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「……うっわ、これは酷いな」
女性陣が二階へ上がっている間、ヴァリンとアクエリアは厨房を確認する。
床に散乱した食器の破片や、割れて中身が飛び散った酒の数は客席の比ではない。備蓄としていた卵もおよそ半分が駄目になっていて、惨状に二人が顔を顰める。
掃除は出来るが率先してやらない二人であるものの、割れ物の回収は率先した。他の誰かに掃除を押し付けるにしても、危険物は少ないに越したことは無い。
ヴァリンの格好は寝間着のままだが、開き直って気の抜けた格好のままでいることにした。
「被害額はどうなるでしょうね。……ほら、この酒一本で金貨五枚しますよ」
「何かある毎に金の話は止めろ」
「貴方も次期国王じゃなくなって、城からも離れたいって言うのなら金銭感覚は身に付けておいていいと思いますけど?」
「……」
白い皿の破片を集めながら、ヴァリンが苦笑する。
分かり切ったような説教に飽き飽きしていた。
「俺が急にしみったれた生活してる姿って、お前想像できるか?」
「出来ない訳じゃないですけど……まぁ、似合いませんね」
「お前達みたいに、物を選ぶ前に最初に金額を確認して、財布と相談して、それでいて日々の蓄えも気にしなければいけない。日雇い幾らの仕事で、汗水垂らして、そうして得た賃金は俺が王子として暮らしていた時の一日分の金額にも満たない。それでもお前だったら、ミュゼがいるからって毎日幸せそうなアホ面晒してるんだろ」
二人の手の中で、割れた陶器が音を立てる。
ヴァリンの言葉選びの悪さは今に始まった事では無いが、その言葉の裏に隠された過去への未練をありありと感じてアクエリアは黙ったまま。
「……いいよな、お前。……俺だって幸せになりたかったよ。お前ら以上のアホ面晒しても、飯が一日一回になっても、着ている服が継ぎ接ぎでも、ソルが居るなら今より幸せだったろう。はーあ……。何で俺今でもこんな鬱々暮らしてなきゃいけないんだよ……」
「……俺に言われても困りますね。恨み言はあの世のソルビットさんに取って置いたらどうですか」
「……。そう、だよな」
ヴァリンは意味ありげな沈黙のあと、一度だけアクエリアの言葉を肯定するような返事を返した。
その肯定の意味する所に、悪い予感を覚えて手の中の皿の破片を取り落とす。
気が付けば体は勝手に、ヴァリンに駆け寄って肩を掴んでいた。
「……ヴァリンさん?」
「………何だよ」
「貴方、変な事考えてるんじゃないでしょうね」
アクエリアの問いに、ヴァリンは一度目を丸くした。数度瞬いて、それから浮かべた表情は力の無い笑い。
否定も肯定も無い。けれど、その沈黙が重い。
「良いですかヴァリンさん。どうせ貴方達ヒューマンの寿命は短いですけれど、その短い命を粗末に扱っていい訳が無いんですよ。貴方は望んで罪を犯している訳では無い。生きているなら、何かしら未来に意味のある命の使い方をした方が有意義です」
「……説教垂れてる所悪いが、別に俺は自分の命を粗末にするつもりはないぞ……?」
掴まれた肩の手を払い、憮然とした表情になるヴァリン。
冗談を絡めた話を交わす二人でも、真剣な話となると勝手が違う。恥ずかしくはないのだが気まずい。
「……お前、俺に向かって劣等種族とか言ったりしたのに、よくそんな事言えるよな」
「……仕方ないでしょう。あの時は、貴方がユイルアルトさんを殺したと思った。実際、そう思わせるような証拠を持ってきた。もし本当に彼女を殺してたら、俺は貴方をあの場で殺したでしょう」
「おー、怖」
「ですが」
気まずくても。
それが気恥ずかしいものだとしても。
アクエリアは、言わなければ伝わらない想いがあるのを知っている。
長い生で、言葉の価値を思い知ったのはここ二十年の話だ。
考えていても、内に秘めているだけでは何も変わらない。
アクエリアもそうだし、ディルもそうだった。ヴァリンだって。
失敗例を幾つも見て来て、それで学習するなんて呆れた話だけど。
「俺は、今の貴方の事を劣等だなんて思っていませんよ」
「………」
「ユイルアルトさんの為に、ディルさんの為に、貴方はこれまで全力を尽くしている。この酒場に身を寄せて、城を見限って、貴方はここに居てくれる。いいですか、ヴァリンさん。貴方はもう、俺達に必要不可欠で大事な存在です。仲間なんです。俺は仲間が命を粗末にするような事、許しませんからね」
熱の籠ったアクエリアの言葉は、ヴァリンに溜息を吐かせるのに充分だった。
嬉しくない、とは言わない。
「……お前、平然とそういうの言う奴だったんだな。もう少し、こう、こなれた感じで誰も彼も子供扱いしてると思ってたんだが」
「子供? 貴方がまだお子様面してるならそうしたでしょうけど、王子としても騎士としても最善を尽くした貴方には不釣り合いでしょう」
「……本当、お前って」
嬉しくない、なんて死んでも言えなかった。
割れた破片を床に置いて、手で顔を覆う。面と向かってそう言ってくれる人なんて、ヴァリンの側には殆ど居なかった。
でも、アクエリアはその例外に入ってしまった。
「……ありがとう、アクエリア。でも、お前から言われると……照れ臭いな」
勝手に顔が熱くなるのを止められない。顔だけでなく、胸も。
自分のして来た事が無駄になってないと思わせてくれる。血と絶望で敷き詰められた道の上でも、手を伸ばしてくれる人がいるのは幸運な事だ。
今の自分を肯定してくれる。条件付きの肯定でも、それを今更違えるつもりはないから安心できる。
今までどうしても、立場上一歩引いた場所でこの酒場を見る事しか出来なかったけれど、仲間だと面と向かって言われれば照れ臭い。
「俺、今まで以上にお前に好感持ってる気がするよ。もうお前の事嫌いじゃない」
「それは……喜んでいいのか悪いのか分かりませんね?」
「喜べ。俺が好感を抱いて接する相手なんて滅多にいないからな」
「………。………」
そうして微笑み合う二人を、厨房の入口から覗いている人影があることに気付くのはその後。
感じた気配に勢い良く入口に顔を向けた、その先に居たのはミュゼだった。顔と体を半分だけ覗かせて、男同士のやり取りを眺めていた。
アクエリアとヴァリンが同時に顔面蒼白になる。
「………ちょっと集まって欲しかったんだけど……お邪魔だったかなぁー……?」
「っま、待ちなさいミュゼ、邪魔って何です。俺達は別に」
「ああ、いいのいいの。ごゆっくり。うん、ごゆっくり。大丈夫、私そういうの偏見ないし。流石にちょっと頭混乱してるけど」
「ごかっ、ミュゼ、誤解してないか!?」
ぎゃいぎゃい言いながら、厨房の片付けも程々に二人が客席の方へと出て行った。
不在にしているアルカネットは別として、全員がその場に揃っている。ミュゼが座った席の隣に、アクエリアが追い縋るように座る。
ヴァリンも適当な席に座れば、この酒場でのいつもの集会の体裁を成した。気まずそうに咳払いするヴァリンを、いつもの指定席に腰掛けるディルが不思議そうな顔で見る。
皆が集まった状態で、用件があるとばかりに立ち上がったのはミュゼだった。
「……えーと。アルカネット居ないけど報告があります。ミシェサーが使ってる部屋で、オルキデとマゼンタのものらしい日記帳が一冊ずつ出て来たんだけど」
「二人の?」
「ああ。んで、私もファルビィティスの……プロフェス・ヒュムネの国の言語だって分かったから持ってきたんだが」
ミュゼのテーブル眼前に置かれた二冊の本は、色は同じだが表記が違う。その部分は名前なのだろうが、何と読むかはミュゼには分からなかった。
しげしげと覗き込むのはヴァリンとダーリャ。
「『アカサカロクラン』『アカサカシレン』だなこれ。祖国での本名がそのはずだ。間違いなく二人のだろう」
「そのようですね」
あの二人の縁者であるヴァリンが読めるのは薄々気付いていたミュゼだが、ダーリャも読めるとは思わずに意外で目を丸くする。
それであれば中は、と思ってミュゼが二人に一冊ずつ差し出すも、オルキデの日記に少し目を通しただけでヴァリンはすぐに閉じてしまった。
「……俺には無理だ、読めない。なんだこれ、いつも以上に線の多い文字しやがって」
「だよな。……ダーリャ様は? 読める?」
「………」
ダーリャは無言で、真剣な目で字面を追っている。
解読中なのだろう。この元神官騎士が異国語に明るいのは、冒険者をしていたからか。
ディルがダーリャの背中を見ている。その瞳も冷たい。
「……ミュゼさん。貴女は、これを読めたのですか」
「……読めたよ。半分くらいはね。難しい所は私も無理だ」
「私は、……八割方、読めます」
それ以上、ダーリャは何も言わない。
ミュゼも理由が分かっているから内容を聞かない。
マゼンタの日記の内文はほぼすべて、アルセンに住まう者達への憎悪と殺意に満ち溢れた内容だったから。
死ね。殺したい。滅したい。滅びろ。私の国のように。
無くなれ。いなくなれ。汚らわしい。私達の大切なものを奪っておきながら何故平気で生きている。
国を返せ。土地を返せ。命を返せ。平穏を返せ。出来ないなら消え失せろ。
話に聞くだけで既に消失した私達の国を、美しいファルビィティスを、元に戻してお前らは死んでしまえ。
姉が何をした。民が何をした。未だ奴隷として扱われる同胞は何故苦痛を受けなければならない。
知らぬアルセンの民も同罪だ。
全て、我等の血肉となって新たなファルビィティスに貢献するくらいは許してやる。
悪意で徹頭徹尾書き連ねられた日記は、これもまた七年前から始まって、六年前で終わっている。
一番最後の頁に書かれている、たった一行で終わる文章を、ダーリャは思わず口にした。
「『さよなら、面白かった人』……。これは、六年前の頁ですね」
「………」
「……面白かった人、とは?」
そこだけが、今までの頁と毛色が違っていた。
それまでは書いてある文章に違いはあれど、全ての頁が端から端までを埋め尽くすほどの呪いの言葉と罵詈雑言で埋まっていた。
なのにその最後の頁だけが、哀悼の意を示すかのように一行しか書かれていない。
六年前に別れを告げなければならないような人物がいるとしたら、それはディルの妻一人だけだ。
それが分かっているのに、ディルは一度瞼を閉じた後の瞳を緩慢にミュゼへと向ける。聞きたくない、と灰色の瞳が告げていた。
「……其の様な戯言に耳を貸す気はない。あの連中の弱点などといった、もう少し有用な情報は無いのかえ」
「ああ……、有用かは置いといて、マスターには少し耳に入れときたい話があったんだ。オルキデの方に書いてあるんだが――」
ミュゼにとっての本題――初代マスターが殺された時の話――に入ろうとした時、唐突に外に続く扉が音を立てて鳴った。
それは酒場側ではない。厨房側にある裏口だ。そちらは『仕事』が無い時は鍵を掛けているので、出入りは最近誰もしていない。
こんな時間に、そちらの扉を揺らすのは一人しかいない。いや、その一人でなければいけないと酒場所属の誰もが思った。
話を中断せざるを得なくなったミュゼが、率先して厨房に向かう。