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「さて」
ディルとジャスミンが施設長室に向かってから十分が経過した頃の応接室で、そろそろ頃合いかと動き出したのはダーリャだった。それまで座っていたソファから腰を上げると、職員がぎょっとした顔で彼を見る。
「だ、ダーリャ様。どちらへ?」
「いやなに、このまま待っていてはこちらも暇ですからな。私が『月』と同時に施設長の座を退いた後の、この施設の状況を見ておきたい」
「状況と言われましても……。フュンフ様が施設長をしていらっしゃるのです、手の抜きようがありませんよ」
「でしょうな。それはそれで逆に気になるのですよ。部下に無理をさせていないかとか、完璧を目指す余り子供達に無理な指導をしていないだろうか、とか……」
「おじいちゃんって、実家を離れた子供の世話を焼くタイプですか」
「私に子供はいませんよ」
分かり切った事を言い合って、うふふと笑い合う二人。職員は二人の関係が分からずに困惑している。
今の時間は日が沈んでいて、子供達だって就寝の準備中だ。今来客に気付くと興奮で寝ないかも知れない。
ダーリャだって分かっているけれど、遠目から見るくらいなら大丈夫だろうという考えだ。
「少し、屋外を散歩してきます。なるべく、子供達には見つからないようにするので大丈夫です」
「本当ですか……?」
「本当ですよ。ミョゾティスさん、貴女もどうですか?」
「え、私?」
ミュゼもこの施設には世話になった。ある程度の建物の作りはまだ頭の中に残っている。
でも、どうしても一緒に行く気にはなれなかった。
エデンとオードから受けた言葉の刃が、『うそつき』と謗られた記憶が、今でも胸に刺さっている気がしているから。
「私は……ここで、待ってます。おじいちゃんなら一人で大丈夫でしょ、いってらっしゃい」
そう言って見送ることにする。
酒場であの双子と顔を合わせて問題があるのは、自分とディルだけだ、と言い聞かせて。
ダーリャは大丈夫。わざわざ子供達の居る場所へ、自分から行かないだろう、と楽観視して。
見送りの言葉を受けたダーリャは、微笑みを残して応接室を後にした。
王城随一の教育と清潔を誇る最良の孤児院。
ダーリャが勤めていた頃から、この施設は城下で一番優れた孤児院だった。
職員を親のように慕う子供達には、過去が辛くとも未来に希望を持ってほしいと、ずっと願っている。
本当はダーリャもそこまで心配はしていない。フュンフは貴族出身でありながら、孤児達に向ける慈愛は深かったのを見ていたから。
綺麗に清掃された廊下。そして屋外に出ても、生えている雑草も少なく素足で踏んで痛いような大きい石さえ転がっていない。
屋内からは就寝直前の子供達の楽しそうな声が聞こえて来て、ダーリャの頬が知らず緩んだ。
変わらない事が、全て良い事だとは思わない。
けれど子供を第一に考えて大切に思う志だけは、変わって欲しくなかった。
「……ん?」
窓から見える屋内に視線をやると、廊下を進む頭のようなものが窓の下側に見えた。暗くてはっきりとは分からないが、髪の色は暗い銀色のよう。
身長から見て、まだ幼いようだ。寝床を脱走したのか、それとも水でも飲みに出たのか。
後を付いていく職員の姿も見えず、少しだけ気になって視線を向けたまま。
その小さな頭が向かったのは、遊戯室になっている大部屋だった。
「……」
その年で夜更かしを覚えた不良幼児なのか。その子の行動がどうも気になったダーリャは、子供達の目から遠ざかるように大回りをして廊下に戻った。それから遊戯室に向かう。扉の影から見守る事にした。
「………」
子供は一人のようだった。髪は長く、上下一続きになっている服の背中まで伸ばしている。幼い女の子は、遊戯室というのに揃えられている玩具に触れることなく、床にぺたりと座って窓の外を見ていた。
見上げているのは、夜空に輝く月。子供だというのに、悲し気な背中だ。
まるで、月を何かに見立てて、側に来てくれるのをずっと待っているような。
「……こんばんは、お嬢さん」
背中に滲む悲しさに耐えられなくなって、ダーリャが女の子へと声をかけた。びくりと身を震わせたその子供は、恐る恐る振り返る。
ダーリャの息が詰まりそうになった。
暗い銀色の長い髪。
驚きを目いっぱいに湛えた大きな灰茶の瞳。
短いながら尖っている耳は混ざり子の証。
その姿は幼いながら、過去に死んだと聞いている知人によく似ている気がしたから。
「……だれ……?」
怯えた顔で、ダーリャに問い掛ける声は高い。その声で、半ば放心していたダーリャも我に返った。
安心して貰えるよう、ダーリャはなるべく近寄らないように、しかし視線が合うように身を屈める。
「失礼。ダーリャ、と申します。ここの施設長をしているフュンフと知り合いでして、今日お邪魔しているのですよ」
「……せんせい、と?」
「こんな時間に遊戯室に入るなんて、悪い子ですね。今の時間は皆、眠る準備をしているでしょう?」
「………」
子供は、月を見上げた。
「おつきさまに、おねがいしていたの」
「お願い?」
「せんせい、たいちょうが、わるいんだって。だから、はやくよくなりますように、って……」
「ああ……。大丈夫ですよ、今、お医者様が彼を看ていますからね」
「おいしゃさま!? せんせい、よくなるの!?」
「ええ、勿論。フュンフは強いですから、貴女を安心させるためにも早く良くなってもらわないといけませんね」
「……そっかぁ、よくなるのかぁ」
子供の浮かべた笑顔は、とても嬉しそうで。そして。
「……よかったぁ」
亡くなった筈の知人が、想い人の事を考えて笑む時と同じ表情で笑った。
「――」
この城下を出てかなりの時間が経ったダーリャでも、その笑顔と重なる人物のことは覚えていた。
ダーリャが引き取って世話を焼いたディルを、長い期間心から想っていた女だ。彼女の墓まで参って、その死を確実に知っているのに、どうしても彼女の姿を重ねてしまう。
あまりに似過ぎている気がして、疑問が幾つも浮かんだ。
「……お嬢さん、お名前は?」
「……?」
首を傾げた子供は、その問いに答えるべきか迷っているようだった。
「なまえ、どうして?」
「貴女によく似た人を、知っている気がして」
「……エデン」
短く名乗ったその子に、ダーリャは不必要に警戒されていないのだと理解する。
手の届く場所まで距離を詰めた。エデンは逃げない。
「……お年は、おいくつですか?」
「……よんさい」
「そう、ですか」
彼女が死んだのは六年前だと聞いている。だから、『彼女』の子供という線は限りなく低い。
ダーリャが知っている情報を繋げたら、結論はそう出てしまった。
年齢を聞いた時、ダーリャの胸に過ったのは悲しみだ。もし『彼女』が生きていたら、ディルの子供もこのくらいの年齢になっていたかも知れない。
寂しそうな子供を見ているのは忍びない。
それ以上でも、以下でもない。
だから、誰に似ているなんて言及せずに、エデンの頭に手を伸ばして撫でた。
「わ」
「四歳でお祈りとは、関心ですね。フュンフも喜ぶでしょう」
「ほんと? せんせい、よろこんでくれるかなぁ」
笑顔を浮かべるエデンに、フュンフは施設長としてよくやっているのだと悟る。
こんな小さい子に慕われ、身を案じられ、幸せ者だと。
ダーリャがこの施設に心配事はないのだと笑顔を浮かべた頃。
「――おねえちゃんっ!!」
遊戯室に声が響いた。振り返ると、入り口にまた一人子供が立っている。
こちらはエデンのよりも明るい白銀色をした髪が顎の付近で切り揃えられ、上下で分かれた寝間着を着ていた。
「オード?」
「さがしたよっ! なんでかってにどっかいくの! そのひとだれ!!」
こちらは初対面のダーリャに嫌悪感を露わにしている。近寄れば噛みつかれそうな顔で、エデンに近付いた子供はその腕を引く。
「オード、まって。このひと、せんせいのしりあいって」
「おねえちゃん、しらないひとのことしんじちゃだめっていわれてるでしょ!! いくよ!!」
「まってよ、オード、オードぉ」
問答無用でエデンの腕を引くオードと呼ばれた子供は、そのまま遊戯室を後にした。他人に対して無謀なまでの敵対心を持ったオードは男の子のように見える。
姉と呼んだ割には、身長は然程変わらない。もしかすると、血の繋がりは無くとも本人達が姉弟と呼んでいるのかと思った頃。職員の一人が、遊戯室のダーリャを見つけた。
「ダーリャ様、こちらにいらっしゃったのですか」
「ええ……。先程、子供の一人がこの部屋へ入っていくのが見えまして」
「オードが……ああ、髪が短い方です。あの子が酷く興奮していました。まだ部屋で喚いているようで……その、ダーリャ様といえど不用意に近づかれるのは、困ります」
「それは……すみません」
「普段はオードも良い子なのですよ。ですが、姉が心配だったのでしょうね」
「心配にしては……少し過剰なようでしたが。何かあったのですか?」
「………」
職員は黙ってしまった。聞き直すのは簡単だが、既にダーリャはこの施設と直接的な関係は無い。だから問うのを躊躇った。
職員の脳裏には、数か月前にあったあの惨状が蘇っていた。そして同時に、無関係な者に伝えるべきではないと考える。
「二人は、双子のようですから。だから、余計にあのような反応をしてしまうのでしょうね」
「双子?」
「ええ。同じ日に、臍の緒がついたままの二人が門の前に捨てられていたのです」
「……そんな」
昔から、産んで直ぐ子を捨てる親の話は無い訳ではない。ダーリャは二人の出生を不憫に思って俯いた。
そんな非人道的な行為を、知人であるディルの妻がする訳がないとも考え直し、ダーリャは職員にもう一度謝罪を述べると遊戯室を出て応接室に戻ろうとする。
「……」
しかしその途中で、ダーリャはふと足を止めた。
オードという名を持つあの子供の、ダーリャを見る時の冷たい目付き。
氷を宿したかのような温度の視線と殺気は、どこかディルに似ていたようにも見えたのだ。