏口から来た?」
「表には、休業の看板が出ていたから……。裏なら、誰かいるかと思って」
成程な、と全員が納得した。招かれざる客を追い払うのに都合がいい看板でも、緊急時には都合が悪い。
「二番街に怪物が出た、と。それでアルカネットはその場に残っているのか」
「はい、それで、警邏中の自警団員の半数が犠牲に」
「は!?」
「アルカネットさんは、俺にディル様を呼んで来いと」
自警団だって、騎士とは違うがそれなりの統率が行き届いた武力集団だ。
警邏中の自警団員がどれほどの戦闘能力を有しているかは不明だが、アルカネットが救助を求める程には状況が悪い。
ディルは返答もせずに自室に引き返す。武器が妻の短刀だけでは心許ない。
「……二番街まで、どのくらい掛かりますっけ」
「お、俺が、走ってここまでで、……わかりません!」
「まぁ、時計も無いでしょうしね。でも、走り続けたとしても一時間以上は掛かりますよね?」
ディルの居ない間、トーマス相手に状況確認するのはアクエリアだった。
腕を組んで片足に体重を掛けるような気怠い体勢で、簡単に距離を試算する。
アクエリアは仕事の手伝いで二番街に行くことはあった。走ることは無かったが大体の距離感は掴めている。
「ふむ」
最初の一時間、トーマスがこの酒場まで来るまでの間をアルカネットは耐えられるかも知れない。
しかし折り返しの一時間を、彼は耐えられるだろうか。
彼は酒場の荒事担当だとしても、心は自警団員だ。怪物が出たとして、民が犠牲になるかも知れない状況を放っておけるだろうか。
「無理ですね」
あと一時間を、アルカネットが耐える事も。
アルカネットが民を見捨てる事も。
アクエリアは、彼の性根を馬鹿正直と見ている。その正直さに従って、彼はきっと最期まで抗おうとするだろう。
「そん、な。じゃあ、アルカネットさんはどうなるんです!?」
「落ち着きなさい。ミュゼ、水でもお出ししてあげてください」
「え……、う、うん」
ミュゼが水を汲んで、トーマスに渡して。それを飲んでいる最中に、ディルが戻ってきた。
腰に佩いたいつもの長剣と、着替えた白と黒の上下。結びもせず、いつも垂れ下がっているような白銀の髪もいつも通り。
「我が戻る間の事は、ヴァリンに全て任せる。アクエリア、ミュゼ。汝等も気を引き締めて待て」
「お待ちなさい」
トーマスを連れて出ようとしたディルだが、アクエリアに口頭で止められる。
彼は腕を組んだままだ。
「幾ら貴方が走ったとしても、時間が掛かり過ぎます。その間に、アルカネットさん死んでしまいますよ」
「……例えそうだとしても、義弟を見捨てるなど出来ぬ」
「見捨てろって言ってないんですよ、こっちは」
勿体振る悪癖を隠さずに、アクエリアはそこで漸く腕組みを解いた。
「俺も行きます。そっちのが絶対早い」
「……良いのか?」
「勿論。俺がこの酒場に居るうちに、アルカネットさんが簡単に死ぬなんて許せそうに無いので」
言うなり、その場にいる全員の目の前でアクエリアが両手を顔の前で打ち付けた。
途端、その姿が普段偽装しているものから本来の姿に戻る。他国では忌み嫌われているダークエルフの姿に。
「ひっ!?」
目の前で人の姿が変貌したのを見るのは初めてであろうトーマスが、自警団員と思えぬ情けない声を上げる。
背中まで伸びた髪は、姿を偽装している間切っていないせいですっかり長くなってしまった。
この姿になるのは、スカイと対峙した時以来だ。苦い記憶を思い出して、アクエリアの表情が曇る。
でも今は、そんな後悔に浸っている時間は無い。
「ミュゼ」
「はいよ」
「ダーリャさんに、トーマスさんを詰所まで送るよう言ってください。ヴァリンさん達には、王城にこの報告を。まだ眠れそうにないですよ」
「了解、気を付けて」
現状出来る指示はこのくらいだ。
アクエリアは出口までの道の途中で、ミュゼの頭を一度だけ撫でて行った。
「良い子です」
そしてディルを伴って、外に出る。
撫でられた頭に手を伸ばし、ミュゼが微笑んで見送った。
「ちゃんと帰って来なかったら、結婚してやんないんだからね」
ミュゼの言葉の後に、扉は閉まった。
「……結婚するのかえ」
ディルは空を見上げながら、アクエリアに問い掛ける。
「ええ、まぁ」
返すアクエリアの言葉には余裕が滲んでいた。唇に笑みを湛えたまま、ディルの腰に横から手を回す。
「幸せにしてやれ。でなければ許さぬぞ」
「言われなくとも。羨んでも渡しませんよ」
「其の点は別に良い」
何をされるか分かっていないディルだが、悪い様にはされないのだろうと思って抵抗はしない。
アクエリアは僅かに体勢を整えるように前屈みになり、小声で詠唱を始めた。
詠唱の言葉は、ディルには聞き取れない。聖書の内容を初めて聞いた時のような、理解出来ない言葉が鼓膜を上滑りしていく。
風が、二人に吹きつけた。
「――行きますよ」
その宣言はディルの為のものだ。腰に回ったアクエリアの力が一層強くなると同時に、ディルの足が地上から離れる。
「……ほう」
水の中と同じような感覚だ。足が何処へにも下りてないのに、ふわりと体が浮いていく。
その後は泳ぐのと勝手が違う。重力に逆らって、まずは隣家の屋根に向かって飛び上がった。
この時間だというのに、通りには多くの市民が出ていた。地震で混乱しているからこちらへ顔を向ける事はないが、身を低くして視線から逃れる。
「……っ、重っ!!」
アクエリアの呻きは、それまでの余裕が一切無い。手を腰に回すだけでは不十分だと分かったのか、改めてディルの腰にぐるりと両手を回した。
ディルも自分の体重が重い事は分かっている。正しく言えば、義足が重い。装着している自分は全く気にならないが、それだけで小さな子供や麦袋と同じくらいの重量がある。ディルが日常生活を送る上で必需品になっているから取り外せと言われても出来ない。
「何ですか貴方、確かに重そうって思ってましたがミュゼの三倍ありませんか」
「……仕方あるまい。我の体は、普通とは違う」
「普通と違うって……」
言って、ディルは下衣の右裾を膝まで上げて見せた。そこにあるのは、普通の生き物とは全く違う形状をした義足。
義足について教えるのは、妻に続いて二人目だ。
「……それに付いてるの、魔宝石ですか」
「ああ。暁の親が手掛けた義足だ。今は暁が引き継いで手入れをしている」
「……成程。貴方があの男を嫌いながらも、酒場から離れさせてない理由が分かりましたよ。帯剣してない貴方から、いつも魔力の流れを感じていたのも」
理由はそれだけではなく、王妃から命令されたという不愉快な事実もある。けれどアクエリアは理解したような顔をして、その義足に手を伸ばす。
移動よりも先に、アクエリアはそちらを選んだ。
「ですが言ってくれたら良かったのに。だったら俺は、もっと前から楽になってた」
「楽に?」
アクエリアの言葉を理解するのに、言葉はそれ以上要らなかった。
詠唱と同時に指が義足の魔宝石をなぞる。それだけで、それまで放っていた宝石の光は途端に眩くなった。自ら光り出したかのように。
「……ん?」
魔宝石に触れている指先が、こつこつとそれに触れる。
「変な魔力がありますね。速度増幅、脚力増加の他に、魔力に因る別の仕掛けが二つ付いています」
「二つ? ……それ以外に我が聞いた能力は無いが」
「待ってくださいね。一つは……、なんだこれ……」
「どうした」
アクエリアの表情が曇る。ダークエルフの成りをして、困惑に翳る顔を見せる姿は不思議なものに見えた。
確かに、エイスに似ている。兄弟と言われれば納得できるほど、その顔の構造は似通っている。
「……今は、時間が惜しい。説明は後にしますので、一つ魔法を付加します」
「ああ、構わぬ」
「俺が飛んだのと同じ風の魔法です。この義足自身が飛べるようになれば、俺の負担がもっと減る」
「その場合の、魔宝石への詠唱は如何する?」
「飛べ、でも何でも良いです。俺の魔力ですから、不理解は起こさないでしょう」
言って、躊躇わずにアクエリアは魔力を注入し始めた。詠唱も不要なその行動は、このアルセン王国ではエルフに頼む場合法外な金額を要求される。
無償で行われるその行為が終わると、アクエリアはそのままディルの腰に回した手に力を入れ直す。
「『飛翔』」
ディルの詠唱はそれだけだ。
強すぎる魔力。それでも、アクエリアはディルを離さない。
走るよりも早く、文字通りの風のように、二人は二番街を目指して飛んだ。