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「ディっ……、ディル様!? それに、ダーリャ様も……!」
孤児院の門を過ぎ、応接室に通された四人はソファに掛けている。
応対してくれた職員は二人の事を覚えている程度には長い勤務の者だった。
四人に茶を出す職員の手が震えている。かつて『月』の隊長として国に仕えていた者達から感じる圧は、当時と変わらない。
「悠長に茶を飲んでいる時間はない。フュンフは何処に居る」
「……は、はい。その、今は施設長室でお休みになっています。皆様がお見えになった事を伝えたのですが、もし移る病であった場合の事を考えて、申し訳ないのですが見舞いは辞退すると……」
「施設長室ですね」
動いたのが一番早かったのはジャスミンだ。それまでダーリャが持って来ていた荷物を担ぎ、席を立つ。
躊躇いも何もない動作に、職員が目を剥いた。
「マスター、案内をお願いします」
「ああ」
「ちょ、ちょっとお待ちください! 私の言葉はお耳に届いたでしょうか!?」
「届いてますよ、大丈夫です」
ダーリャとミュゼは、その場で紅茶を手にした。受け皿ごと持ち上げて、二人だけのんびりと香りを楽しむ。
ダーリャは荷物持ちで、ミュゼはジャスミンに何かあった時の補助役だ。今はやることが無いから、平然としていられる。
職員の制止も聞かず、ディルとジャスミンは応接室を出て行った。話を聞かない二人の様子に途方に暮れた職員は、頭を荒く掻きながらその部屋に留まる。出て行った二人は無理でも、残った二人がこれ以上勝手な事をしないよう見張り役が必要だったからだ。
「ん」
施設長室の前まで来たディルは、無遠慮に扉に手を掛けた。
無骨ささえ漂わせる焦げ茶の扉は、鍵が掛かっていて開かない。権力と比例するように質が良く厚いそれの取っ手を何度押そうと捻ろうと、今はがたがたと音を立てるだけだ。
「開かないんですか?」
「の、ようだ」
「鍵って他の方がお持ちだったりします? 職員さんに聞いてみま――」
「必要は無い」
「え?」
ディルは一歩だけ後退りすると、片膝を立てるようにしてしゃがみ込んだ。
立てた足は右。踝辺りから手を膝に滑らせ、何かを唱えた。それが何の儀式になるか、ジャスミンは知らない。
誰にも見えない裾の奥、服の中ではディルの義足に装着されている魔宝石が淡い光を放っている。
「『砕』」
短く低い声では、何と言ったのかジャスミンには分からない。
ディルは立ち上がると、左足を軸にして右足だけ更に半歩分下げた。
まさか。蹴り開けるつもりか。こんな頑丈そうな扉を。
ジャスミンの予感は確信に近く、しかし止める前には既にディルは体重を込めて体を捻っていた。
「っ、ふ!」
短く息を漏らしたディルが、義足で扉を蹴破った。鍵が壊れて開くだけなら、ジャスミンが想像していた最良の結果だ。
しかし現実はそれどころではない。扉は力が籠った場所から破壊され、幾らかが文字通りの木端微塵となって部屋の中に飛び散る。破砕音と同時に鍵や取っ手も吹き飛んで、扉の意味を成さない半分ほど崩れた木の板が軋む音を立てて開いた。
「………え?」
散らばる木屑が視界に残る中、ジャスミンは理解が出来ずにいる。
「なんですか、これ」
「騎士隊長経験者であればこの程度朝飯前だ」
珍しくディルが嘯く。そんな訳あるか、とジャスミンが思うも口には出せない。
「……いいんですか、これ」
「我等に顔を見せぬ無礼への代償はこんなもので良かろう」
「………」
謝罪の手紙を無視し、酒場に来たら手荒く追い返していたというディルが言える事じゃなかった。
なし崩し的に酒場を取り巻く色々な情報に触れたジャスミンだが、ディルがフュンフに対する扱いはどうにも雑で、本当にこんな男が隊長として慕われていたのか疑問が残る。
ディルの妻も粗暴とは聞いたが、扉を蹴破るような夫を超えるような性格はしていないだろう。
――と、考えた所で何故か頭痛がした。
「っ、……?」
思わずよろめいて頭を抱える。
頭痛持ちではない筈なのに、ここ最近変に頭が痛む気がする。
おかしいのは頭痛だけではない。幻聴も幻覚もたまに見る。作っている薬を誤って嗅いでしまったせいかとも思ったが、幻覚作用のある薬作りに着手していない時も同じ現象が起こっていた。
――うんジャス
これは幻聴だ。
――それって絶対……の……通して想像してたよね?
聞き覚えのない声が、記憶にない言葉を喋る。
正気の時は聞いた事の無い声で紡がれる自分の愛称は、痛む頭に響いている。
少し低くて掠れている声は以前も聞こえた気がした。何処か困ったような、それでも親しみを感じる声の主に覚えなんて無くて。
添えた手から、頭自体が疼いているような感覚を覚えて顔を顰めるジャスミン。木片散らばる部屋の中に足を進めたディルは、彼女が後に続かない事を不思議に思って振り返った。
「ジャスミン?」
「ん……いえ、……大丈夫です……」
「顔が青い」
「ちょっと、頭痛がして」
頭痛と聞けばディルだって非道ではなく、もう一度ジャスミンの側まで戻って背の荷物を持ってやる。
ジャスミンも抵抗しなかった。促されて中にあるソファに座り、息を整える短い時間だけ頭を抱えた。
「……フュンフ様、……施設長室にいるって話じゃなかったですか……? 此処にはいませんね……?」
「あれだ」
「あれ……?」
あれ、と示されたのはジャスミンの背中側にある扉だ。壊したのと別にふたつある中のひとつ。
ディルはジャスミンの荷を側に下ろすと、向かいに腰掛けた。
「あれは仮眠室に繋がっている。あの者は仕事が滞る事を何より嫌う。起き上がれずとも口頭で済む仕事はやっておきたいと思っていたのではないか」
「……少しお会いした時も思いましたが……フュンフ様って、なかなか……早死にしてもおかしくない勤務形態ですよね?」
「ああいう手合いは早死にする為に仕事をしているようなものだ。尤も、今直ぐに死にそうには無いが」
「え」
ディルの視線は、ジャスミンの背後へ注がれている。
音も無く開いた扉は僅かに向こうが見える半開き。そこに、血の気の失せた男が顔を半分だけ覗かせて二人を見ていた。
「ひぎっ……!?」
ジャスミンの頭痛すら何処かへ飛んでいくような衝撃と恐怖。
落ち窪んだような瞳を片方だけ見せる人物は、頭から毛布を被って体に巻き付けているようだった。
ディルはそんな男を見ても、特に驚いたような反応はしない。
「体調は如何か、フュンフ」
「……移ると事だからと、言付けた筈ですが……」
「死ぬ気で移すな」
「御無体な……」
ジャスミンがその亡霊のような男がフュンフだと気付いた後は、行動が早かった。
即座に立ち上がり、ソファを越えてフュンフの居る扉へと歩いていく。ずかずか無遠慮な大股になるのは、それだけ気合が入っているから。
体調を崩しているフュンフは、反応が遅れた。
だから。
ありったけの力を込めて、扉を大きく開くジャスミンの力に抗えなかった。眼帯を巻いて片方しか見えない瞳は彼女の姿をしっかりと映している。
「毒殺騒ぎに巻き込まれたとお伺いしました。診察致します」
ジャスミンの瞳は大きく見開かれており、騎士隊長を勤めるフュンフさえも迫力に押し黙る。
ずい、と身を乗り出した彼女に、病が移らないよう同じくらいの幅を後退るしか出来ない。
「……でぃ、ディル様。まさか、その為に……?」
「何やら病に心当たりがあるようでな。好きにさせよ」
「好きに、とはっ……!? ジャス、ジャスミン……そう近寄るのは止めんか、もし移る病であった時、君にも被害が」
「移りません」
言い切ったジャスミンの言葉に、フュンフが己の耳を疑った。
そこまではっきりと断言する理由が分からなかったからだ。
城にも、似たような症状で苦しんでいる者がいる。宮廷医師だけでは手が回らずに、城内は日常業務さえままならないのだ。
城に仕える医者ですら判断の付かなかった病を、この女が知っているとはどうしても思えなかった。しかし、その瞳ははっきりと理由を知っている気がした。
「移らないです。ですが私の考えている通りの症状なら、他の医者でも病名の判断が難しいでしょう。私なら即座に対応できます。その為に、色々持ち出して来ました」
荷物を示したジャスミン。フュンフは彼女と荷物を交互に見遣り、その自信が何処から来るものか考えあぐねている。本当は立っているのもまだ辛い。
医学の心得があまり無いフュンフでは、考えていても意味がない事は分かっている。暫く無言を通し、やがて諦めたように仮眠室へと引っ込んでいく。
「……診察は、手短に……頼む。本当に移る病だった場合……君を通してディル様に移るかも知れない。そうなった場合、申し訳が立たない」
「こんな時でもマスターの心配ばかりなんですね」
「当然だ。……ディル様の身の安全は、私だけの願いではないのだから……」
仮眠室の寝台へ戻る途中で、フュンフは何度も体が傾いでよろめいた。意地だけで寝床へ戻ったフュンフの息はそれだけで荒くなっている。
ジャスミンは荷を抱え、仮眠室へ入っていく。その扉を閉めないままなので、ディルからも中の様子が良く見えている。
何もかも、ディルが知っているままの部屋だ。施設長室も、仮眠室も。ディルだって内装を変えたりしていないので、ダーリャが使っていた時と同じ。
時間が止まったような空間で、フュンフが情けない声をあげている。気が付けばジャスミンが服をひん剥いていた。
「す……っ、すこし、待たないか……! 服くらい、自分で、脱げるっ……! いや、寧ろ脱ぐ必要性を感じないのだが……!?」
「何言ってるんですか、フュンフ様。貴方の目の前にいるのは医者ですよ。医者の言う事はちゃんと聞いてくださいね。それに今、関節動かすだけで痛いでしょう」
「……、……何故、分かる?」
「分かります。……分かりますよ」
フュンフの上半身を引っぺがした後、フュンフを横にさせて軽く触診してからジャスミンが唇を噛む。
内臓の中でも腸付近に痛みが集中しているようだ。表情から読み取るに、手を離す時に一番痛むらしい。
その痛みで、ジャスミンの予感は当たっているのだと分かる。説明を誤解されようと、嘘は吐けない。
「それは多分、私が知っている毒ですから。私の親友が採取して、私が調合して、そして謁見の間で処刑された女性に護身用として持たせた、場合に因っては死に至る毒です。皮膚付着で痛み、経口摂取で消化器障害と神経障害その他諸々を起こします。そう、丁度今のフュンフ様のような」
「毒……っ? まさか君は、毒を王城に盛ったと」
「違います。だって、あの毒はオリビエさんが持っていた。そのオリビエさんが殺された以上、毒を誰がどうしたかなんて私に知りようも無い」
薬を語る時や患者を前にした時、ジャスミンは人格が変わったようになる。
医師である彼女を目の前にして、フュンフは再び圧倒されている。
万の命を預かる立場の者が、万の命を救う立場の者に。
「取得した誰かが扱いを間違えたとしか思えないんです。……例えば、料理に使う水を汲んでいる井戸やその側に捨てたとか。オリビエさんが殺されてから今日まで、あの毒がどうされたか疑問でしたが……その答えは、もう出ていたんですね」
言いながらジャスミンは自分の荷を漁る。粉末状になっている薬草を三種類。それから既に丸薬にしてある黒い粒を二つ。それらを持参の擂り鉢に入れると力を込めて砕き始める。
持参した水は、酒場で調達した空き瓶に入っていた。それを少し加えつつ練り上げた物体を、フュンフに見せた。
「この量で、一人分です。均等量を必ず一日三回、食後に服用してください。五日分です」
「……これを、飲めと?」
「その間、水は普段より多めに飲んでください。体外に毒を排出するのが目的ですので。けれど王城の水は勿論、王城に近いこの孤児院の水も怪しいです。子供が数多いこの場所では、水は別の街から採取する方が良いかも知れませんね」
「………君を、完全に信用するには……君がディル様の配下だという事実しかない訳だが……」
「我が保証しよう」
生来の疑心が素直に応と言わせてくれないフュンフだったが、盗み聞かずとも話が耳に入っていたディルが助け舟を出すことで渋々頷いた。
ジャスミンはそれを承諾と受け取り、早速薬を油脂に均等に分けだす。十五回分の薬が出来上がって、一回分をその場で差し出した。今すぐ飲め、と視線が語っている。
「水は、ここにあります。他の方々の薬も用立てなければならないかも知れませんので、どうかお早く――」
「待て」
次を急ごうとするジャスミンに制止を掛けたのはディルだった。それは、フュンフに飲ませるのを止めた訳ではない。
「他の者の薬、と言ったな」
「え……? はい。騎士の方々が苦しんでるって、ミシェサーさんが仰ってましたし。毒で苦しんでいるというのなら、皆さんにお配りしないと」
「作るのは良い。だが、配るのは待て」
「……どうしてです?」
ディルは、ジャスミンの医師としての志を知っている。知っていても、それを優先させてやれない時もある。
今が、それだった。
「我等と敵対しないと確信が持てる者にのみ、アールヴァリン経由で渡させよう」
「……そんな!! 毒の苦しみから助けるのに、敵味方で分けるなんて!」
「歯向かう者は、少なければ少ない方が良い。王妃もカリオンさえも、その腹積もりであったろう。成れば奴等も、属する者の振舞い次第で不利益を被る場合が有ると理解している筈だ」
「……でも……」
「ジャスミン。敵の回復は、我等の命に関わる。……其れに」
尚も渋るジャスミンに、冷たく言い放つ。
「回復しようがしまいが、妻を奪還する時に我の前に立つ者は全員殺す。汝が命の重さを説くのなら、今病に伏して我が前に現れぬ者が増える事を願うべきだ」
言葉の意味を理解出来ても、納得したくない。
ジャスミンは下を向くだけだ。ディルの決意は前から聞いている。聞いて、城下に残ると言う選択をした筈だった。
「――……。……命は……数だけではないですよ……? それぞれ一人一人の命は重くて、数だけで括るなんて、本当はしちゃいけない事だって……私は……」
「で、あろう。我とて知っている。だが、そう考えねば割り切れぬ者も居る。……その上で」
ディルには、他に向ける慈悲などくれてやる余裕がないのもジャスミンは知っていた。
「妻の命は……我にとって、万を超える者の命よりも、重い」
知っているからこそ、それ以上否を言えずにいた。