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酒場に帰った四人の耳に一番に届いたのは『アルカネットが逃げた』との情報。
ミシェサーが少々過剰に擦り寄ったせいで、恐怖を感じた彼は自警団詰め所に退避したという話だ。
酒場一階の隅に頭に水瓶を乗せられて座っているミシェサーは反省を促されている。
今すぐアルカネットの力が必要になる機会は無いと踏んで、朝方には戻るだろうと判断して各々が部屋に戻った。
時間はまだ日付の変わる前だ。
静かな夜。秋の肌寒い、静かで、いつもと変わらない筈の夜だ。
その日も、酒場の面々は血生臭い仕事の無い夜を謳歌し、酒を飲む者は飲んで寝る者は寝る。
ディルのやることも変わらない。一人静かな私室でソファに腰掛け、妻の短剣を眺めながら傍に居ない人に想いを馳せる。城に向かった時にフュンフに預けたままになっていたそれは、孤児院に行った時に返して貰っていた。ディルの大切なものという事で、必要以上に触れないで持っていたらしい。
静かな夜だ。虫の鳴き声も聞こえない、各々がいつも通りとする時間が流れる夜。
――『いつも』が崩れる時は、大抵の場合予告も無しに訪れる。
「……?」
最初にディルが違和感を覚えたのは、地の底から響くような地鳴りにだった。
今まで聞いた事も無いような音に身構えたディルは、無意識にソファの背凭れを掴む。
地鳴りは、耳からでは無く肌で感じる音だ。まるで今日の朝、地震の前に鳴っていたような。
違う、と、ディルは直感で判断した。
朝の地震の時よりも、地鳴りの音が大きい。
「……っ!?」
揺れるのは直ぐだ。床から離れている体の部位が、いつもの体勢を保っていられない。
強制的に眩暈を起こされている気分になる。揺れているのは自分ではなく床自体。家具や置物が音を立て、揺れに耐えられなかったものから床に落ちていく。
酒場客席の方から、食器類が棚から落ちる音が聞こえて来た。幾つも床で激しく割れるが、ディルも突然の事に動けない。
目の前のテーブルに置いていた妻の短剣も、振動に合わせてテーブルの上を動き回る。せめて落ちぬように、とそれに手を伸ばして、掴んで引き寄せる。
長いように感じた揺れだが、ディルの部屋には大きな被害は無かった。建物自体が丈夫だった為、崩落もしていない。
短剣を腰に佩き、部屋の扉を開いた。いつも通りに開いた扉はディルを難なく廊下へと迎え入れる。
階段から、どたどたと駆け降りる音も聞こえた。
「ディル! ディル!!」
「聞こえている」
「聞こえてるじゃないんだよお前はああああ!!」
酒場客席で顔を合わせたヴァリンは息も荒く、手には枕を持っている。着ている服も寝間着らしく、黒一色の緩い服装のままで髪も乱れていた。普段冷静を気取っている元次期国王は、珍しく慌てた姿で人の前に姿を現している。
ディルも部屋着だが、ヴァリンほど油断した格好ではない。落ち着いた様子で灯りを点して回る。
「地震! 地震だぞ!! 朝のよりデカい!!」
「そのようだ」
「緊急事態だ、皆を起こせ! 被害状況を纏めさせろ! 貴重品の確認と物資の在庫を報告させて避難所の確認と水の調達場所を」
「落ち着け」
「お前が落ち着きすぎなんだ!!」
騎士の癖が抜けないヴァリンは大声で捲し立てるが、それが通用するディルでもなかった。
ヴァリンがああだこうだと言っている間に、階段から他の面々が下りて来る。
「喧しいですよヴァリンさん。こちらアクエリア、被害無しです」
「私の所は、朝と同じ状況以外は被害軽微です」
「汝等だけか。ミョゾティスの姿が見えぬが?」
「自室の確認に行ってますよ」
地震の震度は大きくとも二度目となればジャスミンも落ち着いている。それでも怯えるのは仕方ない事で、アクエリアが一階まで付き添っている状況だ。
ジャスミンもアクエリアもヴァリンより落ち着いている。二人が一階に下りて来て漸く、ヴァリンも平静を取り繕おうとする気が起きて来たらしい。
「……俺の部屋は損害軽微だ。棚が崩れたくらいだな。それよりも、一階から皿の割れる音が聞こえたが」
「ヴァリンさん、貴方何持ってるんです。枕ですか。それでどちらに行くつもりだったんですか?」
「ププッ」
「笑ったな? 今ジャスミン笑ったな? 後で覚えておけ」
ヴァリンがこの調子で、逆に助かった面もある。一番動揺しているのが彼である事で、ジャスミンの恐怖感も薄れていた。
次に下りてきたのはダーリャだ。その後を追うようにミュゼとミシェサーも来た。
「ミュゼ、多分損害無し。もっかい来るかなって思って備えといたのが良かったみたい」
「損害報告ですか? こちらダーリャ、被害はありません」
「ミシェサー、私自身の被害は無いでーす。……しかし、お借りした部屋の荷物が崩れてます」
次々来る報告のうち、ミシェサーの報告にディルとヴァリンがそちらを見た。
「部屋の荷物?」
「あー、はい。私が借りてる部屋、前居た人の荷物がそのままみたいでー」
「……何号室だったか」
「三号室です。二階の」
ああ、と全員が納得した顔になる。
ヴァリンが彼女に渡した鍵は、先日までオルキデとマゼンタが使っていた部屋のものだった。
別に荷物がどうなろうと、処分して良いと言われている物品なので誰も興味が無い。被害といえるものでも無かった。
「捨て置いて構わぬ。破損したものがあれば一階に下ろせ、処分する」
「良いんですかー?」
「不用品は片付けねばならぬであろ。使いたいものがあるなら使えばいい、それ以外は邪魔になる」
「あの部屋の物、勝手に使って良いとは言われましたけどぉー……化粧品は少ないし服なんて入らなくて困ってるんですよねー。特に胸」
「あはははミシェサー、ちょっと黙ろうか」
その場で自分の胸を寄せてあげるミシェサーに、肉付きの薄いミュゼが苛立ちを露わにする。胸の格差を感じたジャスミンも眉を下げていた。
「でもぉ、不用品とか本当に処分していいか分からなくてぇ……。ミュゼさーん、ジャスミンさーん。手伝ってくれませんー?」
「へ? 私?」
「え……?」
「私の体型に合わない服でもお二人なら着られると思ってぇ!」
「………。それ侮辱?」
やだぁーそんな訳ないじゃないですかぁー、と軽い調子でミュゼとジャスミンの腕を引くミシェサー。今すぐ部屋に連れて行こうとしているようだ。
え、今!? とミュゼがディルを振り返るも、ディルは特に気にする様子も無く。
「再び揺れぬとも限らぬ、其れだけ注意せよ。我等は未だ此処に残る」
と、言うだけ。
結局二人に助けの手を差し伸べる者も無く、笑顔のミシェサーと階段を上るしかなかった。
ジャスミンも逆らう言葉が思い浮かばず、驚き慌てる表情を浮かべながらも引きずられるように連れて行かれた。
「……なんだよもー、こんな時間から荷物の片付けとかしなくていいだろぉー……」
「……」
部屋に入ったミシェサーは、笑顔を掻き消し鍵を閉める。
かちり、という音が耳に届いてから、ミュゼは勢いよくミシェサーに振り返った。
「ミュゼさん、ジャスミンさん」
その声は、先程までの軽薄なものではない。
「……え、な、なんですか?」
「……何だよ」
「この部屋、オルキデ様とマゼンタ様が使っていた場所ですね?」
騎士である以上、問題行動ばかりを起こしていては地位も剥奪される事が有る。それを情報として知っていても、真面目な騎士としてのミシェサーの姿をジャスミンとミュゼは想像できなかった。
先程まで二人を茶化すような言動を繰り広げていた直後に真面目な顔を見せられて、二人の理解が及ばない。
「先程までの無礼をお許しください。お二人が、『j'a dore』の一員である事を前提として見ていただきたいものがあります」
二人の目の前で、ミシェサーが傅く。
無礼だという自覚はあったのだ。騎士としての礼を見せる姿は、茶化した姿と乖離が激しくジャスミンの理解が追い付かない。目の前の女がこの短時間で入れ替わったのではないかとさえ疑ってしまう。腕を引かれていた記憶があるのに、だ。
「……見ていただきたいもの、って?」
ミュゼは動揺しつつも、話を進めようとする。害意があって他の面々と離した訳では無いと分かるから。
ミシェサーは立ち上がり、崩れたという荷物の中から厚みのある本を取り出した。埃を被っているそれは、表紙からアルセンの公用語とは違う文字が書かれている。
「私も多少、他国の語学の心得はありますが……所々の単語しか読めませんでした。近隣諸国の言語とも違いますし、最終的には他の方々にも見て貰う事になるでしょうけれど、先にお二人のお知恵をお借りできれば……と」
「他国の言語……? 待ってください、見ても良い物なんですか? それに他国って、何処の国のものかも知らないのに私に読めるか……」
「他国とはいえ、この部屋が草民二人の部屋となれば……その国が何処か分かるでしょう」
プロフェス・ヒュムネを差別する呼称を使うのは、ミシェサーもあの二人を心底嫌っているから。
ミュゼが本に手を伸ばす。ミシェサーが渡すそれを開くと、早速一文字としてアルセンの言葉ではない文字が並んでいる。
「うわ……」
「……」
「表紙にあるこれは名前だと思うのです。こちらの二文字は、恐らく『日記』。内文も幾らか目を通しましたが、私では全てを解読するに至りませんでした」
「ちょっと違うな。『備忘』だこれ。……名前……これ、なんて読むんだ……? 名前の綴りまでは読み方分からんな」
「!!」
ジャスミンとミシェサーが目を瞠る。ミュゼが表紙と内文を見比べていた。
「……名前の最初の二文字は『アカサカ』の筈です。ファルビィティスの王族はその姓を名乗ります」
「へー、そうなんだ。日付表記はアルセンと同じだな。……ああ、これわざと難しい字使ってるぞ。普通に書けばいいものを、多分読み取られるのを防ぐ暗号の代わりだな」
「ファルビィティスの言語を読めるのですか、ミュゼさん」
「多少はね。ちょっと待って、解読しながら内容言うの無理」
待て、と言われれば二人は解読を待つしかない。大人しく二つある寝台にそれぞれ腰掛けていると、独り言のようにミュゼが口を開く。
「あー……、これオルキデの備忘録だな。日記とは意味も同じだけど、字面が難しい方選んだんだろう。マゼンタっぽい名前もあるが……これ、私じゃ読めない。まぁいい、名前の部分はあの二人の名前を入れて読むしかないか」
ふんふんと言いながら読み進めるミュゼ。そんな特技まであったのか、とジャスミンがまた新たな一面を発見して、その多才さに気後れする。
ほー、とか、はーん、とか、一人だけ理解している顔で読んでいく様子にミシェサーが焦れた。既に二十年前に滅びた国の言語を理解出来るなんて、アルセン王国にももう殆ど居ないのに。
「……日記の始まりは、七年前か。この酒場に来て、暫く経ってから書いてるな。それとも、前の日記が埋まったから新しくしたのか。接客のやり方とか料理の作り方とかめっちゃ書いてある」
「それだけですか?」
「……いや、……え……んー。……え、い……す。多分エイスの事が書いてあるな。……そういや酒場の初代マスター、だったっけあの野郎」
顔を合わせた事も無い相手に毒づいたミュゼは、更に頁を捲っていく。
「…………、……。……ああ、……うん。……へぇ」
「何が書いてあったんですか?」
「うーん。オリビエは穏健派って感じの事が書いてあるな。あと、エイスは結構罪作りって話だ。……最後の頁は、……ああ」
ざっと中を読み進めていたミュゼが、一番最後の頁を捲る。
その日付は七年前の冬だった。
「……初代マスターが死んだ話が書いてある。……あ……んん? こう書いてアイツの名前になるのか? はー……。……うーん。……は?」
百面相をするミュゼにもう問いかけもせず、二人は解読を待つ。
やがて本を閉じたミュゼは、目頭を押さえて唸り始めた。
「うん、……なんとなく、予想は付いてたんだけど……。こう、文章にされると……なんていうか……困るな」
「何が……?」
「その備忘録には何と?」
「もういいよ日記で。えーと、な」
ミュゼは目を瞬かせ、表紙に指を滑らせる。
『朱酒緑蘭』と書かれた名前の読み方も分からないが、中に書かれていた情と後悔は読み取れた。
「オルキデは初代マスターのエイスが好きだった。エイスはマゼンタが殺した。オルキデは殺しの際に自分達が無実であるよう偽装した。ずっとエイスの義妹弟達に黙っている事になるのか……って辺りで終わってるな。全部読めたわけじゃないけど、多分概ねそんな感じ」
エイスと関わりの無い二人は、その死の理由にこれといった反応を見せない。
ミュゼの表情は曇ったままだが、ジャスミンは異国語読解の知識を持つミュゼに目を輝かせていた。
「……何で読めるの、ミュゼ……?」
「まぁ、色々あって。多分、重要な所とかはそのくらい。ミシェサー、他に同じような日記無かった?」
「見えたのはその一冊だけです。奥まで探せばあるかも知れません」
「んじゃ、ちょっと探すかぁ。……これ、いつ下の奴等に見せる?」
「……他にも日記が無いかどうか確認した後で、にしましょうか。一斉に出した方が良いでしょうし」
「じゃあ、私も探すの手伝います」
ジャスミンとミシェサーは、崩れた荷物や置きっぱなしの雑貨の中から日記を探す。
ミュゼは捜索を二人に任せ、再び最後の頁を開いた。
「………。殺したつもりなら、ちゃんと殺しとけよ」
二人に聞かれないような小声で、そう呟いて。